第40話 他人でも家族だ
錯乱状態に陥っていた俺が正気を取り戻したのは、それから数ヶ月後のことだった。季節は冬になり、いまにも雪が降ってきそうな肌寒さに俺は凍えていた。
見ることを避けていたアルバム。俺はようやく、この現実を受け入れる準備ができ始めていた。
いつからか、俺は夢を見ていた。妹である優樹菜が生きているという夢。今でも同じ家で暮らしているという夢。夢から覚めたあとには、現実という海を進んでいくことでしか、人は前を見られない。
ただ、優樹菜の生きた証を目に焼き付けたい。たとえその先がないと知っていても。
「大丈夫なの?」
心配そうにこちらを見つめているのは、優樹菜の母。ある意味、俺の育ての母親でもある。
人の記憶というのは実に曖昧で、かつ奇妙だ。忘れたくない記憶ばかり失っていき、忘れたい記憶は残り続ける。思い通りにいかないものだね。
「覚悟は決めた」
「……そう」
「それに、もう逃げたくないんだ。優樹菜から」
「きっと喜ぶわ」
優樹菜母によれば、俺は優樹菜が亡くなったあとから死を受け入れることができていないらしい。ただし、決まって命日にはお墓参りへ行っていたのだそう。
気がおかしくなっていた時期の記憶は定かではないが、丘の上にある墓地に通っていたことはうっすらと思い出すことができる。しかし、記憶の中では俺と一緒に優樹菜がいた。そんなわけないと頭では分かっていても、それを否定する記憶が存在していた。
あれも夢なのだろうか。
「ありがとうな、優樹菜」
無意識のうちに、俺は両親の墓参りと優樹菜の家の墓参りをしていたのだ。
「開けるぞ」
記録とは、記憶とは異なるもの。ごく当たり前のことではあるが、アルバムを開けるという行為は優樹菜の記憶を探るようなものなんじゃないかと、ふと思った。
『他人でも家族だ。だから、優樹菜は俺の妹だ』
いじめられていた優樹菜を、子どものころの俺が守った。
歳を重ねるごとに、優樹菜への想いは増すばかり。
いつからか、俺は優樹菜のことを羨ましいと思うようになっていた。優樹菜の母と一緒に暮らしているからこそ、家族という存在が恨めしかった。
だから、俺は優樹菜の兄になろうと努力した。そうすれば、なにかが変わるんじゃないかと思い込んで。
『まだね、わたしはお兄ちゃんのこと、お兄ちゃんだと思えてないよ』
優樹菜が交通事故に遭う前に、こう言われたことがあった。なにも言い返せなかった。
俺の一人芝居だったと。これは兄を演じているだけに過ぎないのだと。
ぐるぐるとそんな後ろ向きな考えが頭の中を駆け回っていた。
『それなら、お兄ちゃんじゃなければいいのか?』
たぶん、相当な馬鹿だったんだろう。俺はあろうことか、兄としての役割を捨てて姉として優樹菜に寄り添うことにしたのだ。
つまり、幼馴染に家族だと思ってもらうために、俺は女装を始めた。
『じゃあ、このまま写真撮ってもいいかな』
『この格好でいいのか』
『わたしのために頑張ってくれたんだから、残しておきたいの』
お姉ちゃんになれたと思っていた。しかし俺はそれからすぐ、転落事故に遭ってしまった。それから先の記憶はとても曖昧で、アルバムにはそのあいだの写真もあった。
数年間の記憶が、ごっそり抜け落ちているのだ。
それが影響しているのか、優樹菜が交通事故に遭ったという出来事をまるで覚えていない。
『お姉ちゃんへ』
ページのあいだに挟まっていたのは、白い便箋だった。そこには小さめの文字でそう書かれていた。それはもう交われないと思っていた、過去の優樹菜と繋がれる手紙だった。
『書くか迷ったけど、手紙を書くことにしました。
もしお姉ちゃんの記憶が戻ってなかったらびっくりしてしまうと思うので、それも兼ねて書きます。
数週間前に交通事故にあいました。見た目のケガもかなり酷くてずっと入院していました。
けど退院する直前の精密検査で脳に障害が残っていることが分かったの。そこで先生にもう打てる手段はないって言われちゃってね。たぶんお姉ちゃんの記憶が戻るまで、わたしは生きられないんだって思った。直接言われたわけじゃないけど、直感でそう思った。
だからね、ありがとうってお姉ちゃんにどうしても言いたくて。
こんなに気持ちは元気なのに、体がもうダメなんだって。そんなことあるんだね。
お姉ちゃんは願掛けしてるから、きっともう大丈夫。お母さんには内緒で、もう一度神社へ行ったの。その罰がきっと当たったんだと思う。でも、これでいいの。
唯一心残りがあるのは、お姉ちゃんに本当の気持ちを伝えられなかったこと。死んでしまったら後悔できないから、本当のことを書きます。
ずっとお姉ちゃんのことが好きでした。今もそうだし、きっとこれからも好きです。
でもお姉ちゃんに他人でも家族だって言われて、好きになっちゃいけないって。だからずっと隠してた。本当に好きだったから、ずっと一緒にいられるようにと思って願掛けしたのにね。
もしわたしが死んでしまってお姉ちゃんの記憶が戻っていたら、お母さんのことをお願いします。きっと寂しいと思うから。
お父さんもいないから。
最後に幼馴染としてのお願いがあります。
ちゃんと好きな人を見つけてください。いつまでもわたしばっかり構ってたら、まわりの女子に嫌われちゃうよ?
そりゃね、わたしはそのほうが嬉しかったりするけど。
ありがとうね。お姉ちゃん。』
「優樹菜……」
泣き叫ぶというよりも、静かに止まらない涙を流し続けていた。いつから俺は泣いていたんだろう。
この瞬間、やっと俺は優樹菜の気持ちを受け取ることができた。それが意味しているのは、現実を受け止めることができるくらいに俺自身が成長できたということではないだろうか。
それに対して、優樹菜は強い。彼女は本当に強い。
どうしようもない現実を受け入れようと、必死に頑張ったんだ。それなのに俺は受け止めきれずに逃げてしまっていた。
優樹菜。俺はちゃんと女子高生になれたよ。変態とか気持ち悪いなんてことも言われたけど、そのほうがインパクトがあるもんな。
少しでも近づきたくて、俺は優樹菜のお墓参りに行った。もうずいぶんと待たせてしまった。待ちくたびれたよ、なんて言われてしまうかもしれない。
「おにぎり持ってきたぞ。冷えちゃったけどな」
持ってきたのは二人分。片方を取って、立ちながら一口食べた。
芯から冷える寒さのせいか、降っていた雨はいつしか雪に変わっていた。優樹菜の命日は、冬の寒い日だったのだ。
「優樹菜の分も、俺が頑張って生きてやるからな」
舞い落ちる雪を見ていると、まるで優樹菜が俺の周りにいるかのような感覚に陥っていた。もしかすると、彼女が会いに来てくれたのだろうか。そう思うと、目の奥がだんだんと熱くなっていった。
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