第6話 朝食の時間
何とか一晩を無事に過ごした一家に、朝が訪れた。美玲の大学では朝一時間目から始まる授業が多かった。高校一年生の妹の七帆はその時間に合わせて一緒に起きていた。父親はさらに朝早く支度をし、一番先に出発していた。俺が身支度を済ませ、キッチンに出て行くと、母親と二人の姉妹がそろって朝食の準備に取り掛かっていた。と言っても母親が焼いてくれた目玉焼きが三つ並んでいて、それ以外は、各自、自分の食べたいものを用意することになっていたのだが。
「あら、悠斗君、おはよう。よく眠れた? 家族が三人も増えて、騒がしくて眠れなかったんじゃないかしら?」
「いえ、いつも通り、しっかり眠れました」
これは全くの嘘だった。風呂の事があり、しかも一つ屋根の下に女三人が増え、気が散ってほとんど眠れず、ベッドの中で寝返りばかりを打って朝になってしまった。
「あれ、悠斗君、目が赤いわ。あまり眠れなかったんじゃないの?」
「そんなことはない。顔を洗う時に、石鹸が目に入ったんだ」
「え~っ、それは大変。しっかり石鹸の成分を洗い流さなきゃ、もう一度洗った方がいいんじゃないのかしら」
「お姉ちゃんの言うとおりに、洗ってきたらどうかしら」
姉妹二人で俺に顔を洗い直せと言っている。ああ、静かな朝食時間がかき乱される!
「大丈夫! 二人とも、心配はいらないよ」
「でもねえ、変な虫でも入っていたら、後で瞼まで腫れちゃうんじゃないかしら。心配だわ」
「もうっ、まったく。痛くないから大丈夫だ」
「だって、心配だから……」
―――これ以上構ってくれるな!
―――ああ、早く朝食を食べなきゃ。
キッチンの壁にかかっている丸い掛け時計に視線を向けてから、食パンを一枚取り出しトースターに入れる。
「あ、ああ。でも、もうそろそろ朝ご飯を食べないと」
「コーヒーができてるから、飲む?」
「ああ、それも自分でやるからいいよ」
「ついでだから三杯入れておくわよ」
「じゃあ、注いでおいて」
焼きあがった食パンをトースターから取り出し、バターとジャムを塗る。これがいつものやり方だ。そしてコーヒーにはたっぷりの牛乳を入れて、と。
―――こんなにたっぷりとコーヒーが入っていたら、牛乳を入れるスペースがないじゃないか。
―――早く言っておくべきだった。
苦いのを我慢して一口飲み、空いたスペースに牛乳を注ぐ。いつもの様に牛乳パックを冷蔵庫から取り出そうとすると、七帆がいった。
「あら、ミルクならテーブルの上に……」
見れば、喫茶店のようにミルクの入った小さなボトルが置かれているではないか。こんなお洒落な、ボトルを使っているのか。
「これが……」
「そう、牛乳だからどうぞ。四人もいるからこうやって出した方がお洒落だと思って……」
「それじゃあ、使うよ」
と、牛乳をボトルから注ごうとしたら、カップのスペースが少なかったせいか、あろうことか勢い余って派手にこぼれてしまった。テーブルの上に広がったカフェオレ色の液体を拭きとるために、台ふきに手を伸ばすと、ほぼ同時に七帆の手が伸びてきた。その手は勢い余ってカップに触れて……。
「うわっ! 零れるう~っ!」
「あああ~~~っ、いっけな~~~い! ごめんなさ~~い!」
「嗚呼、もう! ズボンが!」
「あれ~~~! 濡れちゃったの? うわあ、あああ~~」
「そのようだ……はあ……急いでるのに……やっちゃった!」
「早く! 拭いて、拭いて!」
今度は乾いたタオルを抽斗から取り出した七帆が、俺のズボンめがけて手を伸ばし、ごしごし擦り出した。
―――止めろ、やめるんだ!
―――こんなに傍に寄られて、怒鳴りたくても言葉が出ないいいいい~~~~~!
「……あの……自分で……拭く……」
「……そ、そう?」
「だって、そこは……」
「……はっ」
息も絶え絶えに言うと、七帆は不思議そうな目つきで顔でじ~っと見ている。少しの間があってから、はっとして手を慌てて引っ込めた。顔が赤くなっている。
―――そこって、ズボンの股の間って、まずいじゃないか?
―――いくら今まで男がいなかったからって……分かれよ!
―――気まずい、もう、とっても気まずい!
「あわわわ、しっ、失礼! わざとじゃないわよ~~」
「そんなことっ、うわああああ……」
コーヒーがズボンに沁み込んで気持ちが悪い。急いでタオルに水分をしみこませ、その後水をしみこませたタオルをズボンに当てながら汚れを吸い取っていく。
―――はあ……余計な事ばかりしてくれるよ。
「自分でできるから、いい」
「はああ……」
情けない声が聞こえてきたが、一番情けないのは俺の方だ。二人のやり取りを、手をこまねいて見ている美玲の視線も気になる。お風呂を覗かないように、と七帆に言わせたのも、彼女なのかもしれない。
「朝から大変なことになっちゃって、妹が申し訳ないことをしたわ」
「美玲さんが気にすることは……」
「もう朝食は並んでるのかしら。まだ何か必要なものがあったら、私が準備するから遠慮なくいって」
「もう、僕の事はいいから、美玲さんは自分の食事をして下さい!」
「あああ……余計なことをいっちゃった」
「いいんです。さあ、もう食べて行ってくださいっ!」
「悠斗君、お詫びしなきゃ……私のせいで……」
呑気そうな七帆が妙にしゅんとなってしまい、ショートカットの前髪から覗く両目が恨めしそうにこちらを見上げていた。ミニスカートからは太ももが伸び、直立不動の姿勢で手をすり合わせている。
「もう、大丈夫です! 余計なことはしないほうがいい! また問題が起きると大変だから」
「ごめんなさい~~。そんなに怒らなくてもいいじゃない!……はあ、もう嫌になっちゃう」
―――嫌なのはこちらの方だ。
―――これじゃあ朝食を摂るのも一苦労だ。
結局コーヒーは飲めずじまいで、牛乳だけでトーストを流し込み、一日目の朝は、こんな風に慌ただしく過ぎていった。
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