第9話 夏菜子、本気になる。

 昼間に乗る船は、かなり暇を持て余す。昼寝といっても、夜に寝るほど時間が経つわけでもなく、なんだか無駄に時間を過ごしてしまった気分になるのが嫌なのである。

 なぜ突然そんな話になるかといえば、まさに今その状況に陥っているからである。

「果鈴ちゃん、緊張してるでしょ」

「いや、全然そんなことないよ。ほんの少しもね」

 軽口をたたいてくる夏菜子は、涼しげな顔をしていた。元々、島の出身ではない彼女にとっては、まるで実家に帰省するような感覚なのだろうか。

 そんな彼女とは正反対に、俺の心臓はどこかへ持っていかれそうだった。普段暮らしている島を離れるという特殊な状況であるということが、主な原因なのだと思う。昨日から緊張していたし、船に乗ってからは額から出る冷や汗が止まらなかった。

「他校との交流なんて、ずっとしてなかったよね。この学校、ただでさえ孤立しているのに」

「しょうがないだろ。本州の一番近いところから高速船を使って来ても、三時間以上はかかるんだからさ」

 南高津島は観光地という側面がある。そして最近問題となっていたのは、慢性的な人口減少だった。それに連動するように、学校に出される補助金の縮小も止まらず、島の中ではもうすぐこの烏森高校の廃校がやってくるとまで言われる始末。今のところはそういった噂が本当になるのかは不明だが、絶対的に嘘であると断言できないのも、まだ事実であった。

「それもそうね」

 そして俺たちは、本州へと移動している最中であった。高速船料金を出せるほどの余裕はなかったので、大型船で移動している。時間で表すと、だいたい十時間ほどかかる。島を出ることそのものが、いったいいつ以来なのか。そして、今のこの状況は、どうすれば改善できるのか。不安という渦の中に、俺は巻き込まれていた。

「予算内で足りてよかったよね」

「まあ、使うところもそんなにないしな。そもそも、前年度繰越分が残っているから、実現できた話なんだよ」

 皮肉なことに、本校生徒会の予算は潤沢に残っていた。そうなるくらいに各イベントで島民が協力的であるため、備品費があまりかかっていないということと、予算を多く使うようなイベントや行事は行えていないという二つの理由があった。二つ目については改善するべき項目であるため、こうして移動している間にも案を練っているのである。先生方もこのことは当然ながら把握しており、一部の方からは生徒会への予算を削減する提案があったらしい。

 本音をいえば、俺はそれでも構わないと思っていた。多少削減されたところで、目立って問題になるようなことはないように運営しているからだ。けれど、それはあくまでも現時点での話。今後、生徒会がどうなっていくのかは分からない。もしかすると、噂通りこの高校はどこかと合わさって廃校になってしまうのかもしれない。しかし、今の状態を維持しなければ、後を継いでいく生徒会役員が困るかもしれない。

 一度縮小された予算は、決して戻らない。それを肌で感じたことがある俺にとって、これは守らねばならない壁なのである。

「余ってるとはいえ、大事に使わないとな」

「うん、そうだね。余りすぎてるのも、目をつけられるから…適量?」

「ご飯みたいに言うんじゃないよ」

「へへ」

 本来であれば、他校との生徒会役員交流会であるため、ほかの生徒会メンバーも参加するべきだ。だが、そこまでの余裕はない。というか、そうなるならば参加を見送る予定だった。

 結果的にくじ引きの結果、俺と夏菜子が参加して、今はそばにいないが、赤崎先生が同伴している。「なんで私が行くのよ。拒否権はないわけ? え、校長先生が許可したの。それってさ…上からの圧力ってやつ? そうだよね、きっと。はは」などと言いながら、渋々付いてきているので、俺たちが先生の行動を制限するわけにはいかないと、夏菜子と二人で話して決めた。そのため、フェリーの中では自由に行動していい決まりを作ったのである。もっとも、それは先生のために決めたものなのだけれど。


 足元の風通りがいいなと思い見てみると、スカートを履いていることを忘れていたことに気がついた。女装をすることが特別な行為でなくなってしまったゆえに、今の状態が女装なのかどうかすら判断できなくなったようだ。とはいっても、俺は服装と髪型以外はなにも変わったことをしていなかった。

 それがいいのかは不明だが、女子高生は校則にもだが自然なメイクをすることが多いとよく聞く。男子高校生である自分の耳に入るくらいなのだから、余程有名な話なのだろう。いわゆる、ナチュラルメイクというやつだ。

「ナチュラルメイクって難しいよな」

「なに、急に。お化粧したくなったの?」

 よく考えてみると、俺はさも当たり前かのように女子制服を着ている。さらに、地毛では長さが足りないと思っていたのか、無意識的にウイッグをつけている。例の事件の日以降、休みの日以外は毎日着用しているので、すっかり日常の中に溶け込んでいるのである。特に練習をしたわけではないのだが、鏡さえあれば問題なく馴染ませることができるくらいには、手慣れていた。

 そんな俺がまだ手をつけていないのは、メイクだった。

「そういうわけじゃないんだけど、難しいんじゃないかと」

「なにを訳の分からないこと言ってるの」

「いやね、恥ずかしながら、俺はまだちゃんとしたメイクをしたことがないんだよ」

「恥ずかしがることじゃなくない?」

「そうかな。どうしてそう思ったの」

 そう言うと、夏菜子は両方の手のひらを上に向けて、お手上げのポーズをとってみせた。そこまで変なことを言ったつもりはないのだけれど、夏菜子はため息まで吐いていた。よっぽどひどいらしい。

「あのね、忘れてるかもしれないけど。果鈴ちゃんは、そのままでもかわいいよ」

 頭痛が痛かった。これは、代表的な誤った例である。主に頭が回らなくなったときに、無意識下で出現するフレーズの一種だ。これとほぼ同等か、それ以上の問題発言を彼女は投げつけてきた。いったい、どういうつもりなのだ。

「夏菜子、何事も限度ってものがあるし、どうしようもないことだっていっぱいあるんだぜ?」

「それがどうしたの」

「努力もなにもしてない俺が、勘だけで上手くできるわけがないだろう?」

「…なんの話?」

「なんのって、メイクの話に決まってるだろ」

 次の瞬間、夏菜子は笑い始めた。どうやら、俺は的外れな返答をしてしまったらしい。

「果鈴ちゃん、なんか勘違いしてるよ」

「なにがだよ」

「わたしはね、ただ単純に果鈴ちゃんがメイクをしなくても、そこらにいる女子よりかわいいよってことを言いたかっただけ」

「…はい?」

 そういえば、夏菜子は俺が校内で初女装をしたときにも、同じようなことを口走っていたような気がする。確かあのときは「似合ってるよ、わたしよりかわいいから自信もって」なんてことを言っていた。思い返すと、彼女は事あるごとに俺のことを持ち上げてる。それが悪いという話ではなく、少し贔屓が過ぎるのではないだろうか。

「だからね、今も……」

「ごめん、ちょっと待って」

「うぇ?」

 突然話を中断させたためか、声にならない声が漏れていた。だが、これ以上俺を持ち上げるのは、俺自身の精神面で悪影響を及ぼすと判断したのだ。

「俺、普通の人間だぜ? もっといえば、男子高校生だよ。そんなやつが、ウイッグと女子制服に身を包んだだけで、女に化けれるような魔法は、この世に存在していないし、聞いたことがない。つまりだな、夏菜子が言ってるのは、あくまでも願望だろ?」

「そんなことない」

「いや、常識的に考えてみてよ。女装が上手いと言ってくれるのは、正直に言うと嬉しいし、ありがたい。ありがとうと言いたい。でも、それとこれとは違うよ。俺は中途半端は嫌だし、やるからには本気で女装したい」

「……ほう」

 あれ、俺はなにを言っているんだ。こんなことを言うつもりではなかったはずなのだが、頭の中から流れる言葉がどうも怪しい。こんな言い方では、まるで俺が積極的に女装をしたがっているみたいじゃないか。考えていることと伝えている内容が、微妙にズレている気がしてならない。そのズレが広がっていることも、頭では分かっていた。しかし、この流れを修正する方法が分からない。底なし沼にはまっていくような、そんな感覚があった。そこに沈んでいくのは、紛れもなくこの俺自身だった。

 案の定、表情が沈んでいた彼女の顔が段々と明るくなっていることを、目の前で観測している。快晴である。

「本気で女装をするとなると、それなりに知識が必要なはずなんだ。しかし、それらにほとんど触れたことがない俺からすると、どんな言葉も異世界の言葉に聞こえてしまう」

「うんうん。そうだよね、心配だよね」

「だからな、夏菜子。俺を女にしてくれ!」

 そう言い放った瞬間、俺たちの周りの話し声が一気に途絶えた。正確に言うと、なに言ってるんだこの人たちは、という目で見られていた。視線が無数に感じて、痛い。とんでもなく痛い。できることなら、すぐにその場から立ち去りたい。

 ふと目の前を見てみると、夏菜子がかばんから道具を取り出している様子だった。なんだろうと覗いてみると、どうやらメイク道具のようだ。

「果鈴ちゃん、そう言われるかもしれないと思って、わたし一式準備してきたの」

「え」

「だから、ここで練習始めちゃおう? 早いほうが、慣れるのも時間短縮になるよ!」

「え、ちょっと、夏菜子待てよ」

 彼女の手は、止まるところを知らないようだった。まるで無数に手があるかのように、ひたすらに俺の顔が塗られていく。あまりの高速作業に、完全にひいていた。なんだこの手の動きは、どこで修行をつんできたんですかと聞きたくなるくらいに、彼女は止まらなかった。

 頼む…止まってくれ…。夏菜子が俺の顔に何かを塗るたびに、心のどこかが削れていくような感覚があった。そもそも、これでは彼女のメイク技術が向上するだけなのではないか。やり方を覚えるという目的が、まったくと言っていいほど果たせていなかった。

「先生…! 助けてください」

 助け舟がやってきたと一瞬思ったが、どうやら赤崎先生から見るとふざけているだけのようにしか見えないようで、間に入ってくる気配はなかった。その代わりに、先生らしい言葉をかけられた。

「こらこら、周りが見てるでしょ。あの、すみません。お騒がせしまして…ちょっと、あなたたち!」

 帰ってきた赤崎先生の制止の声が夏菜子には聞こえず、俺たちは子どもみたいな戯れあいをしばらく続けた。主に夏菜子からの一方的な攻撃が続いただけなのだけれど。あとになって振り返ってみると、夏菜子は先生の言葉を無視していたような気がする。どちらにせよ、タチの悪い行為である。

 俺自身が、けしかけてしまった張本人なのだけれど。

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