いもうと
第39話 想い出を抱きしめられたら
九月になってしばらくが経っていた。
スポーツ大会のことはすっかり過去の出来事になり、生徒会長としての期間も終わっていた。夏休み前に実施された会長選挙で、すでに新しい会長が決まっていた。
もう俺が生徒会室に行くことはないだろう。
「果鈴…!」
「うぉっ?! 急に後ろから話しかけてくるな、びっくりするから」
「はは。ごめんねー」
相変わらずハイテンションで駆け寄ってきたのは、春花だった。
生徒会長の役目を終えてから、正直なところ燃え尽きてしまっていた俺を引っ張ってくれたのは彼女だった。それまで付き添ってくれていたのは夏菜子だったが、いつのまにか夏菜子は、俺に対してあまり干渉してこなくなった。
「いいけどさ。今から帰り?」
「そだよ。なに、一緒に帰ってくれるの?」
春花は目をきらきらさせて俺のほうを見ていた。俺としては友達として当然の誘い方をしたつもりだったのだけれど、なぜそんなに嬉しそうなんだ。
昔の自分と比べれば、ほんの少しくらいは女の子への耐性がついてきたかもしれない。だから、これくらいの会話も抵抗なんてほとんどなくなっていた。
そもそもなぜ、俺は女の子が苦手だったのかと思えるくらいに。
「んじゃ、腕でも組みながら帰りますか!」
「なんでそうなるんだよ?」
はたから見ればどう映っているのだろうと、ふと思う。
女装をしている俺と俺の腕に絡むように寄りかかる春花。俺の事情を知らない人からすれば、仲のいい女の子同士と思われるのだろうか。それとも、特別な関係にある二人だと思われてしまうのだろうか。
「またいちゃついてるの、お二人さん」
「いいでしょー? 夏菜子ちゃんも反対側に来ちゃいなよ」
「な?!」
「いい。遠慮しておく! 春花ちゃんに悪いから」
前からあまり話す機会はなかったものの、夏菜子と話す機会は夏休みが明けてから極端に少なくなっていた。仮とはいえ姉妹になったのだから、あまり離れてほしくないと思っていた。
また一人に戻るのは嫌なんだ。
「悪いってなにが? とりあえず一緒に行こうよ。これからお墓参りに行くんだよ」
「今日はそうね…優樹菜ちゃんの…」
「優樹菜…? どうしてそこで優樹菜の話になるんだ」
二人の話し声が聞こえてきて、思わず反応してしまった。それに二人は驚いてしまったのか、憐れむような瞳で俺のことを見つめていた。どうしてそんな目をするのか、俺には理解できなかった。
ただ純粋に、話の内容を知りたいと思っただけなのだが。
「そういえば最近、優樹菜と話せてないんだ」
「最近って…いつからのこと?」
「三週間前くらいかな? 何度か戻ってきてご飯を作ってくれてはいるみたいなんだけど、俺だけ避けられてるんだ」
こういうことが今までなかったわけじゃない。そのせいか、俺の気持ちはいたって冷静だった。なんかが原因で家に居づらくなってしまったんだろう。
きっとまた俺が余計なことをいってしまったんだ。ついつい優樹菜のことになると、当たりが強くなってしまう。心配なだけなんだけど、鬱陶しいと思われたりしてるんだろうな。
優樹菜が小さなころはよく一日中べったりくっついてきたりしていたが、今はもうされそうにないな。
「あの…果鈴ちゃん?」
「なんだ」
「覚えてないの?」
「だから、なにが」
「優樹菜ちゃんはもう……」
それより先の言葉を聞いてしまうと、俺はどうにかなりそうだった。
耳の中に言葉が入ってこないように、必死になって走っていた。二人を置いてけぼりにしていることとか、なんで逃げてしまったのかは考えないまま、ひたすらになにかを追いかけていた。
家に帰れば、きっと優樹菜がご飯を作って待ってくれていると、そう信じて玄関の扉を勢いよく開けた。
「…ただいま!」
靴を揃えるような余裕はなく、すぐにキッチンへと向かった。流し台を水が流れる音がする。きっと優樹菜がご飯をいつも通りに作ってくれているんだと、そう思いながら顔を覗かせてみた。
すると、そこには見覚えのある後ろ姿があった。
「優樹菜、やっと会えたな。ずっと心配だったんだぞ」
「……果鈴お兄ちゃん」
「悪かった。俺がなにかしたんだよな? だから、最近会ってくれなかったんだよな?」
「…果鈴くん? どうしちゃったの」
「ごめんな。頼りない兄で」
「ちょっと…!」
優樹菜は水で濡れていた手で俺の頬を冷やしていた。まだ暑いけれど、ずっと水に手があたっていると冷えてしまうんだろうな。
「しっかりしなさい! 私は……優樹菜じゃないのよ」
「……え」
その瞬間、心の内側に張られていたガラスが思い切り砕けてしまった。目の前の景色が現実なのか夢なのか、それとも幻想なのか。その判断がつかないほど、ひどく混乱していた。
ほどなくして、玄関あたりからバタバタと足音が迫っていることに気がついた。そんなに慌てて、いったい誰が来たんだ。
「果鈴ちゃん?!」
叫ぶ声が聞こえ、俺は女の子に抱きしめられていた。なにが起きているのかがはっきりせず、ただ流れに身を任せていた。見える景色はひどくよどんでいた。
後ろからバタンという音が響き、もう一人の女の子が小走りで駆け寄っていった。
「ねえ、ずっと言いたかったことがあるんだけど」
「春花ちゃん…!? どうして島にいるの?」
俺よりも先に春花の存在に気がついたのは、優樹菜の母だった。
『どうして島にいるの』
その耳に残る言葉の使い方が気になってしまったが、今はそれどころではない。
「春花か。そんなに怖い顔してどうしたんだ。それよりも優樹菜の居場所を知らないか?」
「そのことなんだけどね……」
「もしかして、見つけたのか?」
「優樹菜ちゃんは……もうここには帰ってこないの」
「どういうことだ」
頭が働いていなかった。点と点がまばらに散っていて、上手く線を引けなかった。
帰ってこないと断言できる理由が、知りたい。混乱しながらも、俺はそう思った。ちょっとした家出という雰囲気ではなさそうだったからだ。
「果鈴は『まだ』気がついていないかもしれないけど。あのね、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
「なんだ。もったいぶらずに言ってくれ」
妙に息をするのが苦しくなってしまい、俺は制服のリボンを外してソファーに投げた。
「優樹菜ちゃんはもういないの」
「…はい? 冗談もほどほどにしてくれ。言っていいことと悪いことがあるぞ」
「交通事故のあとで亡くなったでしょ? 覚えてないんだよね?」
亡くなった。なくなった。ナクナッタ?
交通事故のあとで亡くなった。誰が。優樹菜が?
「そんな馬鹿な。だって、今までずっと一緒に暮らしてきたんだ。そんなわけないだろ」
「本当なの。…それに、きちんと優樹菜ちゃんの遺影があるはずよ?」
「死んでないのに、遺影なんてあるわけないだろうが! いい加減にしろ!」
ぐちゃぐちゃだった。目尻からは涙が溢れて止まりそうになかった。
なんで泣いているのか、感情がかき乱されている原因がどこにあるのか、考える余裕はなかった。ただ、俺は馬鹿だった。
この女の言うことを少しでも信じようと思っていた俺が、一番馬鹿だったんだ。
罪を背負うのは、俺一人だけで十分。優樹菜はなにも悪くないだろうが。
無意識のうちに、キッチンのそばにある棚の上に手を伸ばしていた。そこにはハコがある。優樹菜が絶対に開けないでと言っていた、ハコがある。
これを開けられると、すべてが終わってしまうと。別れを告げなければいけなくなると。心のどこかで識っていたのかもしれない。
だから俺は、なにも分からないままで手を必死に伸ばしていたんだ。それがたとえ優樹菜との約束を破ることになったとしても、今だけは許してくれると信じていたから。
「…もしかして、それが隠し箱なのね!」
「待て。ちょっと待ってくれ! これに触るな!」
なにを頑張っているのだろう。誰のために頑張ったんだろう。
幼馴染の優樹菜のため。妹の優樹菜のため。
家族だと認めてくれた、優樹菜の母親のため。
いや、きっとどれでもない。俺はわがままだ。だからきっとこれは、俺が俺のためにしていること。自分の記憶が正常なんだと思えるようにするための、儀式的な行動にすぎないんだ。
「放しなさい! ……あっ」
「あ……」
春花に引っ張られて俺の手からそれは離れ、彼女の手からも滑り落ち、空中で半回転するようにして床に叩きつけられた。そうして中から飛び出していたのは、モノクロの優樹菜だった。その姿は幼く、時間が止まったままかのようだった。
それを見た俺は、平常心ではいられなくなっていた。叫びたくて、泣きそうで、吐きそうだった。
「はは…ははは…」
「春花ちゃんなんてことするの…?」
「もう優樹菜ちゃんはいないのに、いつまでも果鈴の妄想の中にいる優樹菜ちゃんの話を聞かされるのはもうこりごりなの! もう…もう受け入れてるものだと思っていたのに、全然そんなことなかった!」
「だからって、こんなのひどいよ……」
涙でぼやけていた視界がもとに戻り始めると、目の前で突っ立っている優樹菜の姿が徐々に見え始めた。もしかして、ハコを開けてしまったから怒って出てきてしまったのだろうか。
それならまずは謝らないとな。
「優樹菜、いつからそこにいたんだ?」
「え…え?」
「ごめんな。開けるなって言われてたハコ、開けちゃって」
「ちょっと待って」
「だいぶと探したんだぞ? 今までどこ行ってたんだ?」
「私はかな…うぐっ…」
優樹菜がなにかを言いかけたところで、優樹菜の母親が彼女の口を手で塞いだ。なにか都合の悪いことでもあったのだろうか。
秘密にしていたことを第三者にバラされるのを防ぐ、みたいな雰囲気だった。まあ今更、俺たちのあいだで隠し事をする必要なんてなさそうだけどな。
「それ以上はあかん。あかんで夏菜子ちゃん……」
「ほら、せっかくだし今日は俺が夜ご飯作るよ。優樹菜はなにがいい? 春花も一緒に食べていくよな」
「うぇっ? わたしも?」
「ああ、春花も。リクエスト受付中だ」
「ええっと、果鈴と一緒に食べるの?」
「当たり前じゃないか。いつも優樹菜と二人で食べてただろ?」
「そ、そうなんだ。…なんでもいいよ?」
なんだか、優樹菜の動きがとてもぎこちない。まるで知らない人の家に遊びに来た子どもみたいだ。久しぶりにまともに話しているから、余計な緊張でもしているのだろうか。
「それが一番困るんだよなぁ。よし、それじゃ肉じゃがでも作るか。そうと決まれば買い出しに行くぞ。春花も一緒に来るか? もちろん、優樹菜と一緒に」
「…行ってくれへんか?」
優樹菜と優樹菜の母親が今までとは違って、とても近い距離で話をしているような気がする。きっと俺の想いが伝わったのだろう。そう思うと、なんだか救われたような気持ちになれた。
これからはきっといい風が吹いてくれる。優樹菜と俺と、優樹菜の母親。三人で家族。一家団欒なんて言葉とは程遠い生活をしていたこの家で、新たな生活が始まる。そんな予感がした。
神隠しに遭わないように、俺はこれからも女装をし続けるだろう。それが優樹菜の願いなんだから。
「…ね、果鈴お兄ちゃん?」
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