きよしこの夜、奇跡はみちて

雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞

きよしこの夜、奇跡はみちて

 一度でも我が手を汚したものに、争いをやめよと叫ぶ権利があるだろうか?

 赤にぬめり、鉄錆と硝煙の臭いが染みついたこの手で、武器を捨てようなどと訴えることが可能だろうか?


 ――答えは否だ。


 それが許されるのは、聖者か無垢なる花売りの少女だけ。

 自分に許されるのは、この不毛な殺しあいのなかで、トリガーを引き続けることだけだ。


 人類はおろかだった。


「共通の巨大な敵を前にすれば、そうあれかし、我らは手を摂りともに戦うだろう」


 さかしげに賢者たちがうたった理想論は、笑えるほどに机上の空論だった。

 実際に世界が脅威にさらされたとき、人類は資源を奪い合い、デマゴーグに踊らされ、世界を二分し、細分し、戦争に至ることしかできなかったからだ。

 そうして血みどろで、向かう先も解らない暗夜のような、世界の終わりのような戦争は、もう十年近く続いている。


 守るべきものがなんだったのか。

 なにを奪ってやりたかったのか。

 どうすれば勝ちで、負けとはどういう状況なのか。

 もう、自分たちにはなにも解らない。

 ただ機械的に(もしくはゾンビ的に)塹壕から頭を出した敵兵を射貫き、血の花を咲かせるのが仕事だった。


 明日はきっと、自分こそが殺されるだろう。

 それでなにが変わるわけでもない。なにも終わらない。諦観だけが、自分たちをむしばんでいる。

 疲れ切っていた。

 明日の見えない命の奪い合いを、ひたすらに倦んでいた。

 そんな、ときだった。


 〝天使〟が現れたのは。


 折しもその日は、酷く冷え切った冬の夜だった。

 家族や生活というものが存在した頃は、たしかチキンとモミの木を囲んで、ささやかな祈りを捧げていたはずの、そんな日だった。

 戦線は硬直して長く、夜のうちに突撃して死んだ仲間たちが――敵味方問わず――塹壕の外には死屍累々となっている。


 それでも互いの損耗が激しかったから、あるいは弾薬の類いが底をつきかけていたからだろうか、ほんの一時の間、銃火は止んでいた。


 はじまりは、奇妙なざわめきだった。


 南北を横断する長大な塹壕。

 その南の端から、同胞たちの困惑した囁き声が聞こえてきた。

 すぐに上官が怒鳴りつけ、その騒ぎを静めようとした。

 けれど、ざわめきは増していく。

 その理由が、やがて自分にもわかった。


 少女がいた。

 赤い服を着た少女だった。

 ひとりではない。どこから現れたのか、沢山の少女たちが、塹壕の中を裸足で歩いている。


 彼女たちは穏やかな笑みを振りまきながら、同胞のひとりひとりに花を手渡していた。

 寸前まで張り詰めた表情をしていた仲間たちが、たった一輪の白い花を渡された瞬間、ふっと糸が切れたように強ばった顔つきを弛緩させる。

 中には泣き出すものや、少女に抱きつくものもいた。

 そうしてひとり、またひとりと、同胞たちが握りしめていた銃を手放し、代わりに花を胸に抱く。


 そのうち、誰かが歌い出した。仲間たちのひとりだったかもしれないし、あるいは幻聴だったかもしれない。少なくとも、少女たちが歌ったのではなかった。

 かすれた声で、しゃがれた声で、彼は歌う。



 ――きよしこの夜、星は光り。救いの御子は――



 最初は小さな、本当に小さな歌声だった。

 けれど次第に、それは大きくなっていく。

 彼の隣の誰かが、その隣の誰かが、つぶやくように、うかされたように、ひじりの歌を口にする。



 ――御母の胸に、眠り給う、ゆめやすく――



 歌声が止む。

 静まりかえる戦場。

 一瞬の空白。


 そして――万雷の拍手。


 自分たちは驚いた。そしてまぬけにも、塹壕から顔を出してしまった。

 なぜなら拍手は、その惜しみない賛辞は、敵の――最前まで殺し合っていた敵兵たちの塹壕から響いてきたのだから。

 あっけにとられる自分たちは、さらに度肝を抜かれることになった。


 歌が、聞こえてきたからだ。


 それは返礼のように、あるいは祈りのように。

 でなければ、言祝ぎのように響く、歌声だった。


 自分たちの言語とは違う、けれどたしかに同じ歌詞と意味を持つキャロルが、彼方かなたから戦場を越えて此方こなたへと届く。


 自分たちは言葉を失って聞き入った。

 彼らは最後まで歌い終えた。

 だから。


 だから、自分たちもまた、拍手で応えた。

 そこからは、きっと奇跡の一夜だった。


 塹壕から這い出して、敵陣へと向かうものがいた。

 彼は両手を挙げて、無抵抗を強調して、敵陣へと進んでいく。

 敵兵の上官と思わしきものが、撃てと叫ぶ。

 けれど、それに応じるものはいなかった。

 代わりに、同じように敵兵のひとりが塹壕から這い出し――そうして、彼らは戦場の中で、握手を交わした。


 それが契機だった。

 もう止まらなかった。

 自分たちは泥濘と血臭と空薬莢に満ちた塹壕から飛び出した。彼らもそれは同じだった。

 飛び出し、歩み寄り、抱き合った。


 自分たちは祝った、ただこの日の奇跡を祈った。

 少ない嗜好品の中から酒を、レーションを、煙草を交換した。

 もはや制止する上官はいない。武器を手にしたものもいない。

 驚いたのは、彼らもまた、自分たちと同じように一輪の花を握りしめていたことだった。


 自分たちは遊んだ。

 童心に返ったように、サッカーをしたり同じ釜の飯を食ったり、酒を飲んで歌ったりした。

 それから、戦場に横たわったままだった同胞達の亡骸を、両軍が垣根なく回収し、埋葬し、祈った。


 夜が来て、自分たちは歌う。

 聖夜に歌う。

 少女たちの姿は、もうどこにもない。

 幻覚だったのかもしれない。あるいは、神様とか言う存在が、気まぐれに遣わした平和の使者だったのかもしれない。

 〝天使〟たちは奇跡を起こした。


 ――無論、自分たちには解っていた。

 この奇跡は、いつまでも続かないことを。

 日が昇り、夜が明けて、明日になれば、きっとまた自分たちは敵同士になるだろう。

 相手の頭を射貫いてやることしか考えられなくなるだろう。

 戦争はまだまだ終わらないことだろう。

 それでも。

 そうだとしても。

 ああ、どうか。


 どうかいつか、誰しもの上に、こんな平和な夜が訪れますように。


 その場にいた自分たち全員が。

 たしかに、そう祈ったのだから――


 ――きよし、この夜に。

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