22話 あたし、VTuberを辞めるわ

 家に入るなり、吉川は陽向と姫乃に帽子とサングラスとマスクを付けさせ顔を厳重に隠すと、自分の車に荷物ごと詰め込んで走り始めた。


 吉川はいつもスーツ姿ではなく私服で、車も事務所の社用車ではなく吉川の自家用車みたいだ。事情のわからない二人はとりあえず後部座席に座ってシートベルトをする。


「あの、吉川さん、これはどういうことですか?」


 姫乃の質問に答えることなく、吉川は耳に付けたインカムで誰かと話している。電話の相手は社長の佐伯みたいだ。


「はい、“ジキル”と“聖人”を無事に保護しました。避難場所の指示をお願いします」


 吉川は妙な符号を使って社長に状況を伝える。おそらく、ジキルはひなたで、聖人はルカを指すのだろう。待って、ひなたがジキルってことは私はハイドってこと? それはさすがに失礼なんじゃないの?


「事務所は既に記者に張られているようだ。絶対戻ることのないように。きみが非番でよかった。こっちはもうあまり身動きがとれそうにない。どこかの宿泊施設に潜伏してくれたまえ。あ、領収書はもらうんだよ。でも事務所の名前は使ってはだめだからね」


「ですが、ホテルや旅館も人の目があります。ちょうど行楽シーズンとも被っているので、長期の予約も取り辛そうですね」


「確かに、向こうもホテルや旅館を探すかもしれない。正直、相手の情報収集能力も未知数だ。事務所と縁のある施設も危険だろうから、どこか知り合いの家に匿ってもらう方が安全かな」


「わかりました。私に考えがあります。それより、他の“天使たち”は大丈夫でしょうか?」


「それは私に任せてくれたまえ。長い付き合いの友人たちにも援護を頼んである。こっちの心配はしなくていい。くれぐれも尾行には警戒するように」


 通話はそこで切られた。吉川は長い溜息を吐いて、信号待ちで後ろを振り向いた。


「陽向、前に言ってた帰省先はどこなの?」


「えっと山形ですけど……」


「山形……そこで姫乃も一緒にかくまってもらうことはできる?」


「え? あ、はい大丈夫だと思いますけど」


 陽向の祖父母の家は広いので、一人や二人くらい人数が増えても問題はないだろう。陽向の友達だと言えば、あの二人は喜んで泊めてくれるはずだ。


「吉川さん! そろそろ何があったのか教えてください」


 痺れを切らした姫乃が訊ねる。その顔はサングラスとマスクに隠されていてもわかるくらい恐怖にうち震えていた。姫乃はこの騒ぎの原因が自分にあると薄々勘づいているんだ。


「……黙っていても、いずれはわかることだから言うわね。今日の夕方、生放送の歌番組にリナシスが出演したの。東條綾乃はね、その番組のトークで自分の妹がテレライブのVTuberをしてるって暴露したの。しかも、妹は顔にコンプレックスがあるから自分と同じアイドルにならなかったんだ、なんて余計な一言を添えてね」


「……そんな、姉さんがそんなことを」


「もちろん、テレビ局やリナシスの所属事務所にも抗議したけど、向こうも混乱しているみたいね。リハや台本にも予定のない発言だったみたい。どちらにせよ、生放送だったから、今更取り消すこともできない」


 姫乃の落胆ぶりは想像を絶するものがあった。隣に座る陽向が、姫乃の肩を抱いて慰めるけれど、それこそ今の彼女にはなんの慰めにもならないんだろう。


「今ね、誰が綾乃の妹なのか犯人探しみたいなのが始まってるの。ネットでも憶測が飛び交ってるし、芸能誌やネットニュースの記者が血眼になってテレライブを探っている。だから、あなた達に被害が及ばないよう動いているの。とにかく、今は身を潜めないと」


「ごめんなさい、あたしのせいでみんなにまで迷惑を……」


 姫崎ルカだけでなく、他のVTuberにまで疑いがかかっているとなると、テレライブ全体に影響が出てしまう。姫乃が責任を感じるのも無理はない。


 ていうか私、前に配信でリナシスがどうのこうのと言ってしまった。あの時はこんなことになるなんてわからなかったとはいえ、ルカの正体がバレてしまったら多分の私のせいだ。どうしよう、とんでもないことをしでかしてしまった。


「姫乃ちゃんも、ゆうちゃんも落ち着いて、まだそうなると決まったわけじゃないですよね?」


 運転席の吉川に陽向は同意を求めるけど、返ってきたのは曖昧な返事だった。まだ吉川にも、事務所にも、先の展開が予想できていないのだ。


 もちろん姫乃が悪いことをしたわけじゃない。しかし、いかんせん綾乃の影響力が大きすぎるのだ。彼女のほんの些細な一言でも、最悪の結果を招くかもしれなかった。


 吉川は尾行の車がいないのを確かめてから、高速に乗った。この車でそのまま山形まで向かうらしい。今からだと、到着は真夜中になるだろう。その方が人目を避けられるので都合はいいだろうが、高速を走る車の外に広がる深い夜闇は私たちの気分まで暗く沈ませてしまう。


 やがて陽向は疲れたのか、姫乃の肩に頭を預けて眠り始めた。姫乃は陽向の頭を帽子の上から優しく撫でると、目に涙を浮かべて呟いた。


「どうして? 姉さんはあたしのこと嫌いになったの?」


 その声は綾乃に届くわけもなく、車の走行する音に掻き消されるだけだった。


 


 深夜の到着にも関わらず、陽向の祖父母は姫乃達を暖かく出迎えてくれた。夜中に駆けつけた三人がすぐに休めるよう、部屋に布団まで敷いて待っていてくれたのだ。


 吉川は朝まで休憩したのち、また車に乗ってトンボ帰りを始める。陽向と姫乃だけは安全な場所に隠せたけれど、他のVTuberはそうではない。吉川はまた東京に戻って、事務所の支援に向かうらしい。


 吉川が去った後、姫乃は自分のスマートフォンでネットの情報を片っ端から調べ始める。ネットには綾乃の例の発言を切り取った動画や、それに対する世間の反応を知らせる記事やコメントで溢れかえっていた。それらはまさしく罵詈雑言の嵐で、心のないことを書き込む輩もいた。しかし、それよりもテレライブの今日予定されていた配信がすべて中止になったことに姫乃は一番ショックを受けているようだった。


「姫乃ちゃん、今はネットを見ない方がいいよ。わたし達は吉川さんの連絡を待とう」


 陽向の言うことはもっともだけど、姫乃の心境を思えばそれも難しい話だ。自分の姉のせいで起きた騒動を黙って見過ごせるわけがない。自分だけが責め苦を受けるならともかく、テレライブ全体に影響が出ているんだ。それを姫乃は食事も喉を通らないほどに気がかりに感じている。


「……どうしてこんなことになってしまったんでしょうね」


「姫乃ちゃんは悪くないよ! だから、そんなに思い詰めないで……」


「いいえ、今回のこともあたしに責任があるの。あたしが姉と向き合うことを避けてしまったからよ。もっとちゃんと話をするべきだったの。もう手遅れでしょうけどね」


 姫乃が綾乃から離れて暮らしたからって、姉妹の確執が消えてなくなるわけじゃない。それは言わば問題の保留、先送りだった。今になってそのツケを払わされている。だがそれでもこれはあまりに高すぎる代償だった。


「手遅れってことはないよ。だって姫乃ちゃんのお姉さんはまだ生きてるんだよ。きっと、話し合えば分かり合えるよ」


「ありがとう、陽向。でも、陽向は姉を知らないから、そんなことが言えるの。あの人は絶対に手を緩めたりしない。あたしがVTuberを続けられなくなるまで、妨害するつもりよ」


「どうして? 実の姉妹なのに、そんなのあんまりだよ」


「姉はあたしを嫌っているの。理由はあたしにもわからないけど……」


 陽向も私も姉妹や兄弟のことはわからないけど、不仲であってもせいぜい喧嘩をするくらいで、本気で相手のことを憎しむなんてことがあるのだろうか。


「昔はあたし達も仲が良かったの。ほら親しい家族のことをまるで友達みたいって言ったりするでしょう? あたし達も友達みたいに仲の良い姉妹だったの。それこそ、夕陽と陽向のようにいつも一緒だったわ」


 姫乃は心に閉じ込めていた思い出を私たちに語ってくれた。


 綾乃は歳の近い妹をとても可愛がってくれたらしい。


 アイドルになることは元々綾乃の夢だった。夢に向かって努力を重ねる姉に憧れて、自然に姫乃もアイドルを志すようになった。初めは姉の背中を追いかける妹を綾乃は応援してくれていたらしい。けれど、綾乃がアイドルとしてデビューを飾り、リナシスを結成した時から態度は急変したそうだ。アイドルを目指す姫乃に綾乃は厳しく当たるようになった。


「理由はわからないの。あんなに優しかった姉さんが、どうして変わってしまったのか。あたしが何か気に障るようなことをしたんじゃないかって思うと、怖くて聞けなかった。たぶん、姉さんはあたしがアイドルに相応しくないって思ってるの。VTuberになることも相当気に食わなかったみたいで……」


 そうでなければ、あんな嫌がらせをしないだろう。わざわざ取り返しのつかない生放送を選んで暴露したのだ。騒動を起こせばリナシスだって困ることは分かっているだろうに。


「姫乃ちゃん、お姉さんに会いに行けないかな?」


「無理よ、吉川さんからここを離れないよう言われているし、姉も実家には帰っていないだろうから」


「そんな、でも何かできることはあるはずだよ」


「そうね、あたしにできることは一つだけよ」


 姫乃にはもう戸惑いがなかった。たった一晩の間に一人で覚悟を決めていたんだろう。


「陽向。あたし、VTuberを辞めるわ」


 

 

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