第44話 お姉ちゃんは雨の中で。

 周りの人たちが誰なのかが、分からなかった。

 そもそも、自分が誰なのかが……。


「お姉ちゃん!?」


 どうやらベッドの上で寝転がっているらしい自分の体は、とてもじゃないけれど動かすには重かった。まるで背中のあたりに鉛を張り付けられたような、とんでもない違和感があった。

 おぼろげな視界のなかに入ってきたのは、泣きそうになっている女の子だった。女の子はこちらの手を握って、目の周りを真っ赤にして泣きつかれているような様子だった。なにか酷いことがあったのかな。


「すみません。誰ですか?」

「……え、お姉ちゃん。お姉ちゃんもしかして、私のこと忘れたの?」

「忘れたって…俺には妹なんていなかったはずじゃ…」


 そう返したあとでこらえきれなかったのか、女の子はひたすらに泣いていた。泣きすぎて呼吸が乱れてしまうくらいに。しかし、俺はその姿を見ても誰だか思い出せず、ただ迷惑をかけてしまっているのだと自分を責めるばかりだった。

 自分がもっている記憶の中には、目の前にいる女の子はいなかった。だからこそ俺は女の子、優樹菜と名乗る人のことをとりあえず信じてみることにした。


 そこからは受け入れづらい現実を、優樹菜さんの口から聞くことしか出来なかった。

 すでに自分の両親が死亡していること、優樹菜さんと俺が実の兄妹のように接していたこと、女装をさせられていた過去があること、など。聞けば聞くほど冗談みたいな話ばかりだったが、確かめようがないからこそ信じるほかなかった。


 体を自由に動かせる時間が増えるようになってからは、先生のもとへ行き診察を受けることもあった。しかし、回数を重ねるごとにどうやら症状は酷くなっているらしかった。らしかったというのは、実のところそんな実感はまるでないからだ。

 忘れていることを、忘れている。だからこそ、記憶が抜け落ちているという漠然とした感覚のみが残り続けていた。


「なにも思い出せないのかい?」

「はい……。気持ちが軽くなっていくような感覚なんです。つい数分前のことも、ポロポロと抜け落ちていくみたいで」

「……困ったなぁ。検査結果上ではなにも問題ないんだよ。もはやこれは心理的な問題かもしれないね」

「まあ、大丈夫ですよ。優樹菜さんが昔話をしてくれるんです。だからきっと、よくなるだろうって」


 家族がいないと知ったあとで献身的に俺のことを見守ってくれたのは、間違いなく優樹菜さんだった。あの日からずっとそばにいてくれた。

 感謝してもしきれない。そんな思いをもちつつ、俺はリハビリ期間を終えて退院した。


 記憶が抜け落ちていく正体不明の病はいつのまにか消え、俺はなんとかごく普通の生活を送れるようになっていた。高所から転落していて、骨折しなかったのは奇跡だと主治医からは何度も言われていた。

 残念ながらそのときの記憶がないので、ただ苦笑いするしかなかった。


 優樹菜さんに連れられて、今の俺の住まいとなっているらしい優樹菜さんの実家に入った。


「お……お邪魔します」

「それはおかしいよ。ただいま、でしょ。それと変にお互いかしこまらないってさっき決めた」

「そうだね。……ただいま」

「お姉ちゃん…おかえり!!」


 家に入るなり、優樹菜さんが思い切り俺のことを抱きしめてきた。その姿はまるで誰かに甘える子どもみたいでなぜだか愛おしくなり、気づけば俺からも抱き返していた。


「やっぱり“お姉ちゃん”なんだ」

「そうだよ。昨日話したじゃん。……これからは、私がお姉ちゃんのことを連れていかれないようにするから。頑張るから」

「どうしても女装しないとだめか」

「そこはほら、形式的な意味で。もう大丈夫……だよね」


 それからしばらく三人での生活を送っていた。それがある日を境に二人になってしまったのは、受け入れがたい現実だった。たとえ実の兄妹でなくても、お互いにお互いを必要だと心のどこかで思っていたからこそ、別れることが辛く受け止めきれなかった。

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