悪魔の接吻

 気にするな、などと言われれば尚更気になるのが人間のさがである。


 俺は今朝方のつかさの溌剌はつらつとした態度と物言いを満遍なく思い出しながら、よく噛まないで飲み込んでしまった食べ物が存在感ゴリゴリで食道を通り過ぎている時のようなつっかかりを感じていた。


 良い気のしない違和感を抱いたまま一通りの家事をマリナと分担してこなし、一息つく頃には窓から見える景色には橙色が広がっていた。

 日が沈むのが早くなってきている。もう秋も深まってきたな。


 つかさが気にしていないと言う以上は俺が気にしたところで、切り替えを間違えて一生ループし続けているトロッコのような綺麗な不完全堂々巡りにしかならない。

 プサンに手を差し伸べるリ◯カの如き救世主が現れるはずもなく、俺が昨日倉庫で体験した裏イベントのような苦酸っぱい思い出は、俺の頭の中の未解明ボックスの新たなコレクションとして並べられた。


 人の心情のオーラを読み取ることのできる悪魔的存在――というか悪魔そのものなんだけど――がつかさの発言を嘘扱いしていたし、今日の様子だとつかさから改めてあの日の真相を語ってくれることもなさそうだ。

 

 赤髪の悪魔もこれ以上助言をくれることはなく、マリナにちょっかいを出してはドタバタと騒がしくなり、しまいには次元の狭間に隠れてマリナの怒りが静まるのを待つことを繰り返している。お前は好きな子にちょっかいを出す小学生かよ。


 朝食に加え、昼食も作ってくれたマリナに変わり、気を取り直しがてら夕食は俺が作ることにした。

 こんな時は何かに没頭するに限る。


 マリナとヘカテーに留守と停戦を命じ、今現在食材を求めて俺はスーパーに来ていた。

 日が落ちたこの時間こそ値引きの狙い目でもあり、それでなくても食費が数倍になってしまった現状、ここに縋らない手はないだろう。


 昼はパスタ(のようなもの)だったので、夜は順当に肉か魚かな、安いものがあればそれを中心に献立を考えようと、ふらり生鮮コーナーを通るととある魚が目に入った。


 きす

 ……。


 何だよ魚、お前まで俺の悩みを増長させに来ているのか。

 そんなおまえは天ぷらの刑だ。

 鱚なんてスーパーに並ぶのは珍しいし、カラーバス効果かもしれないが何かの縁ということにしておいてやろう。サラダ油も買わなきゃな。


「ユウスケ?」


 鱚を手に取る俺の背後から聞いたことのある声がかかった。

 顔だけ振り返るとそこには上下灰色のウィンドブレーカーを着たショートボブのつかさが悪戯がばれた時の子供のような顔をして立っていた。


「つかさ……」

「……お、おう、よく会うな!」


 本当に。

 というか本当に偶然なのか?


 つかさはすぐにいつもの笑顔に戻り、


「ユウスケ、何買おうとしてるんだ?」


 眉根をあげて俺が手に持つ発泡スチロールのトレイに顔を近づけたと思えば、すぐに険しい顔になり唸りだした。


「んんんー? 魚へんに喜ぶ……んー。なあユウスケ、なんて読むんだ?」

「……」


 ……お前って自覚なしにデリケートな問題にぶっこんでくるよな。

 ある意味すごいよ。


「何だ、ユウスケも分からないのかよ。何かわからないもん買おうとしてたのか?」

「いや、分かるけどさ」

「じゃあ何ていう魚だよ。教えてくれ」

「……嫌だ」


 昨日の今日でそんなドストレートな単語口にできるか!


「はぁーん。やっぱりユウスケも知らないんじゃねえかよ。見栄張るなって!」

「知ってるってば!」

「じゃあ教えてくれよ。ユウスケ先生?」

「……言いたくない」


 つかさは、左目には『疑いの』、右目には『まなこ』という文字がそれぞれ入っているかのような表情で薄ら嗤いながら、俺の顔を下から覗くように見てきた。


「男の知ったかぶりは見苦しいぞ、ユウスケ」

「本当に知ってるんだってば!」

「じゃなんで言わねえんだよ。知ってるなら言えばいいだろ」

「だぁー! もう、分かったよ! キス! キスだよ!」

「キッ……」


 案の定、つかさは一歩後退して分かりやすく狼狽の表情を作った。

 言わんこっちゃない。俺は心の中では後悔の悲鳴をあげている。


「どういう意味だよユウスケ……魚の名前よりも、俺とキスしたいってことか……?」

「いやいや、魚の名前だよ!」

「んなバカ見てえな名前の魚いる訳ねえだろ!」


 ……こいつ、よく大学入れたな、マジで。


 * * *


「なーんだ、そんなえっちぃ名前の魚、いるんだな」

「いや別にえっちくはないよ?」


 買い物を済ませた俺達は、並んで帰路に就いている。

 どさくさに紛れて俺の買い物かごにお菓子やらジュースやらを混ぜてきたつかさとレジのところで多少の口論になり、店員に嫌な顔をされた。

 どうすんだよ、行きづらくなっちまったじゃねえか。重宝するスーパーなのに。


「いやぁ、てっきりユウスケは俺とキスしたかったのかと思っちまったぜ」


 いいながらつかさは俺が持つ袋の中を漁り、炭酸飲料のペットボトルを取り出した。

 おい、それ俺が金出したやつだ。後で返せよ。


「そう思われるから言いたくなかったんだってば」

「ふーん……」


 不意につかさはちょうど電灯の下あたりで歩みを止めた。

 俺も仕方なく止まって振り返る。


「なんだよ、帰ろうぜ」

「そんなに意識しちゃうくらい、ユウスケはあの時のキスの練習未遂のことを考えてたのか」


 何故かつかさは言葉とは釣り合わない程の真顔でそう言った。

 頭上からのライトが陰影をつけて、つかさが異様な雰囲気を醸し出しているように見える。


「考えてたっていうか、考えちゃってたっていうか」

「まあ、ユウスケは童貞君だからな」

「おい! 唐突なさげすみやめろ」


 俺のツッコミにもつかさは表情を変えない。一体どうした?


「俺は、あそこまででも充分満足できたけど、ユウスケはどうだったんだ? もしかして本当に実戦練習をしたかったか?」

「は?」


 俺は顔の筋肉が引き攣っていく感覚と共に、首から穴が開いて出たんじゃないかというような珍妙な声を出してしまった。

 実戦練習云々の是非のくだりではない。前半部分に対する疑問からの声だ。


「つかさ、満足って何だ? 何に満足したんだ?」


 少し上擦った声で訊いた俺の問いに、つかさは鼻で笑って少し顔を崩した。


「なんでもねえよ」


 吐き捨てるように言うと同時につかさが歩き始める。

 つかさは俺を見ずに真正面だけを見つめて俺の横を通り過ぎて、更に歩みを進めた。

 俺は未だ歩き始められず、袋を持ったまま呆然とつかさの後姿を見つめている。


 そして思い浮かべていた。

 ――倉庫での、誰よりも乙女で奥ゆかしくも真っ直ぐで、別人のように『女の子』だったつかさの表情。

 ――俺の真正面で俺の顔を見上げて、頬を染めながら眼を閉じたつかさの表情。


「おい、つかさ」

「なんだ?」


 俺の声に、つかさは顔だけ振り返るが、歩みは止めなかった。


「つかさ、もしかしてさ」


 早歩きでつかさとの距離を縮めながら、俺はつかさに問う。


「もしかして――」


 つかさに追いついたが、俺は次の言葉が出ない。

 口にすべきか否か、できるか否かもわからない。


 そんなパクパク状態の俺に、つかさはグイッと顔を近づけて、


「君のように勘のいいガキは嫌いだよ」


 といって歯を出して無邪気に笑んだ。

 笑顔なのに、俺の胸はギュッと苦しさを覚えた気がする。


「ガキって……」

「ま、とにかくユウスケは早くマリナちゃんにキスしちゃえよ! 細かいこと気にしてないで、たまには男らしいところ見せとかないと愛想尽かされんぞ?」


 そう言うとつかさは再び袋を漁り、中からチョコレート菓子の箱を取り出して、


「じゃ、また今度な! おっ先に~」


 そう続けて、点滅している横断歩道を走って渡り、そのまま走り去っていった。

 またしても俺はその後ろ姿を呆然と眺めていた。


 細かいこと――。

 お前にとってはそうじゃないってことか? つかさ。


 俺がもし本当に勘のいいガキだとするなら、俺の頭の中の未解明ボックスのコレクションの一つは、ややこしい形で解明されたようだ。


 * * *


 茫然自失と半信半疑の間で反復横跳びをキメながら自宅に着くと、青い芋ジャージ姿のマリナが出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、ユウスケ様」


 出会ったころからは考えられないような優しい笑顔で俺を見つめている。


 ――ま、とにかくユウスケは早くマリナちゃんにキスしちゃえよ!


 つかさの言葉が蘇り、俺は心拍数が上昇した。

 マリナの小さくて綺麗な唇ばかりに目が行く。


「どれどれ、検閲ですわ」


 お構いなしにヘカテーが赤髪を揺らしながらふわふわと飛んできて俺の袋を奪い、中を漁り始めた。

 次々に中のものをテーブルに並べていく。恐らくつまみ食いできる類の何かを探しているんだろう。


「それは検閲じゃなくて物色だろ」

「あら、失礼ですわね。危険な物がないか確認しているのですわ」


 よだれ垂らしながらそんなこと言われても説得力の欠片もない。

 心の中でそうツッコんでいると、ゴトンとテーブルにいちごジュースのペットボトルが置かれた。


 俺は近づいてそれを手にする。

 これは、つかさが勝手に俺の買い物かごに入れたものの一つだ。


 後でつかさに……って、金は俺が出したんだよな。

 払う気もなさそうだったし、俺が飲んでも構わないはずだ。

 半ば自棄やけになって、俺はそのいちごジュースの蓋を開けて、グイッと飲んだ。


 ファーストキスはいちごの味ってか?

 そういえば、つかさってもうだれかとキスとかしたことあるのかな……。


「――キス、ですわ」


 ブーーーーッ!!


「……何やってますの? 汚いですわ、人間」


 勢いよく毒霧のようにジュースを噴き出した俺は、口周りをびっしょり濡らしたまま聞こえてきた声の方に目をる。

 そこには、発砲スチロールのトレイを持って碧眼を丸くするマリナとオッドアイなのに白い目を向けるヘカテーがいた。


 ……ああ、きすね。何回鱚に踊らされるんだよ、マジで。


 * * *


 憎き鱚をメッタメタに背開きにして (?)灼熱油地獄に放り込み、バリバリサクサクと八つ当たりのように食してやった。

 マリナもヘカテーも初めての料理におそるおそるといった手つきだったが、一口食べるなり顔が綻んでいたので安心した。


 使った食器をマリナと一緒に洗い終わると既に二十一時を回っていた。

 小休憩がてらコーヒーを二人分淹れて、一つは居間のテーブルに着くマリナに渡し、もう一つを持って俺は自室に行った。


 ここ最近の寝床である机に着き、コーヒーを一口。

 そして俺は部屋を見渡す。


 相変わらず俺の推しキャラ――ダンテちゃんという名前のキャラ――が描かれたポスターはあの日以来復活することなく消失したままだ。

 ベッドの枕元には、長い金髪が一本落ちている。

 

 そうだ。これが全て現実だ。


 俺はマリナストライアという女性とお付き合いをしている。

 それが異世界の住人だろうが、勇者の子孫だろうが、従者志望であろうが関係ない。


 ――ま、とにかくユウスケは早くマリナちゃんにキスしちゃえよ!


 つかさの言う通り、俺は男だ。

 自分から行動してこそ男、か。


「キス……」


 したこともないし、していいのかもわからないけど、やはり恋人同士ならするのが普通なんだよな?

 マリナもキスの意味は理解していたし、プリュギア向こうでもそれは普通なんだよな、きっと。


「ユウスケ様」


 俺が一人暗示のように自己確認をしていると、ガチャリとドアが開きマリナが入ってきた。

 片手には先程淹れたコーヒーのマグカップを持っている。


「ヘカテーがお風呂を沸かしてくれています」


 マリナは摺り足のような動きでベッドまで歩み、腰を下ろした。


「そうか、先に入っていいからね」

「はい、あの」


 マリナはマグカップを口元に持っていきながら、俺を上目遣いに見つめてこう続けた。


「もしかして、また何か悩んでます?」

「え」


 やっぱり、マリナは鋭いよな。

 それともマリナも思考が読める能力持ってたりするのか?


「もし私で良ければ、お話ききます」


 透き通った声で、真っ直ぐと俺の目を見つめてマリナはそう言う。

 俺は鼻で深呼吸をしてから、マグカップをテーブルに置いた。


「マリナはさ、その、俺とさ」

「はい」

「俺と、その、えーと……」

「?」


 ええい、まどろっこしいな俺、男だろ!


「マリナは俺と、キ、キスしたいと思うか?」


 本当はこんな確認自体しないで、行動に移せたらいいんだけども、でも俺そういうの本当よく分からないですし、もしマリナがそう思ってないのに無理やりみたいにしてしまったら最低な人間になってしまいますし、ならせめてお互いの意見の合致を確認してからでないと動くべきではないですし――


「したい、です」


 心で一人しょっぱい言い訳を念仏のように唱えている俺に、マリナの控えめな肯定が返ってきた。

 マリナがマグカップで隠す顔は、ほんのり赤く見えた。心臓が跳ねる。


「そ、そそそうか」


 俺は立ち上がる。マリナも続けて立ち上がった。

 自分の心臓を落ち着かせるためにマリナの持つマグカップを優しく奪い、机に置く。

 それから改めてマリナと向かい合う。


 若干上向きの顔を赤らめているマリナは、綺麗な青い目が潤んでいるように見えた。

 そしてマリナは、ゆっくりと長い睫毛と一緒に目蓋を閉じた。


 激しく乱れる脈と呼吸。

 今はヘカテーは風呂準備中、邪魔もない。


 意を決しろ俺。

 今こそ、男になる瞬間だ。

 慕ってくれるマリナの為にも。


 ゆっくりと顔を近づける。鼻息が当たらないかな、大丈夫かな。

 マリナは緩いハの字眉で目を閉じたまま。少し震えているようにも見える。


 もう少し。もう少し。

 マリナの小さな唇まで……俺も目を閉じて。




 

「もう少し顔を右に傾けるのですわ、でないと歯が当たりましてよ」



 天よりの助言か? ――とそんな訳はなく、あと少しのところで知った声に邪魔をされ、驚きと共に俺はマリナから離れてしまった。

 マリナも驚いたようで、肩をすくめて声の方に青い目を遣っている。


「ヘカテーッ!」

「あら、どうしたんですの? 続けてくださいな」


 ニヤケ面のヘカテーはうつ伏せのような姿勢でふわふわ宙に浮いている。

 折角勇気を振り絞ったのに!


「お前なぁ!」

「それとも、やっぱりキスは練習してからのほうがよろしいのではなくて? あの言葉の汚い女の方ではなく、わたくしがキスの練習相手になりますわよ?」

「えっ」


 最後の感嘆詞はマリナのものだった。

 おいヘカテーちゃん、そりゃないだろ…………。


「ユウスケ様どういうこと、です? 師匠が練習相手って……」


 マリナが俺に出会ったころのような怪訝な顔色を向けてきた。


 ……やっぱりお前は悪魔だ、ヘカテー。

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