第3章 忘れられた日々

記憶と記録

第20話 女が苦手だから女装するの

 夏真っ盛り。近所にいるおじさんからスイカを数個もらい、優樹菜が切ってくれて、テーブル中央に皿へのせられて置いてある。

 茹だるような暑さにうんざりしながらも、そういうときに食べるスイカは美味しい。日常の中の小さな幸せを味わっている最中、優樹菜はさも当たり前かのように、スイカのタネを喉に詰まらせるようなことを言い始めた。


「お兄ちゃん」

「はい」

「そろそろメイクをしっかり覚えて、自分でちゃんとできるようにしようよ」


 優樹菜の要望は、いつも通りだった。

 いい言い方をすれば、良心的。悪い言い方をすれば、押し付け。


「なんでそうなる」

「なんだかんだ言って、お兄ちゃんが女の子するのはもう当たり前になりつつあるよね」

「まあ、まわりのやつがそうしろって言ってくるからな」

「制服も変わって、私服も変わったじゃない?」

「優樹菜に元々着てた服は処分されたからな」

「そんでもって、夏菜子ちゃんからメイクしてもらったこともあったよね」

「……それはものすごく無理やり感があったけど」


 一番記憶に残っているのは、フェリーの中で騒ぎになるほど抵抗してしまった、夏菜子のメイク講座だった。講座という名目ではあったものの、あれはお遊びみたいなものだった。

 けれど、あれは夏菜子と二人だったし、それを直接言ったのは和泉さんだけだ。家に帰ってからメイクをしていることに気づいたのは分かるが、なぜ“夏菜子がメイクした”と知っているんだろう。

 夏菜子からその話を聞いたのかな。


 夏菜子と優樹菜は、昔から仲がいいらしい。俺と優樹菜が出会う前からの関係のようで、たまに昔話で盛り上がっているところを見ることがあった。そこに参加できないもどかしさはあったが、仕方ないと割り切るしかない。


「だって、そうしてもらわないと私が困るんだよ」

「なんで優樹菜が困るんだ…?」

「それは…その…」



 今となっては理由については知る手段がないのだけれど、俺はかなり女の人が苦手だ。記憶に残っている限りでは、優樹菜と一緒に過ごすようになってからは、彼女の協力もあってかなり軽くなったらしい。

 ただ不思議なことに、優樹菜に対しては苦手意識はほとんどなかった。


 今ではすっかり慣れてしまった夏菜子と茜の二人は、元々優樹菜の友達であり良き理解者だった。だから、家にはよく遊びに来ていたし、顔だけは知っていた。

 二人が来ると部屋にこもっていた俺は、ある日部屋に入ってきた女の子にとても驚いた。


「果鈴くん……」


 名前を呼ばれる。知らない顔の知らない声の人に、自分の名前を呼ばれる。

 こっちは夏菜子ちゃんか茜ちゃんか、どっちなのかも分からないのに。


「私、夏菜子だよ。……って言っても分かんないよね、ごめんなさい」


 夏菜子と言った子の目は、目線を逸らすと涙が流れそうなほど潤んでいた。いったいどんな気持ちで俺に話しかけているのか、想像すらできなかった。それがなんだか悔しかった。

 俺にとっての記憶のない過去は、優樹菜が教えてくれた言葉で組み立てられたもの。教えられていないことは、知る術がない。


「…夏菜子ちゃん? お兄ちゃんとなに話してるの?」

「いや、ちょっとね」


 優樹菜はいつだって、俺の記憶を埋めてくれた。

 義理の妹とはいえ、幼い頃からほとんど同じ家の子のように育てられていたらしく、よっぽど個人的なことでない限りは知っているらしい。写真なども残っていないことがあるので、優樹菜から聞く話は他人事にしか思えないこともあった。


 理奈とは高校からの知り合いなので、俺が女装をして女に慣れようとしていた過去は知らない。彼女と違和感なく接するまでも苦労したが、同じ生徒会役員という限られた関係であったからか、徐々に会話の回数を重ねて、今では冗談を言い合える関係になった。

 周りにとっては当たり前かもしれないけれど、俺にとってはかなりの進歩だ。



 そういったゴタゴタもあって、今の優樹菜や夏菜子、茜、そして理奈との関わりが続いている。


 今の生活があるのは、間違いなく優樹菜のおかげだ。

 記憶がほとんど消えてしまった俺にとっては、一緒に生活する家族は優樹菜だけで。解決策を導いてくれたのも、優樹菜だった。

 様子が変わり始めたのは、俺自身がもっていた女の人への苦手意識が薄くなって、女装をする回数を減らし始めたタイミングとほぼ同じだった。



 困る理由を打ち明けることは恥ずかしいのか、優樹菜は頑なに次の言葉を続けなかった。


「分かった。そこまで言うなら折れるよ。メイクは教えてくれるのか?」

「教わったんでしょう? それなら練習しないと定着しないから、教える必要はないんじゃないかな」

「…ほら、人によってメイクの仕方って微妙に違うだろ? それなら、一番聞きやすい優樹菜に基礎から教わったほうが、優樹菜も楽じゃないか?」

「言われてみればそうかも。うん、分かった。そうしよう」


 本来は俺の希望を叶えるために始まったはずの女装は、いつのまにか優樹菜やその周りの友達と関わるために必要不可欠なものになり。その壁を取り払っても普通に話せるようになった。

 それが今では、夏菜子や優樹菜が俺に女装をしろと言ってくる。


 夏菜子は落ちていた生徒会長として人気をあげるためのアピールの仕方として女装を提案してきたわけだが、優樹菜は違う。

 それなら、優樹菜が俺に女装を勧めてくる理由は、いったいどこへ転がっているんだろう。

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