第5話 とても弾力のあるやわらかいなにか

 部屋に入ってくると同時に大量の書類を足元に落とした夏菜子は、まるで鬼のような表情をしていた。

「ちょっと……なにやってるの果鈴ちゃん」

 俺の顔は、謎の少女の胸に埋もれていた。

 自分でいうのは使い方が間違っていると思うが、これはけしからん。

「いや、これには深い事情があってだな……」

 口元が、いい香りのする美少女の制服におおわれているため、上手く話せなかった。いったいこれは、どういう状況なんだ。


 生徒会室の中は、混沌としていた。

 俺に抱きついてきた、というよりも抱きしめてきた謎の少女。桜ヶ丘女子高校から来たらしい。あろうことか、俺のことを『お姉さま』などと呼び始め、自らの胸に俺の顔を埋めた。

 続いて、生徒会室のちょうど真ん中にある机の上で、お茶をこぼしている黒髪少女。先ほどまで謎の少女と話していたが、状況の飛躍具合に頭がついてこれなくなったのだろうか。

 最後に、生徒会室の中へ足を一歩だけ踏み入れて立ち尽くしている黒髪少女。平然を装っているが、隠しきれていない。何度か書類を拾い上げようとしているが、すべて失敗して再び落としていた。


 俺はというと、謎の少女との密着により、もしかすると心音が聞こえてくるんじゃないか、なんてことを考えていた。ちなみに、生徒会室が静まり返ったときに『トクトク』という音が聞こえた。これはきっと、心臓の音だ。間違いない。

「お姉さま、やっと会えましたね!」

 目の前の少女は、自分の胸が相手の顔に当たっていることに気づいていないのか。それとも、気づいていながら意図的にしているのか。なんのためらいもなく、突然話し始めた。なんだこの特殊な遊び。そういった趣味はないのだけれど。

「と、とりあえず腕を離してください。本当に、お願いします」

 話しづらい状況ではあったが、黙っていると一生離れてくれないのではないかと心配になった俺は、勇気を振り絞って謎の少女に懇願こんがんした。

「そうだよね。わたしの顔見たいよね」

 などと、極めてとんちんかんなことを言い始めた、謎の少女。

 違う、そうじゃない。そう言いたかったが、変なことを口走るのは怖かったので、心のうちに飲み込むことにした。

「いや、そういうわけでは……」

「どう? かわいくなったでしょ?」

 謎の少女は自信満々で、そう言い放った。

 そこに横槍よこやりを入れたのは、夏菜子だった。

「ちょっと果鈴ちゃん。聞きたいことがあるから、こっちに来てくれるかな」

「は、はい……」

 夏菜子に手を握られて、俺は生徒会室の隣にある資料室に連れていかれた。


 物理的束縛から解放された俺を待っていたのは、お説教タイムだった。こうなると、もう基本的に誰も止められない。これは、周知の事実だ。

「あのね、果鈴ちゃん。いくら見た目が『女の子』でも、していいことと悪いことがあるのよ?」

「あのぅ……先ほどから申してます通り、あたしから近づいたわけではないのですが……」

 夏菜子は、謎の少女が生徒会室に入ってきたときの状況を知らないので、そのときの状況から説明をした。しかし、それでは納得がいかなかったようだ。

 もちろん、なにかがあったわけではない。だが、俺から接点をもったと誤解されるのは腑に落ちない。

「そういうことじゃなくてね? 果鈴ちゃんは、警戒心がなさすぎるのよ」

 ここで、俺は思った。こうなると、もう手がつけられない、と。

 まず、俺側の問題として、夏菜子がどの部分に対して怒っているのかが分からないのだ。そして、夏菜子側の問題としては、本題を話してくれないところだ。おそらく、その部分に対して怒っているのだろう、という予測はできるが、それが外れていた場合のリスクのほうが大きい。そのため、俺は黙ってうなずくことにした。


 どうにでもなれ。

 これは、決してやけくそではない。計画的撤退だ。


 どのくらい経っただろう。完全に、俺は夏菜子の時間の輪の中に取り込まれていた。

 なおかつ、夏菜子と俺は資料室にいるため、理奈と謎の少女は近くにいない。時間の流れが、より分かりづらくなっていた。

 そんな不安が頭の中を支配しようとしていたとき、資料室の引き戸が開いた。

「あんたらいつまでやってんの。夏菜子は果鈴の母親か」

 救世主現あらわる。さすが理奈、あまりの時間のかかり具合にしびれを切らしたようである。本当に助かった。

 あとで俺の少ないポケットマネーを使って、ジュースでもあげよう。

「え、いやそういうわけじゃないけど」

「とりあえずやな、2人とも誰かさんの存在忘れてへんか?」

 夏菜子がはっとした表情で、『中津さん……』とつぶやいていた。

 大丈夫、俺ははっきりと覚えていた。あんなことをされた直後に、忘れられるはずがないだろう。


 生徒会室に戻ったあとに俺と夏菜子が目にしたのは、いつもとは違う生徒会室だった。

「じゃあまず、いくつか質問させてもらうで」

「どんとこいです」

 理奈と謎の少女は、生徒会室の机をまるで裁判所のように並べ、これまた謎な行動をとっていた。

 どっちがなに役かすら分からないままに、2人による演技のようななにかが始まった。

「お名前は?」

中津春花なかつはるか17歳です」

「出身はどちら?」

南高津みなみこうづ出身です。小学生くらいまでは、この島にいました」

 中津さんが口にしたのは、確かにこの島の名前だった。つまり、実際に生活していたということになる。

 そこで俺は、ある確信を持ってしまった。この謎の少女と俺のあいだには、わずかながらに接点があるということだ。そのため、幼いころに中津さんと会っていないという保証は、無いに等しかった。

「へえ、ということは昔は島におったってことやんな?」

「そうだよ」

 理奈もなにかに気づいてしまったのか、うなずくように首を少し縦に振っていた。

「そしたら次の質問。なんで立花果鈴たちばなかりんのことを『お姉さま』って呼んだん?」

「『お姉さま』はお姉さま、だから」

 日本語が通じていないわけではないと思うが、これは通じていないと言わざるを得なかった。

 ちなみに、静かになった夏菜子はいつも通り割烹着を着てお茶をれていた。

 こういうときはメイド服とかじゃないのか、という指摘はやめていただきたい。今では見慣れてしまった、この割烹着スタイルは夏菜子の趣味なのだ。そのため、変えようがない。

「うーん。ごめん、どういう意味?」

 理奈を困らせる謎の少女、もとい中津さんはなかなかの逸材いつざいかもしれない。

 気が強いことで有名な理奈は、男相手にも動じないことでも有名だ。そんな理奈が、ふわふわ系女子にひるんでいるのである。これはある意味、歴史が動いた決定的な瞬間を見ているのではないだろうか。

「そうですよね? お姉さま」

 中津さんがこちらのほうを見て、少しだけ笑顔でそう声をかけてきた。

らちが明かんなあ。果鈴、どういうことか説明してもらってもええ?」

 もはやお手上げ状態になっている理奈は、諦めたように俺に話を振ってきた。

「ごめん、中津さん。あたし、まだあなたのこと思い出せてないんだ」

 そう告げると、中津さんは顔が真っ青になっていた。ただ、ここでうそをついてもお互いにとっていいことではないので、それはやめた。

「……冗談、ですよね」

 ほんの少しだけ涙目になっていた中津さんは『せっかく帰って来れたのに……』とつぶやきながら、生徒会室から静かに出ていった。


 そのあとの生徒会室には、いつも通りの騒がしさはなく、どんよりとした空気がたまっていた。

「なあ、果鈴。あんな返事の仕方で、ほんまによかったんか?」

 理奈らしくない神妙な顔つきで、そう尋ねてきた。

「でもなあ、あそこでうそをつくのも気が引けるし」

「それもそうか……」

 はっきりいって、どうしようもないことではあった。俺自身が中津さんのいう『お姉さま』だったとしても、俺にはそのときの記憶がない。つまり、実質別人なのである。

 それが分かっていながら虚言きょげんを吐くような真似は、絶対にしたくない。

 ただ、中津さんの胸がやわらかかったのは、記憶の中にとどめておこうと思う。


 4人分の湯飲みを洗っていた夏菜子が、役目を終えて椅子に座り直した。そして、『全部聞いていたよ』と言わんばかりの表情で、こんなことを言い始めた。

「でもさ、本当に果鈴ちゃんがその……『お姉さま』って呼ばれていたなら、思い出せると思うんだよね。あまりにもその、特徴的なあだ名だし」

 隣の席に座った夏菜子は、人差し指をあごに当てながら考えていた。彼女がなにかを真剣に考えている姿を見れるのは、なかなか珍しいことだ。

 普段は考えずに行動する子なので、少し危なっかしいところがあるのだ。

「あーちょっと。今、失礼なこと考えてたでしょ」

 きっと無意識だと思うが、夏菜子はほっぺをぷくっと膨らませながら目を細めていた。こんなにも典型的な怒り方をする女の子は、俺の知る限り夏菜子しかいない。

「いやあ全然、これっぽっちもそんなことはないよ」

 思わず棒読みになってしまったが、夏菜子の勘の鋭さは相変わらずだった。下手なことを考えている余裕はなさそうだ。

「それならいいけどさ」

 そうは言ったものの、不満そうに口をとがらせていた。思っていることが顔に出やすいところも、昔からなにも変わっていない。

「ただ、問題が1つだけあって」

「どういうことよ」

「夏菜子はその場にいたから覚えてると思うんだけど、あたしって小学生のころ『お姉さま』って呼ばれてたじゃん?」

 俺の言葉で思い出したのか、夏菜子は目を見開いていた。しかし、すぐに頭の上に疑問符が浮かんでいた。

「…そういえば、そんなこともあったかも?」

「あったかもじゃなくて、あったんだよ。だから、その当時に仲が良かった人からはそう呼ばれてるはずなんだ」

 期間は短かったものの、俺が『お姉さま』と呼ばれていた時期は、確かに存在していた。だが、どうしてもその記憶の中に、中津さんはいないのである。

 俺が忘れているだけなのか、彼女の記憶違いなのか、果たしてどちらなのだろう。

「なるほどねえ」

 机の上に横たわっていた理奈が、突然起き上がったかと思えば、こちらを向いて手を2回たたいた。

「はいはーい。ここまでの話をまとめたら、果鈴自身はあの女の子のことを覚えてない。でも、春花ちゃんは果鈴のことを『お姉さま』やと思ってる。なおかつ、果鈴は小学生のときに『お姉さま』って呼ばれてた時期がある。そして、春花ちゃんは小学生のときに、南高津みなみこうづにおった。こんな感じやんな?」

「だいたい、そんな感じ」

 記憶などを抜きにして考えると、俺が忘れているだけだという結論にいたる。そうすれば、すべての辻褄つじつまは合うし、特に変な部分もない。しかし、それはなにかが間違っているような気がした。

「…成長の過程で顔がかなり変わっているとか?」

 頭の中で浮かんだのか、夏菜子がそんなことをいった。しかし、どうも腑に落ちない。

「もしそうだとしても、どうも話を聞いている限り、中津さんとその『お姉さま』は結構親密な関係だったみたいなんだよな。あたしって友達少ないから、そんな関係の子のことを忘れるかなって」

 ここではっきりしていないのは、その『お姉さま』がいったい誰なのかということである。

 中津さん自身も、その人の本名を知らなかったそうなのだ。聞いているとは思うけれど、覚えていないという感じだろうか。

 もし、それが分かれば解決の糸口となるが、分からないのでどうしようもなかった。


 そこあるのは、中津さんの頭の中にある『お姉さま』という、謎の人物の記憶だけだった。

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