第42話 一緒にいるための裏切り
俺が中学生になる少し前、俺と優樹菜は同じ部屋で生活していたけれど、もうそろそろそういう年頃だという優樹菜の母の発言により、別々の部屋にわかれて過ごすようになった。
「じゃあね、お兄ちゃん」
「うん。夜更かしするなよ」
初めのうちは大変だった。
深夜になると優樹菜が俺の布団のなかに潜り込んできて、朝になってそのことに気づき、怒られる。癖になってはいけないと思い、寝る前にわざわざ注意したこともあった。
「あのね、別に優樹菜のことが嫌いってわけじゃない」
「……うん」
「ただ、優樹菜ももうじき中学生だから。ちゃんと一人で寝れるよな」
「…どうしても?」
「どうしても」
「わかった」
枕を抱えていた優樹菜は、くるっと回って自分の部屋へと向かった。
そのときに見た、思いがけず悪いことをしてしまった子どものような彼女の瞳を、俺は今でも鮮明に思い出すことができる。
俺と優樹菜は互いにある約束をした。それは今振り返れば呪いの一種ともいえるだろう。
それは偽りの姉妹を演じること。俺が優樹菜の近くに居続けるための条件がそれだった。本物の兄妹ではないからこそ、周りからの目が痛かった。つまるところ、俺は厄介者だった。
「だいぶと上手くなったね、お姉ちゃん」
「そうかな」
「うん。違和感ないよ」
お互いに中学生だった頃、俺はだんだん優樹菜に対しての感情が憎らしくなり始めていた。
好きという気持ちが幼馴染としてというよりも、恋愛的な好きだと気づいたあの日からずっと上の空。そんな俺に、優樹菜は変わらず接してくる。だからだろうか、優樹菜から離れようとしていたのは。
家を出れば『お兄ちゃん』で、家に入れば『お姉ちゃん』だった。
姉妹ごっこだったと思う。けれど、そうしなければいけない理由はほかにもあった。
「もっとね、メイクするなら大胆にしたほうがいいんだよ」
「えぇ?」
「濃くするってわけじゃなくて、上手く重ねないと」
時間が経つにつれて、優樹菜のことを意識してしまう回数が増えていた。
例えば今こうして、優樹菜が俺の顔を真剣に見つけている瞬間。もう少し頑張れば、彼女の唇に当たってしまうんじゃないかと思えるくらいの距離。
こんなに近くにいたとしても、ちっとも緊張した素振りを見せてくれない彼女の姿に、なんともいえぬもどかしさを抱えていた。
「どうしたの、お姉ちゃん。疲れちゃった?」
「いや、ちょっと考えごと」
心配そうに俺のことを見ていた彼女の目は、いたって真剣だった。もうメイクどころではないと言わんばかりの表情で、無言のまま見つめあっていた。
「なに考えてたの」
「どこでそんなこと覚えたんだろうって」
「そんなことって?」
「いろいろ使って、顔に塗ってるでしょ?」
「ああ、メイクのこと。雑誌とかに載ってるよ。買うお金はないから、立ち読みで覚えてるけど」
「器用だね」
優樹菜は俺の女装を手伝っているわけではなく、自分の腕を上げるために練習台を兼ねてメイクを施していた。なので、俺なんかに使っていいのかという疑問はすでに解決済みなのである。
「それで、なにを考えてたの」
「だから……」
「嘘、つかなくていいよ。お姉ちゃん、なんだか辛そうだった」
こういう俺にとって都合の悪いときばかり、優樹菜の勘は鋭い。
妹だからと、なんでも言っていいわけじゃないんだぞ。そんな理不尽なことを頭の片隅で考えながら、俺はどういう風に言い訳するべきかと思考を巡らせていた。
「将来……」
「え」
「あたしたちの将来はどうなるんだろうなって」
「……急にどうしたの」
「いや、これから先もずっと一緒にいるわけじゃないでしょ? だから、どうなるのかなと」
そのまま優樹菜からの反応を待っていると、ずっと黙ったままだったせいで気づくのが遅くなったが、いつのまにか静かに泣いていた。アイシャドウのパレットを左手に持ちながら、声を出さずに涙を流し続けていた。
「おいおい、どした? 変なこと言ったか」
「……」
彼女はただ首を左右に振るばかりで、口を開けてはくれなかった。嗚咽を我慢して苦しそうな、声にならない声が何度か聞こえた。
「ごめん。あたしが悪かった。変なこと言ってごめん」
「……ん」
「今すぐって話じゃないから。だから、大丈夫だよ」
「……ぐずっ」
これは仕方のないこと。優樹菜のことを安心させるためにすること。
俺は優樹菜の姉として、彼女のことを抱きしめた。抱きしめて、頭を撫でた。すっかり大きくなった彼女の身体に、俺は少し変な気持ちが湧きそうになってしまったが、必死に心の奥底へ閉じ込めた。
このあいだ学校からの帰り道で我慢したこの行為を、俺はしてしまった。優樹菜に対して、俺はいつまで誠実なお姉ちゃんでいられるだろうか。
「ね?」
「……それなら、ずっとお姉ちゃんは私のお姉ちゃんでいてくれるの」
「任せて」
「ほんとに?」
「うん」
妹を妹として見ることができない。それは優樹菜と一緒に暮らすようになってからも、しばらくあったこと。
けれど、今は違う。今も妹を妹として見ることができていない。似たような言葉ではあるものの、意味合いが正反対だった。
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