04
小気味の良い振動にさっきからずっと揺さぶられている。いつしか夜になっており、眼が覚めたら電車に乗っていた。いや、夜をつらぬいて走る電車でつい眠りこけてしまい、夢をみていたというべきか。
そこへ突然、明るく弾んだ声が降ってきた。
「ひゃあ、危ないところだったね。なんかいいもの、見たなぁ。見せられちゃったなぁ。まさに危機一髪だったよね。もうちょっとで、あの世に引きずりこまれるとこだったけど」
「え」
ぎょっとして横を見た。知らない娘だった。僕は四人掛けのボックス席の窓ぎわに一人で座っていたはずだ。がらがらに空いていて車内に人影は疎らだったと記憶している。隣には誰もいないと思っていたのだが。
なのに。
「でも、あの女の子、凄いよね。だって一息で鬼を吹き飛ばしたんだもん」
「お、鬼?」
鬼、という不気味な単語が発せられたわりには奇妙なまでに明るく、透明な声だった。
「そう、鬼だよ。まだ成仏できずに、この世とあの世のはざまを彷徨っているんだね。可哀そうに」
ハタと思いあたった。夢だ。この娘は夢の中での出来事を、――僕がついさっきまでみていた夢の話をしているのだ。
「き、君は他人の夢を覗き見ることができるのか?」
狼狽のあまり、声が上擦った。
「まぁね」
彼女は肩をすくめてみせた。高校生くらいの年齢だろうか。美人ではないが、下膨れのまだ幼さを残す容貌をしており、まん丸い眼に茶目っ気がある。つぶらな黒い眼は小鳥のそれみたい。耳の近くでしゃべられるとくすぐったいが、なんだか小鳥がさえずっているような気持ちにもさせられる。
他人の夢をみることができるというのも驚きだが。
「君はもしかして、知らないオジさんに平気で話しかけたりするのかい?」
「まさか」
彼女は顔の前で大袈裟に手を左右にふるジェスチャーをしてみせた。
「しないよ、そんなこと。するわけないじゃん。それにオジさん、可愛らしい奥さん、いるし」
「そこまでわかるのか」
絶句するしかない。
「ま、今回はたまたまかな。オジさんなんかと滅多に話なんかしないよ。近くに面白そうな夢をみている人がいたから、つい席を移動して覗き見しちゃったっていうか。近くに行けば、その分、夢はクリアにみえてくるし、それでついつい隣の席に座っちゃった」
えへへ、と照れ隠しに笑ってみせる。
「改めて驚いてしまうよ。他人の夢をみることができるなんて」
「みるだけだよ。みるだけ。夢を一緒に生きてるわけじゃない。でも奥さんは一緒に夢を生きてくれているよ」
謙遜するみたいに首を振った。でも夢を一緒に生きる、という言葉には何か人生の深みが隠されているような気がしてならない。
「よくみるの? あんな怖い夢。悪夢だよね」
今度は少女から訊いてきた。
「そうか、やっぱり悪夢なんだな。……そうなんだ、半年に一度の頻度でおんなじ夢をみる」
僕は納得したっていうか、思わず合点がいって頷いた。
「罪の意識はあるの? だって悪いことしたからあんな夢、みるんでしょ?」
「悪夢をみる回数が多くなってからかな。少しは悪いと思っている」
罪の意識がないといえば嘘になる。だけどあの時、僕が死んだっておかしくない状況だった。罪というよりは運命だと思っている。いずれにせよ、判決を下すのは閻魔様だ。
「鬼に取り憑かれてるよ。小さな鬼だけど。思いあたる節がありありだけど」
「ああ、友達だった」
「奥さんが守ってくれている」
「やっぱり、そうなんだな。にしても、なんで守ってくれるんだ?」
「そりゃ奥さんだからでしょ」
さも莫迦にしたみたいな口ぶりだ。唇を尖らせると、いよいよ小鳥みたいに思えておかしくなる。きっと惚気ていると思われてるんだろうな。
「いや、そうじゃなくてさ。何で息を吹きかけるんだろ、と思ってさ」
これまで彼女が瀕死の昆虫や、鳥の屍骸にしてきたことをイメージした。彼女にもそれが伝わったらしい。小さくかぶりを振ると、言った。
「橋姫だから」
「はしひめ?」
聞きなれない言葉。はしひめ、って何?
「お箸のはし、ではなくて、渡る橋のお姫さま、って意味だよ。神様の一柱だね。女神様なんだ。人間だけど、橋姫の属性をもって生まれてきたんだね。たぶん本人は神であることを自覚してないだろうから、そのこと言っちゃ駄目だよ?」
「そりゃまた、一体なぜ?」
「鶴の恩返しみたいなことになっちゃうから。わかる?」
何となくだが、そのニュアンスは伝わった。やはり昔噺には一片の真理が含まれているような気がする。この世には、人間が知らなくていいことが山のようにあるのだ。
「う、うん。わかった」
きっと神妙な顔をしていたのだろう。彼女は思わずといった感じで吹き出した。そうしてさらに橋姫に関する詳しい話を追加してくれる。
「橋姫って女神様はね、橋を守護すること以外に、男女の因縁やら人間関係の機微にもかかわるとされている。悪縁を断ち切る神としても知られていて、たとえば黒白の決着をつけたがったり、生死のあわいを漂っているものに対しては有無を言わさず引導を渡したりもする。あの世が向こう岸だとしたら、橋の真ん中でうろちょろされるのを許さないのね」
なるほど。妻の不可思議なキャラだが、この年齢になってようやくわかってきた。
「僕はこれからも、あんな鬼が出てくる悪夢に苦しめられるんだろうか?」
「そりゃね」
「そうか」
僕は肩を落とした。窓の外は闇一色の夜だった。いま、どの辺りを走行しているんだろう? 人家の灯りすらみえない。侘しいというか、人生という暗夜行路に一人きりで置き去りにされてしまったかのような孤独を感じて身震いした。
「そんな風にガッカリしないでよ。奥さんが守ってくれるからさ」
「ま、そうだな。ありがとう」
そんなセリフを言ってくれた彼女に感謝、そして妻にはもっと感謝だ。
「橋があるからさ、橋姫は守ってくれるんだよ」
「橋があるってどういうこと?」
「わからない?」
「わからないな。クイズは得意じゃないんだ」
「鍵の話をしてたでしょ、鬼と」
「……ああ」
そうか、と僕は深く頷いた。相棒の持っていた鍵が、鬼と僕をつなぐ橋として夢を呼んでいたというのか。
「つまり鍵を持っていたからこそ悪夢をみることになるんだし、橋姫はオジさんと一緒に悪夢を生きているわけだよ。もっとも当人は悪夢だとは思ってないようだけど」
「うん、うん、そうかそうか」
それで色んなことの辻褄が合う。妻とは子ども時代から顔なじみだったが、あまり話したことはなかった。けど、お互い、ご近所に住んでいたのはたしかだ。大学卒業後、何かの折に帰郷し、ばったり再会したのが縁で交際がはじまった。やがて、さしたる障害もなく結婚まで漕ぎつけてしまったわけだが、もっと小さい頃、それこそ僕が相棒の家の鍵を手に入れた頃から、ずっとご近所のよしみにプラスして鍵=橋の因縁で結ばれ続けていたのだ。
「夢っていうのは、つくづく不思議なもんだねぇ」
いかにも暢気そうな声音でいけしゃしあと言ってのけるので、こちらも人生がかかっているんだぞ、と大人げなく抗弁したくなるが、どうにもこの下膨れの娘と一緒にいると、気持ちが柔らかくほぐれてしまう。
「妻は、僕が鍵を持ってるという、それだけの、……その、功利的というか橋姫としての実存的っていうか、アイディンティティが発揮できるという、たったそれだけの理由で結婚したんだろうか?」
物思わし気に顔を伏せた時だった。
ゆるやかに電車は減速しはじめ、黒一色だった窓の外に白い光があふれた。駅に到着したのだ。電車がプラットフォームに滑り込もうとしている。
「じゃあねぇ。もう会うことはないと思うけど」
少女はボックス席から立ち上がると、開いたドアから降りた。
僕の問いかけには答えてはくれなかった。
――が。
行きかけて戻ってくる。と、窓を小突いて何かを言った。僕は慌てて窓を開ける。
「雨、降ってきたよ」
すぐさま電車は発車する。
プラットフォームを歩きながら小さく手を振っている彼女をみた。
しだいに女の子の姿は小さくなり、やがて駅は闇に浮かぶ明るい島となって、それもまた夜に没した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます