第31話 とても迫力のある儚いなにか

 夏に咲く桜は、美しかった。あまりの美しさに、眺める時間だけではなく心まで奪われそうなほどに。

 茹だるような暑さと太陽の日差しにも負けず、神社の桜は満開になっていた。


 満開になると、普通なら花は散っていく。しかし、なにかを待つように花は散っていなかった。花びらたちがなにを待っているのか。

 人、もの、時間。それとも、どれでもないのか。


 いずれにしても、夏特有の青々とした葉と共に咲き誇る桜は、儚い。まるで、散るのをためらっているようにも、思える。



 桜の渦をみた。どこかの海岸の近くにある神社の鳥居の前で、知らない女の子が浮かびながらゆっくりとまわっていた。そして、その子を取り囲むようにして桜が集まっていた。


「お姉ちゃん、会いに行くね。ちょっと遅くなっちゃったかもしれないけど、待っててね」


 俺はなぜかその女の子をみて、優樹菜だと思った。夢にいる女の子の服装は紺色のセーラー服で、髪は黒髪で腰のあたりまで伸びているような気がした。優樹菜の髪は腰のあたりまで伸びていないし、髪も茶色。似ているとはとても言い難い。それなのに、どうして『似ている』と思ったのだろう。



 カーテンの隙間から差し込んでくる太陽の光で、朝になったと気がついた。つい先ほどまでみていたはずの夢が夢なのだと、そこでようやく実感できた。

 ぼんやりしている意識を起こそうと、軽く頭を叩き、洗面台へと向かった。


「優樹菜、おはよう」

「おはよ、お……果鈴ちゃん」

「もしかして、朝ご飯作ってくれてるの?」


 リビングに行くと、キッチンでなにかの料理をしている優樹菜の姿が見えた。


 優樹菜が優樹菜であるということを思い出したのはいいが、俺の妹として数年間生きていたという事実が受け入れられなかった。確かに、家族同然に子どもの頃は一緒にいた。冗談まじりに妹として友人に紹介したことも、なかったとは言えない。

 けれど、彼女が言っているのはそういう『冗談』のレベルではない。なんでも、立花の本家がある東桜まで行って、話をつけてきたと言うのだ。つまり、彼女は立花家に認められた義理の妹、ということになる。

 それが本当か嘘なのかというのを疑うよりも、現実を受け入れる選択肢を選ぶべきなのではないかと思う。


 あの日、手元にはアルバムが二つあった。


 一つ目は、俺たちの幼い頃の写真が入っている、アルバム。そこには、子どもの頃の春花や冬子の写真が一緒に入っていたし、俺たち四人が一緒になっている写真もあった。優樹菜によれば、春花と冬子は島に戻ってきているらしい。

 春花に連れられて、ここ最近は島のあちこちを巡っていたらしい。なんでも、幼い頃の記憶捜しをしていたそうだ。誰かとそんなことをしていた、微かな記憶はあったが、それが春花だったことを覚えていない。

 ここにあるのは、過去のこと。


 二つ目は、俺と優樹菜だけの写真だった。記憶が曖昧になっている、ここ数年の写真のようだった。そこには優樹菜の母親が写っているものもあり、季節ごとの行事、七種ななくさ祭りや花火大会、桜祭りなどを俺と優樹菜が二人で行っている写真がたくさん入っていた。印字されている日付を見れば、それがつい最近まであったことは明らかだった。

 ゆえに、こちらは過去ではない。


「どうしたの? そんな難しい顔しちゃって」

「あ、いや。優樹菜の作る卵焼きは、甘かったかなと思って」


 やはり俺は、どちらかを選ばないといけないんだろう。

 春花といると、過去の記憶が帰ってくる。けれど、帰ってくればくるほど現在いまのことを忘却してしまう。

 優樹菜は、俺が神隠しにあわないように考えてくれている。それには、俺が自ら女装をして姿を隠すことが必要。けれど、過去の記憶は取り戻せない。


 優樹菜の話を信じている。それゆえに、恐れていた。

 このまま過去の記憶を取り戻し続けるのは、本当にいいことなのか……と。


「…甘くないよ?」

「甘くないか」


 風を入れるために窓を思い切り開けると、リビングの中にセミの鳴き声が響いた。これを聞くと、今年も夏が来たんだと感じる。

 そんな考えを知ってか知らずか、桜の花びらが風に乗ってリビングに入ってきた。


「なあ、優樹菜」

「なに?」

「桜が咲いた理由、知ってるの?」

「識らないよ?」

「そうか」


 俺には根拠のない自信があった。それは、優樹菜がなにか大事な記憶を隠しているということだった。けれどそれがどういうものなのか、どの程度重要なことなのか、そんなことは見当もつかなかった。

 優樹菜だけで抱え込んでほしくはなかったが、正直なところをいえば、幼馴染と一緒に暮らしているという事実が辛くもあった。


 だって、あのときの俺は優樹菜のことが……好きだった。子どもの頃の感情を恋として数えていいなら、あれは間違いなく『初恋』だった。

 それがなんだ。急に記憶が消えてしまって、優樹菜から『お兄ちゃん』なんて呼ばれていて、数年間の俺がどこかへ行ってしまった。俺は、どこへ行ってしまったんだ。


「果鈴ちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど」

「お願い?」


 リビングにあるテーブルの上に朝食の準備をしながら、優樹菜は唐突にこんなことを言い始めた。


「私、果鈴ちゃんのこと好きだからね、ほんの少しだって忘れてほしくない。けど、忘れちゃったものは仕方ないから、果鈴ちゃんの今年の夏を私にください」

「…え?」

「過去にはきっともう戻れないから、今日から二人で始めようよ。私とお兄ちゃんは、兄妹なんだって。兄妹らしいこと、いっぱいしようよ」

「兄妹らしいことって、例えばどういうの?」

「うーん。一緒に山登りしたり、川で魚とったり、海を見に行ったり、そういうの」


 忘れてしまったということが判明して、数日。どこか閉塞感に襲われていた俺に明るい笑顔を見せ続けてくれたのは、優樹菜だった。

 例の話を聞いてから、春花に会うことを無意識のうちに避けていたからかもしれない。


「昔やってたことと同じだな」

「ううん、同じがいいの」

「分かった。スポーツ大会があるから毎日ってわけにもいかないけど、今年はそういう夏にしよう」


 明日、どうなるか分からない。だからこそ、俺は幼馴染のためにお兄ちゃんをすることにした。失くしてしまった記憶を、アルバムの中だけで完結させたくなかったから。それは、あまりに悲しいから。


「俺も優樹菜のこと、好きだからな」


 優樹菜のことを忘れたくない。

 もしこの出来事が昔の俺がした行為の代償だというのなら、それに抗おう。俺が優樹菜のことをまた忘れてしまったとしても、頑張って想い出すために記憶を残せるように。


 俺は、女子高生になりきってやる。

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