第26話 願掛けの代償

「もう、戻らないんですか?」

「まったく……というわけではないかもしれない。本当に、そうなるかもしれない。記憶喪失だとするならば、ふとした瞬間に記憶が蘇ることもあるからね」


 お医者さんと私と、私のお母さん。三人で話を聞いた。

 どういうわけか、私が果鈴ちゃんの“妹”であるということは、綺麗さっぱり忘れていた。

 意識が戻ったあとに、私を見て発した第一声は『すみません。誰ですか?』だったりする。


 こんなことになったのは、どうしてだろう。島の掟を破ろうとしたから? それとも、お姉ちゃんがそう望んだ?

 どちらにしても、私のことを忘れてしまっているという事実が、どうしようもなく苦しかった。まるで、今まで生きてきたことを全部否定されているみたいだった。


「私は、南高津出身ではないから、掟うんぬんのことはまったく信じていない。だからこそ、原因が突き止められずに申し訳ないと思っている」


 意識が戻ったあとも、お姉ちゃんは寂しそうで、苦しそうだった。

 体力や筋力が落ちているはずだった。それでも病室のベッドから私が離れようとすると、お姉ちゃんは寝ているはずなのに、腕に握った跡がついてしまうくらい強く引っ張られてしまうこともあった。

 深い闇に飲まれるみたいで、怖くて怖くて仕方なかった。


 だから私は、お姉ちゃんに嘘をつくことにした。いくつもいくつも、嘘を重ね続けた。そうすれば、きっとお姉ちゃんは救われるんだと、無邪気にそう信じていた。

 自発的じゃなく嫌々女装をさせられていたとか、ずっと友達がいなかったから私と二人きりで遊んでいたんだよとか。だんだんとエスカレートしていくと、日常の些細なことまで、嘘で塗り込むようになっていった。

 お姉ちゃんが苦しまないようにと、過去の記憶を消してもらう願掛けもした。


 そうすると、どうなるかは分かりきったことだった。

 それまで断片的に残っていたお姉ちゃんの記憶は、完全に消えてしまった。

 だからもう私が伝えない限り、お姉ちゃんのお父さんとお母さんが亡くなった原因が、お姉ちゃんの病気のせいだったと思い出せない。記憶が想い出に変わることなく、消えてしまったのだから。


「なにも思い出せないのかい?」

「はい……。気持ちが軽くなっていくような感覚なんです。つい数分前のことも、ポロポロと抜け落ちていくみたいで」

「……困ったなぁ」


 お医者さんはお手上げ状態だったと思う。検査しても異常なし。外傷なし。精神的にも問題なし。いたって正常だと、何度検査しても同じ結果だった。

 話を聞くたびに、私は震えた。記憶が抜け落ちてしまう原因は、私がしてしまった願掛けのせいではないかと。それを止めない限り、毎日同じ話を繰り返さないといけないと。



 その日の夜、私はまた神社に来ていた。電灯が参道にあるわけではないので、かなり薄気味悪い風景が広がっていた。誰の気配もなく、しんと静まり返っている。

 七草の原色が刻まれたお守り。それだけを握りしめて、私は再び階段を往復する願掛けをしようとした。もうお姉ちゃんの記憶を取らないでください。そう願うつもりだった。けれど、後ろから誰かが近づいてくる音が境内に響いていた。


「優樹菜。なんでこんなところにおるんや」

「お母さん…? なんでいるの」

「それはこっちのセリフ。…あんた、なにしようとしてたん?」

「“お姉ちゃん”の具合がよくなりますように、ってお願いするつもりだった」

「嘘つきは泥棒の始まりって言うよな。しょうもない逃げ道作らんと、はっきり言ってみ?」


 隠しても無駄だってことは、頭では理解しているつもりだった。でも、ここで本当のことを言ってしまったら、なにかが壊れてしまうような気がして怖かった。


「なんで嘘だって分かるの」

「自分の左手よう見てみ。答えはそこにあるわ」


 左の握り拳の中には、七色のお守りがある。それはつまり、願掛けをすることと同義。お母さんは初めから、分かっていたのかもしれない。


「願掛けを取り消しに来た、そんなとこか?」

「……うん」

「アホか。罰当たりにも程がある」


 そう言ってお母さんは、私の頭の近くまで手を伸ばしてきた。痛いことをされると思い、咄嗟に頭の上を隠すように両手で覆った。すると、手の上を優しく撫で始めた。


「そもそも、そのお守りはあたしの。パクったらあかんやろ」

「ごめんなさい」

「…あのな、神社にお参りに来る意味分かってるか?」

「お願いごとをするためじゃないの?」

「ちゃう。神社に来るのは、感謝をするため。もし願いごとをするなら、神様に伝えるのはそれが叶ったあとにするもんや。元々、願いごとっていうのは自分との約束をするためやからな」


 もしお母さんの話が本当なら、私はすごく失礼なことをしていることになる。もしかして、願掛けをしたから神様が怒ってしまったのかな。それなら、私はどうするべきなんだろう。


「だからな、優樹菜」

「うん」

「あんたは、神様に感謝を伝えたらええ。願いごとを叶えてくれて、ありがとうございましたって」

「どうして? 私、神様に酷いことしちゃったのに」

「それでも、叶えてくれたやろ? やから、まず感謝せんと」


 私は必死に、心から伝えた。

『もう大丈夫です。お姉ちゃんは元気になろうと頑張ってます。だから、もう記憶を取らないでください』


「終わったか?」

「うん」

「そうか」


 お母さんは無言で、神社から離れていこうとした。それでも、きちんと鳥居をくぐるとお辞儀をしていた。

 スタスタと歩いていくお母さんを止めるために、私は手を握った。


「なんや。甘えたいんか」

「そういう感じ」

「そうか」


 普段からぶっきらぼうで、無口なお母さん。料理を作ってくれることはなかなか無くて、だいたい私が作っている。帰りも何時になるか分からないから、同じ家なのに別々の時間を過ごしていた。もう何年も、一緒に食事をしていない気がする。

 だから余計に、寂しくなってしまった。またこのままだと置いて行かれると思って、頑張って手を伸ばした。

 すぐ近くにあるはずの手は、握っていても果てしなく遠く感じた。


「優樹菜」

「なに?」

「記憶を消す願いごとなんか、絶対したらあかん。どんなに悲しいことがあってもや」

「どうして?」

「記憶が消えるってことは、その周りにおった人との関係も消えてしまうからや。例えばな、今優樹菜とこうして話してることもなかったことになるってことなんやで」

「それは寂しいね」


 いつ以来か考えてしまうくらいに、久しぶりにゆっくり話している。そのことがなかったことになるなんて、考えたくもなかった。


「せやろ。だからもう、あんな罰当たりなことしたらあかんよ」

「分かった」

「……それとな、優樹菜。もう一つ、話さなあかんことがある」

「なに?」

「お母さんな、島を出て行かなあかんくなってん」

「……どうして」


 やっとこうして話せたのに。今度は、近くにいることさえできなくなるのかな。そんな恐怖感が心を包んだ。


「本家のおばあちゃんが倒れたんやって。さすがに無視できんくて、あたしが行くことになったんや」

「私も行く」

「それはできひん。優樹菜の頼みでも、それは無理や。だからな、果鈴ちゃんと一緒に暮らせるようにするわ」

「…え?」

「そのほうが、優樹菜にとっても好都合やろ。姉妹みたいなもんやし、立花家の人にはもう話はつけてある。あとは、優樹菜がどうしたいかだけや」


 願掛けのせいでお姉ちゃんの記憶をほとんど消してしまった私に、同じ家で暮らす権利はあるのか。そんなことをふと思ったけれど、これはむしろチャンスだと思う私もいた。

 私の“お姉ちゃん”になろうとした果鈴ちゃんの願いを、本当に叶えることができる。

 それは、ずっと一緒にいられるという願いごとを、“真実”に近づけること。


「……分かった。私、お姉ちゃんと一緒にいたい」

「そうか。そうと決まれば、いろいろと準備しなあかんな」



 これは、自分との約束。果鈴ちゃんがお姉ちゃんになれるように、私はお姉ちゃんに女装をお願いする。そうすることで、神様に見つからないようにする。ただ、私は願掛けをして神様を怒らせてしまった。それでも、お姉ちゃんを隠すことはできるのかな。

 そんな不安があっても、できることを頑張るしかない。連れて行かれないようにするのは、私の役目だから。


 本当の妹ではない。だからこれは、お姉ちゃんの幼馴染としての意地だった。

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