03

 僕が結婚した相手は、いっぷう変わった女の子だった。

 もちろん結婚から四半世紀もの時間が経過しているわけで、もう彼女を女の子と呼んではいけない年恰好になってしまったが。

 いっぷう変わった女の子と言ったが、少女時代から保ちつづけられてきた妻の特異体質を一言でいうなら、蘇生術と表現する他ない。

 死んだものを復活させる術。


 具体的な話をしよう。  

 うだるように暑い夏の日、熱せられたアスファルトの上で蝉が落ちて死んでいた。僕が靴先でいじっても反応しない。干からびかけて蝉はみじろぎ一つしなかった。

「持ってて」

 回想シーンのなかで妻は日傘を僕に預けると、しゃがみこむ。それから両手にアブラ蝉をくるみこんだ。顔にまで近づけ、ふっと息を吹きかける。するとどうだろう。ジジ、と鳴くと茶褐色の翅をばたつかせ、

「そらっ!」

 と妻が手のひらを宙に向けるや、青空へと舞い上がったのだ。

 唖然として空を見上げる僕を尻目に蝉はみるみるうちに小さな点となり、入道雲の白と青がまばゆい夏に呑み込まれていった。


 妻と一緒に歩いていると、けっこうな頻度で、……明らかに死んでいる、もしくは死にかけた昆虫が高確率で引き寄せられてくる。


 そういえば蘇生術とは明らかに異なるケースもあった。

 たとえば死にかけた小鳥との出会いも忘れられない。

 瀕死の鳥が路上にうずくまっているのだが、それにも息を吹きかける。彼女が翼あるものに対し、行ったことは安らかなる死を促すことだった。妻の手のひらで抵抗していた鳥はしだいに暴れるのをやめ、眠るように黒くつぶらな眼を閉じるのが常だった。

 潔く死ぬために引導を渡してやる。いわば蘇生術に対する昇天術といったようなものではないか?


 慈悲に満ちた息。

 蘇生と昇天。

 相反する属性をもった術を使いこなす妻。

 そうして彼女はあろうことか相棒に対しても息を吹きかけたのである。





 闇の彼方から、ひたひたと水に濡れた小さな足音がやってくる。

 それはこんな夢だった。

 雨上がりの初夏の夕べともなれば蛍が飛びかう、そんな小さな鄙びた町だった。

 田舎町に夜半すぎから大雨が襲った。山の麓に位置する場所であったから、さほど川幅がひろいわけではない。そこへいきなり濁流が流れこんだものだから今しも橋が流されようとしているところだった。なぜ橋の中央に僕が居たのかはわからない。夢とはじつに不条理で唐突なものだ。

 いつしか夢の情景は朝になっていた。

 雨は止んでいたが、あたりにはミルクのような靄が立ちこめ、視界が利かなかった。


「助けてくれ!」

 叫ぶ僕。夢だというのにリアル過ぎて足がすくむ。

 轟々と水音がする。夢のなかで僕は木造の橋の、いままさに濁流に呑まれんとする欄干にしがみついていた。

 しかも木の板を横に並べただけの素朴な橋だった。

 ぐらぐらと橋がゆれ、水飛沫が飛びかう。すでに欄干は崩れかけようとしていた。

 その時だ。上空で風が巻き起こり、立ちこめていた靄を吹き払ったのだ。

 と、視界がひらけ、

 ――いた。


 男の子がいた。

 橋を渡り切った対岸には、一人のみすぼらしい恰好をした男の子が待っていた。

 顔の仔細はぼんやりとしてわからない。だが、その印象には見覚えがある。鼠色の半ズボンを履き、よれた半袖の薄汚いシャツを着ている。

 相棒が小さかった頃のそのままの印象で向こう岸に立っていた。


「みのるちゃん、こっち」

 相棒は腕をのばし、必死に手招きしている。濁って茶色くなった水が近くで渦を巻いているにもかかわらず、彼の声がいやに近くに、しかもクリアに聴こえてくる。

「みのるちゃん、鍵、持ってるよね?」

 どこか不安そうな色を表情に滲ませ、相棒は訊いてきた。

「は、鍵? ああ、鍵なら持ってる」

 むかし相棒が河に落ちたとき、僕の拳に残った鍵のことだと咄嗟に思いあたった。ジャケットやズボンのポケットを慌ててまさぐると、どういうわけか、あの時の鍵がひょっこり顔をのぞかせた。

「あるぞ。ほらっ!」

 ふらつきながらも僕は鍵を高く掲げてみせた。


「よかった。鍵がないとボク、お家に帰れないんだよ。みのるちゃん、早くこっちにきてッ」

 相棒は僕にむかって叫んだ。呼びかけに応じて翻弄されながらではあったが、少しずつ相棒のいる向こう岸へとにじり寄っていく。

 いや、そうではない。僕は行きたくなかった。まるで見えない糸に操られているみたいに手繰り寄せられてゆく。

「まだ、そっちには行きたくない」

 叫んだが、手招きは止まらなかった。


「みのるちゃん、鍵をかえしてよう。お母さんが心配するよう」

 泣きべそをかいているが、珍しく相棒の意志はハッキリと際立っていた。とても僕の主張なんかは受け容れられそうになかった。僕の思いは霧散し、そのまま崩れかかる橋にすがりつきながら、あちら岸へと進んでゆくしかなかった。

 ――もう引き戻せない、そう観念した時だった。 


「はい! そこまでッ。いつまでも遊んでいないで、もうお家に帰る時間ですよ」

 女の声がした。それから手を打ち鳴らす。まるで柏手のような潔い音が鼓膜を打ち、ハッとして背後を振り返る。

 ちょうど相棒がいる反対側に女の子が一人、立っていた。どう見ても童女だが、一瞥して妻本人であることがわかった。妻はなぜか、小学生の姿格好をしており、髪型はおかっぱで赤い吊りスカートを履いていた。

「もうご飯なんですからね。帰ります」

 再度、キッパリと促す声だった。だが、夫が危険に晒されているというのに緊張感に欠けるというか、何とも間延びした少女の声だった。


「帰るったって……」

 濁流はいよいよその激しさを増している。妻のいる方に戻るといっても橋はすでに崩壊しかかっている。相棒が待つ向こう岸に渡った方が早い。

 しかし。

 行きたくないんだ、そっちには……。

 欄干にしがみつきながら眼を閉じる。

 ――もう駄目かもしれない。


 その時だった。気配が伝わってきた。妻が息を吸いこむ音。

 僕にはわかった。

 向こう岸にいる相棒をターゲットにして吹きかけたのだ。

 意外なことに颱風をおもわせる凄まじい風なんかではなかった。蝶の羽搏きにも似た、かくも密やかな息だった。

 だが、そのとたん。

 相棒は吹き飛ばされ、消えた。

 そして何ごともなかったように橋もまた消え失せた。あれほどまでに激しかった濁流もきれいさっぱり消滅した。


 へたりこんでいた僕の肩に小さな妻が手を伸ばすと、言った。

「さ、帰ろっか。きょうの献立はね、みのるくんの好きなXO醤入りの焼きそばだよ」

 にこ、っと歯をみせて笑う妻だが、小学生の面立ちのままだから何だか少しおかしい。凄まじいばかりのスペクタクルな体験をしたばかりだというのに、妻が笑うだけで僕の心はなごんだ。彼女の手にはすがらず、何とか自力で立ち上がると僕は言った。

「うん、帰ろう。我が家に帰ろ……」

 そこでふいに夢が途切れた。

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