第33話 目の前に現れない優樹菜
「それで、なにか話があるのよね?」
「はい。どこから話せばいいのか……なんですけどね」
俺は緊張していた。額からひたすらに流れる冷や汗を気にしている余裕がないほど、すぐ目の前にいる優樹菜の母親に話しかける気力がなかった。
それがどうしてなのかははっきりしていた。ここ数年間のあいだ、ほとんど直接話していなかったからだ。玄関やリビングの置き手紙が、俺と優樹菜の母親を繋いでいる糸だった。
もちろん優樹菜のためを想ってというのもあるが、俺はいつからか会話をするきっかけを探してしまっていたのかもしれない。だからこそ、こんなに遅くなってしまった。
「優樹菜のこと……」
言葉が詰まってしまう。この人の前にいると、どうしても頭が真っ白になってしまう。
決して優樹菜の母親が悪いわけではない。きっと俺はこの人を苦手に思ってしまったそして、それを引きずったまま今日まで過ごしてしまった。だからこれは自分への罪。罪はいつか償わないといけない。
区切りをつけるために、俺は向き合わないといけない。目の前の人と。
「…優樹菜がどうかした?」
「どうして最近、あまり話してないんですか?」
「どうしてって…そう言われてもなぁ…」
「寂しがってますよ。きっと」
「果鈴ちゃんだって…寂しいやろ?」
「そんなことないです。俺は優樹菜と毎日話してますから」
「……そうかあ」
納得できないような表情を浮かべながら、気も紛らわせるように左手に持っていた煙草を吸い始めた。俺はまだ高校生だから、煙草は吸っていない。どんなものかと気になって見様見真似で吸ってみたことはあるけれど、あまりの苦さに吐いてしまった。
特有の匂いが体に染みつくと聞くし、そこまでして煙草を吸い続ける理由はどこにあるのだろう。
「大丈夫や。八月になったからなぁ」
言っている意味がよく分からなかった。俺にとってこの人と関わることは、心の痛みを感じてしまう行為。そのせいで極力会話の回数を減らしたいという考え方になってしまう。悪い癖なのだけれど、なかなか直せない。
優樹菜のためにも早く慣れないといけないなと思いつつ、数年が経ってしまった。
「ほら優樹菜も…ってあれ? どこに行ったんだ」
泣きそうな顔を堪えながら後ろを付いてきていたはずの優樹菜が、ドア越しにいるはずだった。けれど、そこには誰も立っていなかった。もしかすると、話を聞いているうちに怖くなって逃げてしまったのかもしれない。
「優樹菜と一緒におったん?」
「そりゃそうだよ。同じ家に住んでるんだから」
「……ああ、そうやな。でも、夏休みにずっと一緒におるっていうのも変な話やろ?」
「たしかにそうかも」
「やから、一緒でなくてもおかしくないで。むしろ、ずっと一緒におったらつかれる」
「それもそっか。…でも、それとこれとは別ですからね? 優樹菜とたまにはちゃんと話してあげてください。優樹菜にとって、あなたはたった一人の家族なんですから」
「それは違う」
「え?」
俺の顔を見て、今にも消えそうな儚い笑みを浮かべながら頭を撫で始めた。それにどんな意図があるのかは分からなかったけれど、優しさが伝わってくるような感覚があった。
「優樹菜は、あんたの妹や。やから、あたしとあんたと優樹菜、三人で家族やろ?」
「俺のことを『家族』だと認めてくれるんですか」
「今更なに言ってんの。もう何年も一緒に暮らしてるのに」
「……ありがとうございます」
今まで極端に関わってこなかったばかりに、俺は勝手にこの人のことを苦手に思っていた。けれど、優樹菜のおかげでほんの少しだけ近づけたような気がした。
「そういえば、最近はご飯食べてくれるようになったなぁ。なんかあったん?」
「…? なにかあったもなにも、優樹菜が作ってくれるのを食べてるだけですよ」
「そっか。なるほどね」
どこか納得したような表情をしながら、優樹菜の母親は俺の手を握っていた。ほんのりと温かいその手は、微かに震えていた。まるでなにかに怯えるように、なにかが終わるのを待っているかのように。心だけが取り残されていた。
彼女はどのくらい優樹菜のことを待っているのだろう。
「もし…もし、黒か白かの二択でどちらかを必ず選ばないといけないとしたら、どうしますか?」
「どちらかは選ばないとあかんのか?」
「うん。そうだよ」
「混ぜてもよくないな」
「混ぜちゃだめだよ。黒か、白か、だよ」
「もし私がどちらかを選ぶ立場なら、どちらも選ばないと思う。どちらかを選ぶことで片方が染まってしまうなら、選ばないという選択肢を選ぶ」
「……それじゃ、優樹菜がかわいそうだよ」
優樹菜の母親はどちらも選ばなかった。だから、今もこうして同じ屋根の下でともに暮らす『家族』になってしまったのかもしれない。
それが優樹菜にとって最善だったのかは分からない。たった一つだけ確実なのは、最善と最良が同じ未来を指しているとは限らないということだった。だからこそ、俺はこうしてまた優樹菜を探しに夕暮れの田んぼ道を進む。きっとこの先で待っていると信じている。
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