つかさの蠱惑

 つかさの家に入ったのは二ヶ月ぶりくらいだった。

 ワンルームの一人暮らしで、そこかしこにライトノベルやゲームが散らばっている。

 どう見ても女の子の部屋ではないな……部屋は人間の本質を表すというのはどうやら本当らしい。


 俺とマリナはテーブルの傍にあった小さい座布団に座り、つかさはキッチンに消えていった。


 あらためて俺はマリナを見る。

 純白のシャツの上に着ているブルーグレーのカーディガン、黒いワンラインが入った鼠色の短めのスカート。


 つかさに買ってもらった、マリナ唯一の服だった。

 しかし観戦だけとはいえ、野球の試合にこの格好はどうなんだろうか。

 まだ、俺の青い芋ジャージのほうが良かったかな。


「そういえば、マリナが地球こっちに来たばっかりの時、つかさの家に泊まったことがあったよな?」

「はい、あの晩は師匠にはいろいろと教えて頂きました」


 そのって、どんな事なんだろう。訊くのが怖いから訊かないけど。


「マリナはどこで寝たの?」

「はい、そちらの布団で寝させていただきました」


 そう言ってマリナは部屋の端に敷いたままの可愛らしい布団を指差した。

 どう見てもサイズはシングルサイズの布団だ。


「じゃ、つかさはどこで寝てた?」

「師匠も、同じです」

「同じ?」


 えーと、同じ布団で一緒に寝たの?

 女の子同士とは言え、一緒に寝たってこと?


「そ、そっか」

「なんだよユウスケ、妬いてるのかー? カッカッカ!」


 器用に皿を三枚とカップ三つを携えて戻ってきたつかさが、ニヤニヤしながら俺の顔を見てそう言って笑った。


「そんなんじゃねえよ!」

「まあそう怒るなって、マリナちゃんには変なことは何もしてねえからよ」

「当たり前だろ!」

「あの……師匠、ユウスケ様……変なことってどんなことですか?」


 余計なところに反応しなくていいの、マリナさん。

 つかさはテーブルに皿とカップを並べながら、


「ったく、ユウスケが羨ましいぜ! こんな可愛い娘と一緒に暮らしてるなんてよ……。それでお前ら、もうキスはしたのか?」

「なッ……!!」


 顔が引き攣る感覚と同時に俺は心の中で何てこと言うんだよ、と叫んでいた。

 ちらりと横目でマリナを見ると、俯いて顔を赤くしている。流石にキスの意味くらいは分かるのね。


「おいおい、嘘だろ? 付き合って一週間、同棲までして? 一緒のベッドに寝てるのにか?」

「いや、まだ一緒には寝ていない」

「まだ……」


 マリナが俺のに反応した。目が合って、すぐに逸らされたけど。


「はぁ? でもよ、ユウスケの家にはベッド一つしかねーよな? 他に布団もないし」


 いやなんで知ってるんだよ、ちょっと怖えよつかさ。

 並べ終わって胡坐をかいたつかさに、


「俺が、椅子で寝てるんだよ。そりゃ、まだ一緒に寝るわけにはいかないだろ! その、ほら、付き合ったばかりだし」


 マリナが再び俺のに反応してこちらを向いて、俺の最後の言葉で少し俯いた。


「はぁあああああぁ」


 つかさがマントルにも届きそうな濃く深い溜息をつき、悠然と皿の上のモンブランをフォークで食べ始めた。あら、美味しそうだね。


「ユウスケさあ……お前バカだろ」

「バッ! バカってこと無いだろ!」

「バカだよ、しかも相当のな。あ、マリナちゃん、食べて良いぜ!」

「はい、いただきます」


 つかさとマリナがモンブランを食べる最中、俺は手を付けようという気にならなかった。


「俺の何がバカなんだよ」


 つかさはモンブランを上品に咀嚼しながら、片眉を吊り上げて俺を睨んだ。


「……まあユウスケの学生時代のことを考えりゃ、ちっとは仕方ねえなとも思うけどよ。まあいいや、試合の時にでも教えてやるよ」


 そう言うとつかさはこれ以上ここでは話したくない、と目を閉じた表情で訴えた。

 マリナはモンブランを口に運ぶたびに顔に煌めきを宿しながら、ちらちらと俺とつかさの顔を見比べていた。


 いや、何だってんだよ……俺が悪いのかよ。


 * * *


 大川中学校はつかさの家から歩いて五分も掛からなかった。

 一応つかさの母校らしい。まあ親友の母校を見れただけでも多少は価値があったかもしれないな。


 グラウンドにつくと、見慣れた顔が数名。

 何度か一緒に汗を流した草野球チームのメンバーだった。

 大半が三十歳~五十歳前後のおじさんであり、お腹の出ている人間もちらほら。俺も将来こんな風に腹が出るのだろうか。


「おーっす、今日はよろしくっす! 今日も助っ人にユウスケ連れてきやした!」


 つかさがズカズカとおじさんの輪に入っていく。

 俺もRPGの主人公の仲間にように後に付いていく。


「おお、つかさちゃん! 今日も可愛いねえ」「お、またあの時の青年か! 今日も一発頼むぜ」「いつもすまないね、つかさちゃんと……ヨウヘイくんだっけか」「いいから早くストレッチしとけよ!」「我がストゥーピッツの命運はお前ら二人が握っていると言っても過言ではないぞ!」


 ユニフォーム姿のおじさんどもが各々おのおのこぞって喋り出す。だれだよヨウヘイ。

 そしてストゥーピッツって……誰か訳して教えてやれよ……。


「そんで、後ろにいるべっぴんさんはどちら様?」

「ああ、彼女は見学っす! 俺とユウスケの、その、友人? みたいなものっす! 言っておくっすけど、彼氏いるんで気安く話しかけちゃダメっすよ!」


 つかさが軽々とユニフォームおじさんども相手にコミュニケーションを取っている。

 本当、そのコミュ力は凄いと思うし羨ましくもある。


 しばらくおじさんどもはマリナにあれやこれやと好奇の目や声を向けていたが、しばらくして大川中学校野球部の部長らしき少年が走ってやってきて、一同整列となった。


 どうやらアホ集団ストゥーピッツは先攻らしく、俺達はベンチ――とは言えない突貫の集会テントに椅子を並べた場所――に引き下がる。


「つかさ、俺、守備位置と打順聞いてないんだけど」


 上下紺色のジャージ姿のつかさに俺は問う。


「ユウスケはライトで八番、俺はレフトで九番、だってよ」


 ふーん……。

 ――我がストゥーピッツの命運はお前ら二人が握っていると言っても過言ではないぞ、ねえ。


 マリナは俺とはちょっと離れた一番端の席で、興味津々といった感じでグラウンドを眺めていた。

 ちらりと俺の方を向き、「いつ戦いが始まるんです?」とでも言いたげな笑みを向けてくる。

 俺は鼻から息を漏らしながら微笑で首を振る。


「そんなことよりユウスケ」


 つかさが他の草野球チームの人に聞こえないよう、小声で耳打ちをしてきた。


「マリナちゃんのことちゃんと考えてやれよ」

「はあ?」


 俺もつかさに近づいて小声を出す。


「はあ、じゃねえよ。お前ら付き合ってるんだろ?」

「そうだな」

「マリナちゃんは、女の子なんだぞ?」

「そうだな」

「お前は男なんだぞ?」

「そうだな」

「もうわかるだろ?」

「何が?」


 まるで小さな焚き火で二人で暖を取っているかのように小さくなって話す俺達を余所よそにグラウンドから金属音が鳴り響いた。

 つかさが眉を寄せて、


「はぁ……ユウスケやっぱりバカだな」

「おま、また言ったな?」

「何度でも言ってやるよ、バカたれ。いいか? マリナちゃんはお前の行動を待ってるんだよ。一応、お前に付き従うっていうていなんだろ? だから、マリナちゃんからは強く出れないんだ。ここまではいいか?」

「う、うん」

「で、だ」


 つかさは更に身を屈めて声量を絞って、


「マリナちゃんだって年頃の女の子だ。若い男女といえば、もうわかるだろ?」

「いや、そりゃ俺だって男だしいろいろと、その、欲求……みたいなのもあるけどさ」

「じゃ、行動に移せよ。手始めに、まずはキスでもしろよ。マリナちゃんはお前のことが好きって言ってくれたんだろ?」


 つかさは目尻をヒクつかせながら不機嫌な表情で訊いてくる。


「そうだけど……マリナが望んでいるとも限らないだろ?」

「カー!!」


 突然つかさは大声で叫び、俺の背中に強烈な平手を繰り出した。


「痛ぇ!! 何すんだよ!」

「だからお前はバカなんだよ! そもそもそういう事を望んでないなら付き合ったりなんかしないんだよ」

「ッててて。……そういうもんなのか」

「大体はな。一概にゃ言えねえけど、お前がそんな細かいところを気にすることができるようなタマじゃねえだろ」


 タマって。まあ、その通りだけど。

 俺はあらゆる面で経験不足だからね。人間関係全般。


 三度目の金属音と共に綺麗に三者凡退した後、攻守交代となった。

 先程のつかさの言葉を頭の中で咀嚼しているうちに、俺は何度もエラーをした。


 大川中学野球部はなかなかの強豪校らしく、俺やその他おじさんのエラーも相まって点差は徐々に開いていく。

 点数が離れる度に草野球チームの副キャプテンらしき人の貧乏揺すりが激しくなっていった。

 ちなみにだが、このチームのキャプテンは痛風で本日不参加のつかさの父親だ。


「ユウスケ様、野球の試合というのは、ベイゾンポルみたいな遊びのことだったのですね!」


 守備が終わってベンチに戻ると、青い目に輝きを宿らせて胸の前で両手を握りしめるマリナが話しかけてきた。

 ベイゾンポルって何だよ、と思いながらも俺はさっきのつかさの言葉を思い出してマリナを上手く直視できなかった。


「……まあ、遊びっていうよりはスポーツだね」

「スポーツ、ですか。それは一体――」

「まあ、帰ったら詳しく話すよ」

「……はい」


 俺の顔を見たマリナはキョトンとした顔で力なく返事をした。

 少し離れた自分の席に座る。

 俺、さっきどんな顔してたんだろう。


 それからも、つかさの言葉をぼうっと考えてしまう俺はぽろぽろとエラーと三振を重ね、気づけば十点差がついて大敗で試合は終わった。

 つかさは途中から話しかけてはこなくなったが、後半はつかさも少しエラーをしていた気がする。


 再整列して挨拶を終えると、


「では、例の件、よろしくお願いします!」


 大川中学野球部の部長と思わしき坊主が、俺を含むストゥーピッツ全員に向けてそう言った。

 何のことだ?


「あー、仕方ない。だが、今日の敗因はつかさちゃんとヨウヘイくんがしっかりと試合に集中してくれなかったからだと思うんだが、みんなどうだ?」


 貧乏揺すりの副キャプテンがチーム全員に向けて問うと、ぎこちなく、気まずそうに、元気よく等、多種多様ではあるがそれに全員が賛同し始めた。


「おい、ちょっと待ってくださいよ!」

「問答無用!」


 つかさの必死の抵抗も、副リーダーのおっさんに一蹴された。


「という訳で、つかさちゃんとヨウヘイくん、そこの備品倉庫の片付けをやってから帰ってくれ」


 だから誰だよヨウヘイ。


 * * *


 グラウンドの端に位置する備品倉庫の中は、埃と蜘蛛の巣のパラダイスだった。

 歪んだバスケットボールの籠に、ヒビの入った大きな鏡、破れた体操用マットに何だかよく分からない木の板。

 備品倉庫っていうよりは廃品置き場だな。


「これをどう片付ければいいんだよ……」

「あーあ、ユウスケのせいでとんだとばっちり喰らっちまったよ」

「……悪かったな」


 お前だってエラーしてたくせに。


 どうやら練習試合前にアホ集団ストゥーピッツは大川中学野球部と取引をしていて、アホ集団ストゥーピッツが負けた場合はココの掃除をすることになっていたらしい。

 勝った場合の条件を聞かされていないので、ただただ面倒事を押し付けられた気分で、俺はため息が漏れた。


 マリナには、この倉庫とはグラウンドを挟んで逆方向のベンチで座って待ってもらっている。

 まさかこんな汚いところに来させるわけにもいかないしな。


 一人にして大丈夫かなとも思ったが、どうやらそれも心配なさそうだ。

 何故なら、グラウンドの周りに生えている大きめの木の陰にヘカテーが居たからだ。

 暇なのか心配なのか、どうやらいつの間にか来ていたらしい。

 何かあったらヘカテーが何とかしてくれるだろう。って他力本願甚だしいな俺。


 とりあえずの急務は倉庫ここの片付けだ。

 俺は使えそうなものと捨てるものに選別していく。


「イテッ!!」


 背後のつかさから悲鳴のような短い声が聞こえた。


「大丈夫か? どうした?」


 駆け寄ると、つかさは自分の右手人差し指を左手でぎゅっと握って顔を顰めていた。

 指先には大きめのトゲが刺さっていた。もはやトゲというよりは木片だ。

 見るからに痛そうで俺も身体からだが強張る。


「大丈夫か、抜くぞ?」

「ああすまん……ユウスケ、頼んだ」


 つかさはそう言うと、顔を背けてギュッと目を閉じた。

 ああ、もしかして注射とか苦手なタイプなのか。意外な弱点を知ったな。


 左手でしっかりとつかさの人差し指を固定し、逆の手でトゲを摘まんでスッと抜く。

 一瞬つかさがピクリと動いた気がする。


「痛かったか? ごめんな」

「いや、大丈夫だ。ありがとうな」


 つかさは若干息遣いが荒くなりながら、人差し指を見つめる。

 徐々に、血が滲んで球状になっていく。


「あれだ、ばい菌入ったら困るから洗いに行こうか」

「……」


 つかさは何故か上目遣いで俺を見つめて黙っている。

 気づいたが、二人の距離はなかなかに近く、俺も少し心臓が元気になった。


「っはぁ……」


 と思ったら不意に溜息をついて俯いて目を閉じるつかさ。


「普段からユウスケがこのくらい積極的だったらなぁ……本当、基本チキン野郎だからな」

「チキンって……」

「チキンじゃねえかよ。同棲までして、自分から彼女にキスすらできないんだぞ?」

「俺だって、やる時はやるんだよ! 今が、その、時じゃないってだけで」

「そういう言葉を吐いている時点でチキンだって言ってんだよ」


 顔を上げたつかさの表情は、いつになく挑発的な笑みだった。

 何故か無性に腹が立ってしまった。もしかしたら図星を付かれたからかもしれないな。


「分かったよ! してやるよ、キスくらい」

「は、できるかねぇ? ユウスケに」

「できるさ! 俺だって男だぞ!」


 頭に血が上ってきた。安い挑発に乗ってしまう哀れな単細胞だと自分でも思う。

 しかし、試合中に言われたつかさの言葉にも一理あると思ってしまっているのも事実だった。


「言ったな? じゃあ今すぐしてみろよ!」

「おう、います……え?」

「ほら。先ずは練習だと思って、俺にしてみろよ」


 つかさは何故だか真剣な表情でしっかと俺を見つめている。


 …………は?

 急に○○寺世界みたいなこと言いだしたぞこの子。


「いやお前、何言って――」

「できねえのか? やっぱりチキンだもんな!?」

「ハァ!? できるし! そんくらい余裕だ!」


 いや俺も何言ってるのマジで。

 思考と口から出る言葉が噛みあわない。誰かに操られているような気分だ。


「じゃ、ほら、してみろよ。できるんだろ?」

「おう、やってやるよ!」


 つかさの指の消毒のことなどとっくに忘れ、俺はつかさの両肩を掴む。

 その瞬間つかさはビクッと身体を跳ねさせ、強張ったのが分かった。

 そしてだんだんと頬に朱を差していくのが見える。


「ユウスケ、練習だ。これは練習だからな」

「おう、分かってるよ」


 自分の身体が揺れそうなくらい心臓が暴れている。

 緩い角度で俺を見上げるつかさの表情がゆっくりと泣きそうな顔になっていった。


「これは練習だから、ノーカンだ。存在しないキスだと思え……なあ、ユウスケ……」


 つかさがという言葉を発した時に、俺の頭の中の何かが弾けた。

 目の前のつかさが俺の目に驚く程愛しく映った。コイツこんなに可愛かったっけ。


 ゆっくりと目を閉じるつかさ。

 練習。ノーカン。そんなものは二の次だ。

 今は目の前の女の子に、俺はしなければならないことがある。


 ドラマやアニメやノベルの世界でしか触れてこなかったキスを、俺は今からするのだ。

 作法を知らない俺は、よく分からないまま眼を閉じてゆっくりと唇を近づける。



 少しずつ、少しずつ……。



 ……。



 トンッ。



 次に俺に訪れた感触の場所は、唇ではなくひたいの中心だった。


 目を開けると、つかさは下を向いてニヤっと口角をあげていた。

 そしてつかさの人差し指が俺を押さえるようにおでこに当たっている。


「え? つかさ?」

「…………ユウスケ、やるじゃん」


 つかさはそう言うと、くるっと向こうへ振り返り、突然走って倉庫を出て行った。


 一人倉庫に取り残される俺。

 茫然と立ち尽くす、という言葉がピッタリなほど、俺は何が起きたか分からずに立っていることしかできなかった。


 やがて胸騒ぎが俺の身体中に満ちていく。

 何か取り返しのつかないことをしたような。


 去り際のつかさの目から流れ出る水脈が見えた気がしたからだ。


 浅めの混乱状態の俺は、そばにあったヒビ入りの鏡に映る自分の顔とおでこをみて、「ナマステ?」と呟いてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る