悪魔の助言
日曜日。
椅子の上で目覚めるや否や、右肩や両腿に適度な筋肉痛が俺を襲い、「これで少しは運動不足解消になったかな」等と独り言を呟く俺の頭の中は全く違う事でいっぱいだった。
つかさの不自然な挑発と、去り際の涙。
あの後すぐに俺は倉庫を飛び出してつかさを追いかけようとしたが、姿は既にどこにも見当たらなかった。
面倒な倉庫整理を俺一人に押し付けて帰りやがって……という愚痴はこの際もうどうでもよかった。
俺は唯一の親友に何かひどいことをしてしまったのではないか――。
そんな懸念だけが頭上でクルクルと回り続けた。
電話をかけてみても出ない。メッセージアプリにも既読がつかない。
そのまま一日が終わり、次の日になったという訳だった。
人間というのは不思議なもので、どんなに心配事や不安材料があっても肉体が疲れていれば睡眠することができる。
椅子だから質の良い睡眠ではないけれども。
真っ先にそばのスマホに手を伸ばし画面を見るが、表示されているのは『7:53』の文字のみ。やはり返信も着信も無い。
「おはようございます、ユウスケ様」
ベッドから声がし、視線を
今起きたところなのだろうか、少し
「おはよう」
意図せず掠れた声に咳払いをして、辺りを軽く見渡してから改めてマリナに目を向けた。
どうやら、ヘカテーは今ここには居ないようだ。
「あの、ユウスケ様。大丈夫ですか?」
「何が?」
「その……」
マリナは足を掛布団から出して、俺に
「昨日の野球の練習試合の後から、ずっとお元気がない様ですので」
心配そうな顔で瞬きをしている。長い睫毛がぱちくりと動く。
「あぁ、やー、やっぱりさ! 運動自体久しぶりだったから疲れちゃってね! 心配させてごめんね? でもほらもう大丈夫だから!」
俺はそう言って立ち上がり、笑顔を作ってラジオ体操第二を始める。
上手く笑えているだろうか。
「そ、そうなのですか、それだけなら良いのですが……」
「大丈夫大丈夫! 他に、俺が何に疲れるっていうのさ!」
「……例えば、師匠――つかさ様と、何かあったとか、でしょうか……」
マリナの図星弾に俺の脈の律動が狂う。
頑固なくせに大切な時だけ鋭いな。
「どうしてそう思うんだ?」
「昨日の帰り際の師匠が、なんかいつもと違ったような気がしまして……私の勘ってだけなのですが」
勇者の子孫だから勘が鋭いのか、それとも単純にマリナ自身の観察眼が鋭いのか。
……いやでも俺に対しては初見で悪魔の手先扱いしてたけどね。
まあでも、マリナに……大事な人に心配をかける訳にはいかない。
「大丈夫、気のせいだ。大したことは何もなかったし、ほら、俺はもうバッチリ元気だ!」
「そうですか、それならいいのですが」
マリナは俺の顔を見て悲しそうな笑みを見せた。
多分きっと、俺は上手く笑えていなかったんだろう。
* * *
マリナが朝食を作りますと宣言して俺の部屋を出てからも、俺はぼうっと机に突っ伏していた。
マリナが
掃除、洗濯、簡単な料理、それからコンビニやスーパーでの買い物。
お隣さんに挨拶しているところを見たのには俺もビックリした。
順応性が高いというか何というか。
一度、マリナは何でも卒なくこなすね、と言ったところ、
「ユウスケ様の世界に、私もできるだけ早く慣れたいんです。ユウスケ様とずっと一緒に居る為です」
と恥ずかしげもなく面と向かって言われ、俺が撃沈することになった。
そんな真っ直ぐなマリナに、今の俺ができる事といえば。
個人的な事情でマリナに心配や不安を与えないようにすることだな。
あとは、そう…………。
つかさに挑発されたからという訳ではないが、俺もそろそろ男を決めなければならないのかな。
キス、か……。
「あらあら、人間。汚い色欲のオーラを出さないでほしいですわ」
机に突っ伏して一人脳内会議をしていた俺に、頭上から聞いたことのある幼い声がかかる。
「ヘカテーちゃん、おはよう」
「おはようじゃありませんわ。人間がどう悩もうが勝手ですけれど、
俺の頭上からベッドの傍までふわりと飛んで移動し、ベッドに腰掛けるヘカテー。
「悲しませることってなんだよ。俺はそんなつもりは毛頭ないぞ」
「オーホホホ! これだから人間は浅はかなのですわ。私が何も知らないとでも?」
ヘカテーは大げさに赤い長髪を手で払い、不気味な笑みを向けてきた。
俺は体を起こして姿勢を正してから、
「どういう意味だよ。何か知ってるってのか」
「私を誰だと思ってますの? 名高きトリウィアスの家系の傲慢の悪魔、ヘカテー・トリウィアスですわよ?」
いや、いろいろと初耳なんだけど。
「その傲慢さんが何を知ってるって?」
「ちょっと、傲慢さんはやめてくださいまし! ……人間が何に悩んでいるかも
コイツ、さては俺とマリナのさっきの会話をどこかで聞いていたな?
次元の狭間に隠れるのは反則だぞ、と。
「だから、それは気のせいだって、大したことは――」
「練習、ノーカン……そしてキス」
俺の言葉にヘカテーは被せて声をだした。
その単語のどれもが、俺の全身をぞわつかせるには充分だった。
「お前……なんで」
「
ニタリと顔を歪ませて、ヘカテーは八重歯を光らせた。
感情のオーラも読めて、更には地獄耳か。ピッコ○大魔王かよ。
自分でも顔が蒼くなっているのが分かるほど気が動転している俺に、
「それで。マリナストライアという恋人が居ながら、どうして人間はあの時、あの言葉の汚い女の方とキスをしようとしておりましたの?」
「いや、だからそれは……」
俺が言葉に詰まると、ヘカテーは眼をこれでもかという程細めて冷たい表情をした。
「まあ、聞こえてましたので概ね分かるのですけれども。正直、それはどうでもいいですわ」
「どうでもいいって、お前なあ」
「もし、人間がマリナストライアの純潔を守りたいという崇高な考えのもと、己の欲求を他で満たしたいのでしたら、私がお役に立ってさしあげられますのに」
「お前なぁ!」
鈍く広く悩む俺の痛い所ばかり突き刺してくるヘカテーに、怒りから俺は握り拳に力が入る。
「オーホホホホ! まあ三割くらい冗談ですわ」
三割かよ……それにしても図星をつかれた時にすぐカッとなってしまう癖は直さなきゃまずいな。
「問題はそこではありませんわ」
「どういう意味だよ」
ヘカテーは小さく溜息のような呼気を斜め下に向けて出し、キッと俺を睨んだ。
「最初にも言いましたわ。
「悲しませるって……」
俺がマリナを? そんなことするつもりは……。
「本当、人間は愚かな種族ですわね。……まあいいですわ。マリナストライアの為なら仕方ないですわね」
そう言うと、ヘカテーは少し眼を見開き、右手の人差し指を俺の顔の前に突き出した。
「なんだ?」
俺が赤と紫の綺麗なオッドアイに向かってそう言うと同時に、ヘカテーは指で
キィーン、というモスキート音のような嫌な音と共に、空中に半透明の円盤のようなものが現れた。
それはゆらゆらと薄く光りながら、波紋のような模様が
「なんだこれ……」
「いいから、それに耳を近づけるのですわ」
ヘカテーはそっぽを向いて目を閉じながら、不機嫌そうにそう言った。
言われた通りに、俺は右耳を近づける。
何か、音が聴こえる。これはひとの声か。女の声のようだ。
『――うしたのだろう……』
『絶対に何かあったんだ……』
『……どうしておしえてくれないのだろう……言えないことなのかな……』
『悲しい……ユウスケ様の力になれないことも……』
『辛そうなユウスケ様を見てることしかできないなんて……どうしたらいいん――』
ブゥンと鈍い音が響き、光と音声が無くなった。
聞こえてきた言葉はこれだけだったが、俺が理解をするには充分だった。
「これは、マリナの……」
「そうですわ。
「これが、マリナの心の声」
「これでわかりましたかしら。人間はマリナストライアを悲しませているのですわ」
俺はヘカテーの冷酷な視線に、思い切りビンタをされたような気分になった。
そのおかげで少しだけ目が覚めた。
「あら、ようやくまともな顔付きになったようですわね。やれやれ、ですわ。人間には
「……そうかもしれないな。いつも本当にありがとう、ヘカテーちゃん」
「なっ! な、何かちょっと気持ち悪いですわね、人間……」
俺の素直な感謝の意にヘカテーが返してきたのはやんわりとした罵声だった。
しかしながら頬に朱を注いでいるところを見ると、悪い気はしてないようで安心した。
黒くフリフリの服を身に纏う赤髪の悪魔に心の中で再度お礼を言ってから俺は立ち上がり、マリナのいるキッチンへ向かった。
* * *
「あ、ユウスケ様、申し訳ありません、まだ作っている途中でして……」
キッチンと繋がる居間に行くと、すでに良い匂いが漂っていた。
これは……焼いた卵の匂いかな? 和食だろうか。
「いや、寧ろ作ってくれてありがとう……って、朝からオムライス!?」
キッチンテーブルには既に一つ作り終わったと思われるオムライス――のようなもの――が皿に乗って置いてあった。
「はい! この間、魔法の箱の中の住人がたまたまオムライスの作り方を喋っていまして、忘れないうちに挑戦したかったんです」
ニコッと笑うマリナ。
その笑顔の奥底に、あんな苦悩に満ちた感情を隠していたと思うと胸がズキリと痛んだ。
「魔法の箱じゃなくてテレビ、ね」
「えと、それです。でも、あんなに薄い箱の中にどうやって……って、今調理の途中でした! ユウスケ様、もう少しですので座ってお待ちください!」
青い目をキョロリと動かしたり、ハッとした顔をしたり、ちょこまかと狭いキッチンで金髪を揺らして動き回ったりと忙しそうなマリナを見て、俺は自然と口角が上がりながらテーブルに着いた。
そうだ。
マリナは俺の恋人なんだ。
一人で抱えてばかりではマリナを傷つけかねない。
不安や心配や悲しみすら共有してこそ、本当の恋人ってもんだよな――――って自分で言っててなんだこれアイタタタで恥ずかしい、口に出すのは一生やめておこう。
とは言っても、昨日のつかさとの倉庫での出来事をどう話したらいいんだ?
まさか「つかさに練習でキスしようとしたら泣いて逃げられて音信不通で」なんてストレートに言おうものなら西洋風の剣か
兎も角、オブラートに包んで上手に説明しなければ。
「お待たせしました、ユウスケ様。見栄えは良くありませんが、オムライスです!」
どうやら作り終えたようで、マリナがそう言いながら俺の前にオムライスの乗った皿を置く。
見栄えは確かに――でもおいしそうな匂いだ。
……ん? ケチャップで文字のようなものが書いてある。
『Ξ☆ξ●』……マリナの世界の言葉か?
「マリナ、これなんて書いてあるの?」
「えーとそれは……」
マリナは青い瞳を右上に持っていきながら言葉に詰まり、金髪の毛先をギュッと握ってから、
「『オムライス』と、私の世界の言葉で書きました」
「へえ、オムライスか。マリナの世界ではこんな文字なのか」
「どれどれ、ですわ。『きっと大丈夫』? この赤い文字はなんですの?」
「へ、ヘカテー!! 貴様ァ!!」
ふらりと現れたヘカテーが俺の皿のオムライスのケチャップ文字をそう読み、マリナが唐突に憤慨し始めた。
ガタッと音を立ててマリナが立ち上がった刹那、ヘカテーは空気に塗りつぶされるように姿をくらました。次元の狭間に隠れたのだろう。
そうか、本当はそう書いてあるんだね。
心配かけて不安にさせて、何が彼氏だろう。
「マリナ」
消えたヘカテーを探すように赤い顔を振り回すマリナに、俺は声を掛けた。
「ちょっと、相談があるんだけど、きいてくれる?」
マリナは数秒放心したような顔でこちらを見ていたが、すぐに柔らかい顔になりテーブルに着いた。
そして何故か座ったまま俺に小さくお辞儀をしてから、
「聞きたいです」
と、顔を更に柔らかく緩ませた。
オムライスからの湯気だけが俺とマリナの間に立ち込める中、俺は一つ深呼吸をしてから口を開く。
「実は昨日――」
――ここでインターホンが鳴った。
誰だよ、こんな大切な時に!
「ごめんマリナ、ちょっと出てくるね」
「いえユウスケ様、私が出てきます」
「いやでも」
「ユウスケ様が留守の間も来訪対応をしておりましたのでもう慣れてます。大丈夫です、ちょっとだけお待ちください」
立ち上がろうとする俺をマリナが制し、ぺたぺたと裸足のマリナが玄関へ歩いて行った。
後姿を
きっと大丈夫――か。
マリナは本当に心根の優しい子だな。
「おーっす! ユウスケ、お邪魔するぞー!」
玄関の方から聞こえてきたのは俺の唯一の友人の声だった。
「つ、つかさッ!」
マリナと一緒に居間に入ってきたつかさを見て、昨日の倉庫でのことがフラッシュバックし、俺は言葉を継ぐことができなくなった。
「いやぁユウスケ、昨日はなんかごめんな! ちょっと喧嘩っぽい感じで気まずくなっちまってよ!」
「喧嘩……?」
「ああ、でも俺は全然気にしてないからよ! ユウスケもあんまり気にしないでくれよな? どうせユウスケのことだからうじうじ悩んじゃってんだろうと思ってさ! あ、それと俺携帯なくしちまってよぉ……これからショップに行って買い直さねえといけないんだよ! マジついてねえよなぁ。って。おい! オムライスじゃねえか! ひょっとしてコレ、マリナちゃんが作ったのか!?」
マシンガンの如く言葉を放つつかさは、いつもと何ら変わらない感じだった。
「あの、はい、えーと、お時間頂けましたら師匠の分もお作りしましょうか?」
「マジ!? マジマジ!? やったぜー! と、言いたいところなんだが、俺もこれから用事があってさ。マリナちゃんのお手製が食べられなくてマジで残念だぜ!」
俺は言葉が出ないまま、つかさのあまりにもいつも通りな態度に困惑と安堵が入り混じってどうにかなりそうになった。
昨日のアレって……つかさにとっては取るに足らないどうでもいいことだったってことか?
俺だけがもやもや悩み尽くしてただけだったのだろうか。
「まあ、そんな訳で俺はお
嵐を起こして、全てを壊さんばかりに怒涛の勢いでつかさは現れては消えていった。
「……師匠、一体なんだったのでしょう」
マリナが怪訝な表情でゆっくりとテーブルに着いて、表情を崩してから続けた。
「でも、やっぱり昨日師匠とユウスケ様は何かあったのですね。喧嘩……と師匠は仰っていましたが、相談というのもきっとそのことだったのですよね?」
「あ、ああ! そうなんだ! でも、もう大丈夫だ! アイツも気にしてないって言ってくれたし、とりあえずはスッキリだ」
「そうですか……よかったです!」
マリナは無垢な笑顔で本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔に俺は心に鈍痛が走るのを感じる。
「さ、冷める前に食べようか」
「はい!」
俺は既に湯気の放たれていないオムライスを一口、口に運ぶ。
うん、味はしっかりとオムライス。おいしい。
料理は見た目じゃないな。
でも、もしかすると本当に。
俺の気苦労じみた杞憂だったのかもな。
あの時のつかさの反応も、見た目は意味ありげに見えて実は大した意味もなく、一晩寝てしまえばスッキリして気にならなくなるような事だったのかもしれない。
それなら、俺もこれから気にせずにいつも通り過ごしていける気がする。
そんな希望的観測を、どこからともなく聞こえてきたヘカテーの声がぶち壊した。
「あの言葉の汚い女の方、今日は殆ど嘘しか言ってませんでしたわね」
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