第43話 越えてしまった一線

 それからしばらくのあいだ、俺はまともに優樹菜と会話できなかった。原因ははっきりと分かっている。俺が変によそよそしいせいだ。


 いつもなら楽しいはずの夕食の時間は、まるでお通夜のあとのようだった。そんな俺たちの様子を見かねてか、優樹菜の母は優樹菜を家事の手伝いに誘っていた。

 ひとり残された俺は、静かに自分の部屋に戻った。なにも考えないようにと普段するはずのない勉強をしたり、対して興味のない新書を読んだりしてみたが、気は全くはれなかった。

 それどころか時間が経てば経つほどに、頭の中が優樹菜のことばかりになっていた。一つのことにしか集中できない自分の頭があまりに馬鹿げていて、とんでもなく辛かった。


「とりあえず、もう寝ようかな」


 自分のほかに誰もいない部屋の空気は、いつもより冷たく感じた。



 ベッドの上で、どれくらい眠っていたんだろう。

 先ほどまで話し声がドアの隙間から漏れて聞こえていたけれど、すっかりしんとしてしまっている。自分の服が擦れる音が部屋に響くくらいに、静まり返っていた。

 机の上にベッドから見えるように置いてあった時計を見てみると、日付がもうすぐ変わろうかという時間だった。夕食のあと、ほとんどなにもせずに寝てしまったということに気がつき、なんだか損をしてしまったような気分になってしまった。


 トントン


 あまりにも静かだったせいか、ドアを叩く音が響いた。それは自然に発せられた音ではなく、どうやら誰かが訪ねてきたことを示すものだということは明らかだ。

 こんな時間にいったい誰? ドアを叩いたあと、向こう側にいるはずの人はなんの言葉も添えなかった。寝ぼけたせいで起きた幻聴だったかと再び布団に包もうとしたが、それと同時にまたドアが鳴った。今度は控えめに。


 トン……トン


「お姉ちゃん…まだ起きてる?」


 どうやらドアの向こう側に立っているのは、優樹菜のようだ。

 はっきりとしない自分の意識と格闘して身を起こし、ドアを開けようと近づいたところで優樹菜が先にドアを開けた。


「あ、急にごめんね。今ちょっといいかな」


 彼女が抱えるようにして持っていたのは、自分の部屋から持ってきたであろう枕だった。その姿はまるで、部屋を別々にしようといって分けたあの日と同じものだった。


「いいけど。とりあえず廊下は寒いから入りな」

「うん。ありがと」


 二人で部屋の中に入り、座布団なんてものはないので俺が普段使っている椅子を優樹菜に使ってもらおうとさりげなくひいておいた。しかし優樹菜はそれに気づかなかったのか、俺と同じようにベッドの上に座ってしまった。

 これではまるで優樹菜をベッドに誘ったみたいじゃないか。


 なにも話さない優樹菜の様子が心配になり横を振り向くと、そこには外にある街灯に照らされていた彼女の顔があった。その表情は実際の歳より幼く見えた。

 そしてようやく、俺は部屋の電気をつけていないことに気がついた。


「……寝ぼけてた。電気点けるね」


 そう言って立ち上がろうとしたが、優樹菜の細く柔らかい手が俺の右手をしっかりと掴んでいた。それほど強いわけではなかったが、言葉にできない感情が微かに伝わってきているような気がした。


「ううん、このままでいい」

「それってどういう……」

「いや、このままがいいな」

「……分かった。それで、どうしたのこんな真夜中に」

「お姉ちゃんとあんまり話せてないなって。そう思ってね」

「それで来たの」

「うん。嫌だった?」

「そんなことない。むしろ、ありがとう。変に気を遣わせて申し訳ない」


 例えば恋愛をするというのは、なにかきっかけがあってとか、偶然タイミングがあってとか、そういうものだとずっと思って生きてきた。だからこそ、俺は戸惑っていた。どうしてこんなにも目の前にいる優樹菜のことを、愛おしいと想えてしまうのかということを。

 所詮、現実というのは理屈で説明できないことばかり。小説や映画のように、すべてが上手くいくはずはない。自分の感情が制御できなくなってしまい、優樹菜のことを傷つけてしまうことだって、きっとある。


「優樹菜。お姉ちゃんは約束を守れそうにない」


 もしやこれは夢なのだろうか。俺があまりに優樹菜のことばかり考えてしまう馬鹿なせいで、夢があたかも現実かのように見えてしまっている……とか。

 けれど、そんな現実逃避のような考えはすぐにどこかへ飛んで行ってしまった。自分の右手が彼女の髪の毛の内側を通り、指先が耳のほんのりとした熱を感じ取っていたからだ。

 普段と違って髪を下ろしている姿が、より魅力的に見えてた。いつのまにか、優樹菜の髪の毛は腰のあたりまで伸びていたんだな。


「どっ…どういう意味?」

「正直に言うけど、この頃の優樹菜を見てると妹として接するなんてのは無理だって気がついたんだ」


 だからもういっそのこと、嫌いになってほしかった。そうなれば、俺はきっと彼女から離れることができると、そんなことを考えたりもした。けれど考えれば考えるほどに、俺のことを嫌いになる優樹菜の姿を想像したくなかった。

 自己矛盾と自己嫌悪。分かっていても理解わかりたくなかった。


 彼女と俺は、きっと近すぎたんだ。今頃になって気づいたって遅い。


「あの……あのね。私、ちゃんとお姉ちゃんのこと好きだよ。でもね、それ以上に果鈴ちゃんのことが好き、です」

「……す」

「お姉ちゃんはお姉ちゃんだから、私のことそういう風に見てくれてないってずっと思ってたの。だから、ずっと言わないで黙ってた。でも、私の好きと果鈴ちゃんが言ってる好きは同じ意味だって…そう思っていいんだよね?」

「優樹菜……っ」


 妹同然の優樹菜と、姉代わりの俺がキスをした。とうとう唇を重ねてしまった。

 そのとき、俺はなんて薄情なやつなんだと実感させられた。俺と優樹菜のことを結んでいた姉妹という糸が、こうも簡単に解けてしまうなんて。何度彼女のことを裏切れば気が済むのだろう。

 ただ、きっと優樹菜はそんな俺のことを受け止めてしまう。苦しい思いをするくらいなら、自己犠牲を平気でする。


「本当の姉妹じゃないから。果鈴ちゃんが気に病むことはなにもないんだよ」

「優樹菜はそれでいいのか」

「友達には実の兄妹だと思われてたし、今更そこを気にする必要もないよ」

「そういうことじゃなくて……だな。俺が言ってる好きってのは、その……恋愛的な意味の好きであって」

「そういう意味で、私も好きだから。大丈夫だよ」


 彼女の涙交じりの笑顔はあまりに儚く、今にも消えてしまいそうだった。

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