第21話 触れた指、見えぬ意図
女装生活を始めてから、だいたい四ヶ月ほどが経っていた。
最近は女装にも慣れ始めており、メイク道具をきちんと揃えようかと思う日々を過ごしている。前に優樹菜から『そろそろメイクを覚えよう』と言われたばかりというものあるが。
夏菜子はそれを聞くと喜びそうだが、優樹菜はどう思うんだろう。女装をする俺を、そんなに見たいのか。
もし俺が優樹菜の立場、つまり妹なら兄の女装はあまり見たくない気もするのだが。しかし、それならわざわざ女装をお願いしてくるようなことはしないか。
『お姉ちゃんが欲しかった』
その言葉を聞いた俺は、悲しそうにしていた優樹菜を元気づけるために、約束をした。
『それなら、俺がお姉ちゃんをしてやる』
はじめはどちらかといえば乗り気だった。人生で一度くらいは女装をしてみたかったし、優樹菜の願いを少しでも叶えられるならと頑張った。たった一人の俺の家族。そう思えば、俺は努力できた。
だんだんとお願いが形骸化していることに、俺は気づかないふりをしていた。女装をしている自分が、想像していたよりもしっくりきてしまい、いつしか優樹菜のためというよりは自分のために女装をしていた。そんな自分が情けなく、優樹菜に女装をやめようかと思っていると打ち明けた。
『なんでそんなこと言うの』
『なんでって言われてもな。もうそういう歳でもないだろ』
『…約束、破るんだ?』
あのときの約束が有効であったことに驚いていた。てっきり、もう忘れているものだとばかり思っていたからだ。そして、そう言いながら泣き出しそうな顔をしている優樹菜の顔が、しばらくのあいだ頭から離れなかった。
優樹菜が女装を勧める理由。『約束』ではない本当の理由は、まだ分からないままだった。
女装に慣れる状況は、どう考えてもおかしいということは理解しているつもりだ。けれど、どうすれば優樹菜がそれを認めてくれるのかが分からなかった。
どういうわけか、夏菜子も最近は女装に協力的だからな。生徒会長だから協力するというよりも、自己満足のためにしているような気がしなくもない。
以前は家の中だけに限られていたのが、どんどんと広がっている気がするのは、俺だけだろうか。
女装といえば、いまだに中津さんは俺のことを『お姉さま』と呼んでくる。
冗談で言っているのかと始めのうちは考えていたが、よく考えてみれば初対面の相手にそんなあだ名で呼ぶのはおかしい。つまり、彼女は俺の過去を知っているうちの一人と思うのは、不思議なことではない。
それに、このあいだも俺の知らない『お姉さま』の昔話をされた。
お姉さまが俺自身のことを指しているという確定した情報はないが、一度くらい中津さんに詳しく話を聞いてみるのはありかもしれない。
そもそも、今まであまり気にしていなかったけれど、夏菜子や優樹菜は俺が『お姉さま』と呼ばれていたことを知っている可能性もある。しかし、それなら中津さんが生徒会室に来たときに気づくか。
『副会長、校門に十時くらいに集合で大丈夫か?』
今日は、理奈と一緒に和泉さんのところへ行ってみようという話になっていた。もちろん、事前にそのことは本人に伝えているので、訪問してみて本人がいないという事態はすでに回避済みである。
使っていなかった寮を使って暮らしている特殊な状態なので、様子を見に行こうという話に夏休み前の話し合いで決めていた。
『大丈夫。っていうか、起きれたんやな』
『余計なお世話だ』
メールでも相変わらずな態度に、俺は思わず『可愛くねえなあ』と呟いた。いつだって、理奈はこういうやつなのだ。今さら気にしたところで仕方がない。きっとそうすれば、彼女の思うツボに違いない。
自転車を漕いで向かうと、校門前に誰かが立っているのが見えた。まだ約束の時間まではまだ余裕があるのに、律儀なやつだ。
「お待たせ。早くないか」
「こんなもんやろ」
よほど暑いのか、すでに理奈の頬は赤く染まっていた。いつから待っていたのだろう。
「歩いてきたのか?」
「うん。自転車、貸してるから」
「それ不便だろ」
「そうでもないで。学校に行かんから、遠くに行く用事もないし」
どういう事情なのかを聞こうとは思わなかったが、まだ寮までは少し距離がある。俺が自転車を降りて一緒に歩くという手段もあるが、それはそれで面倒だ。
手っ取り早く済んで、楽な方法……。思いつくのは、一つしかなかった。
「ほら」
俺は後ろに乗れという意味のジェスチャーをした。だが、理奈にはそれが伝わらなかったようで『なにをしているの』と言いたげな顔をされてしまった。これではまるで、ただの恥ずかしいやつじゃないか。
「後ろに乗れって意味だよ」
「…え?」
ここまで言っても伝わらないのか。もしかして、理奈は二人乗りの経験がないのかもしれない。それなら、さっきのジェスチャーが伝わらなかったのも頷ける。
「二人乗りだよ。ふ・た・り・の・り」
「そうか。二人乗りか」
「うん。やったことないの?」
「いや、そういうわけやないけど」
その先を言おうとしないまま、理奈は俺の後ろに座った。
「これで…いいんやろ?」
「あ、うん」
落ち着いているが、心ここに在らずという雰囲気を醸し出している彼女。気に障るようなことをしたわけではないはずなので、どういう理由が隠されているのかがみえなかった。
「どっか掴まってろよ。危ないから」
「分かった。どこでもいいん?」
「ああ。じゃあ、行くか」
漕ぎ始めると、理奈の手が俺のお腹あたりに当たった。どこでもいいとは言ったものの、まさかそこに掴まるとは。思わず、背筋がピンと伸びた。
不意をつかれたせいか、彼女から漂う香りで余計に意識してしまう。
このまま意識していては疲れる。そう思った俺は、なにも考えずに漕ぐことに集中しようと目線を上げ、先に見える小島を眺めることにした。
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