第30話 お兄ちゃんを守りに来たんです!
「おかしいな……」
子どもの頃のアルバムを、なぜ俺は持っているんだ?
場所だけは知っていた。ずっと隠されていた、あの箱の中にある。そのはずが、なぜか今目の前にあった。
「お兄ちゃん!?」
ノックもせずに部屋のドアが勢い良く開き、その向こうからは……えっと、誰だっけ。そう、いつも元気が良くて俺にいろいろとしてくれる子。待てよ、聞き間違えでなければ、入ってこようとしている女の子は俺のことを『お兄ちゃん』と呼んだ。
俺に妹なんていたっけ。
「あの…誰ですか?」
そう聞くと、女の子はまるで幽霊でも見えているかのようなげっそりした表情で、俺の顔を覗き込むようにしてみせた。
「え、嘘でしょ? そんな、言ってもいい冗談ってのがあるんだよ、お兄ちゃん」
「お兄ちゃん? って、俺のことを言ってるんだよね」
「そう。もしかして、私のこと忘れちゃったの…?」
なんだか恐ろしくなってしまい、俺はゆっくりと頷くしかできなかった。
「立花優樹菜……です。一応」
「優樹菜……あ、そうだ。優樹菜だよな」
「思い出してくれた…?」
目の前の女の子と優樹菜が上手く結びつけられないまま、俺は泣き崩れてしまった姿をただ眺めて、しばらく背中を撫で続けた。
やかんで沸かしたお湯を急須に注ぎ、それをリビングに持っていくと、どうやら落ち着いた雰囲気の優樹菜がいた。
「落ち着いた?」
「うん。お茶、作ってくれたの?」
「そう。優樹菜は、冷たい麦茶とかのほうがよかった?」
「ううん。今は熱いのがいい」
優樹菜はそう言って、自分の息で冷ましながら飲んでいた。それにならって、俺もお茶を飲んだ。真夏に飲む温かいお茶というのも、これはこれで美味しいのだ。
優樹菜が俺のことを『お兄ちゃん』と呼んだ理由が分からず、いまだに気持ちがふわふわと浮いていた。もしかして、これはそういう遊びだったりするのだろうか。そしてなぜ、そんなにも当たり前のようにリビングにいるのだろう。ここは、優樹菜の家ではないはずなのだけれど。これも、そういう遊びのうちの一つなのか。
「あのさ、まだ想い出せてないよね」
「…なにを?」
「私が、立花優樹菜だってこと」
彼女の口調から読み取るに、それは冗談でもなんでもなさそうだ。真剣に、俺のことをお兄ちゃんと呼んでいた。だからこそ、自分のことを立花優樹菜と言っているんだ。
優樹菜は、立花家の人間ではないのだから。
リビングに吹き込んでくる風が、カラッとして暑く、まとわりつくようなものだった。逃げ場のない場所にいるような、そんな感覚にも似ていた。
「まず、聞かせてほしい。優樹菜はどうしてここにいるんだ」
「嫌な予感がしたの。島の神社にある桜が、狂い咲きしていたから」
「桜が咲いてるのか?」
この時期に? 俺の感覚がおかしくなっていなければ、今はまだ八月。八月に桜が咲くなんて話、今まで聞いたことがない。そもそも、セミが鳴いている。セミと桜の組み合わせなんて、誰が喜ぶんだ。
「咲いてるよ。だから、慌てて家に帰ってきたの。そしたら、お兄ちゃんがアルバムを見てて……」
「あのさ、ごめん話してる途中に。どうして俺のことを『お兄ちゃん』なんて呼び方をするんだ?」
純粋な疑問をぶつけてみたところ、それを聞いた優樹菜が頭を抱えていた。本当は自分で想い出したかったんだけれど、これだけ話していて想い出せないなら、きっとできないと判断した。
これだけ親し気に話しかけてくる様子を見る限り、まるで本当の兄妹のようだ。しかし、肝心な俺の記憶には何一つそれらしきものはない。それとも、単なる優樹菜の想像の話だろうか。いや、きっとその線は薄いな。
「どこまでなら、覚えてるの」
「……優樹菜と俺が幼馴染で、昔はよく一緒に遊んでいたってところまで」
「冗談……じゃないんだよね」
「俺には、どうして優樹菜がここにいるのかが分からない」
そう伝えると、優樹菜は俺にこれまでの経緯をゆっくりと丁寧に話してくれた。話を聞いたことで、これまでの記憶に被さっていた霧のようなものが少しだけ晴れたような気がした。
けれど、彼女から聞く話をすべて信じることができなかった。記憶の中にいる彼女は、確かに幼馴染。けれど、幼馴染でしかない。証拠云々というよりも、接し方がまるで分らなかった。
「そしてね、ここからが一番大事なんだけど。果鈴ちゃんは神隠しの話、覚えてる?」
「神隠し…?」
「そう。神様に見つからないようにしないと、現世から消えてしまうの」
「うつしよってなんだ?」
「現世っていうのは、簡単に言えばこの世ってことだよ」
この世から消えてしまう? それはつまり、俺が存在しないことになる。……死んでしまうのか。
「幼いころに記憶を盗まれた者は、遠くない未来に存在も奪われる。そういう、島の伝承があるの。それから逃れるために、果鈴ちゃんの親御さんは女装をさせていたらしい。というか、そのころの記憶はないの?」
「あったかもしれないけど、もやがかかったみたいになってて、想い出せないんだよね」
自分の知らない自分の話をされるのが、俺はとても苦手だった。それは本当に自分のことなのか、という確信がもてないから。
「……そっか。それでね、果鈴ちゃんは願掛けをすることにしたのよ。私の本物の『お姉ちゃん』になろうとした。それも、ただの願い事じゃない。島の神社へ行って、二人で願掛けをした」
「二人で…?」
「うん。私と二人で手をつないで、二人で願掛けをしたの。……そうすれば、願掛けの代償を分け合えると思っていたから。でも、そんなことはなかった。どうするかいろいろと考えて、私は果鈴ちゃんのお母さんと同じことをしたの。それが、果鈴ちゃんを女装させること」
「願掛け……かぁ」
「そしてね、ある程度、秘密を抱えたままお兄ちゃんを守るつもりだった。そうすれば、きっと忘れたりしないと、勝手に思ってたから。けど、だめだったね。……どうして、二人で願掛けしたのに、お兄ちゃんばかり奪われちゃうのよ」
泣きそうになる優樹菜の頭の上に自分の手をのせて、優しく撫でることしかできない自分が、どうしようもなく無力に感じた。これでは、彼女にばかり責任を押しつけているみたいじゃないか。
「…優樹菜、俺は信じていいんだな?」
自分に言い聞かせるように、優樹菜に聞こえるか聞こえないか程度の声量でそう呟いた。
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