7話 あんたは精々自分の足で立ち上がりなよ。
「お願い! ゆうちゃん!」
陽向は私に向かって手を合わせる。普段は押しが弱いくせに、こういう時に限って必死に頼んでくるなんて本当にずるい。
だめよ。絶対にやらないから。
「そこを何とかお願いだよ」
嫌だったら嫌なんだから。
「そんなことで言わないで、ゆうちゃん。あとでどら焼き買ってきてあげるから」
どら焼きって、私はドラえもんじゃないのよ。そもそも私は食べ物とか食べれない。あ、でも陽向と交代すればいけるのか。だったら、どら焼きじゃなくて、どうせならマカロンの方がいいな。
「わかった! 近所の有名なパティスリーのマカロン買ってきてあげる。とっても美味しいやつ。だからお願い、東條さんの様子を見てきて欲しいの」
な、なぬ、あそこのマカロンはとってもカラフルで可愛らしいのだ。口に入れたらどんな味が広がるんだろう。一度は味わってみたいと常々考えていた。
「ゆうちゃん、行ってくれる?」
し、仕方ないわね。でも、一個じゃだめよ。最低でも五個は選ばせなさい。
「え、五個も食べるの? あそこのマカロン結構大きいんだよ。わたしそんなに食べれるかな?」
知ったことか。口にするのは私でも、消化するのは陽向だ。後のことなんて知らない。そもそもどうして姫乃のことを私が見守らなくちゃいけないのだ。
「だって、東條さんも今日が初配信で緊張していると思うから、わたしのときみたいにゆうちゃんが傍にいてあげたら、安心できるかなって」
陽向は私のことをお守りか何かと勘違いしているんじゃないか。だいたい姫乃は陽向とは違うのだ。たとえ緊張していたところで、姫乃なら卒なく配信をこなすに違いない。彼女にはそれだけの自信と実力がある。だからこそ、テレライブのオーディションも合格したのだ。
吉川が言うには百人以上が応募した中で、合格したのは東條姫乃ともう一人だけ。そんな厳しい戦いを勝ち抜いた姫乃を、陽向
「でもね、初めては誰だって不安だと思うんだ」
その顔付きはいつもの
じゃあ、行ってくるから。マカロン、忘れないでよ。
「ありがとう。ゆうちゃん」
陽向に手を振り、私は自分の体?を宙に舞い上がらせた。家の屋根さえも通り抜けて、一気に空まで上がる。
どういう理屈かは知らないけれど、私は陽向のイマジナリーフレンドなのに、陽向から離れて移動することができた。オカルトには興味がないので深く考えないようにしている。
実は東條姫乃のことは私も気に掛かっていた。彼女がVTuberとしてどんな配信をするのか気になっていたし、何より彼女の姉であるトップアイドル東條綾乃の顔を拝んでおきたかった。テレビで見るよりもやっぱり現物の方が可愛いのだろうか。
気力?を消耗する交代と違って、移動をする分にはさほど疲れることもない。なのに、陽向の頼みを頑なに拒んでいたのは理由がある。というか、理由なんて一つしかない。私は陽向の傍から離れるのが嫌なんだ。こんなこと絶対陽向には言わないけど。
東條姫乃の家を探すのは簡単だった。人は誰しも魂の独特な気配を纏っている。それは距離とは関係なくこちらに伝わってくるから、簡単に辿ることができるのだ。それに陽向と高校も一緒だからそう遠くにいるわけでもない。車や電車に乗らなくても私は空をすっ飛んでいけるから、人間よりずっと速く移動できる。
東條家の姫乃がいる部屋に私はまっすぐに入り込んだ。どんな防犯も私には無意味だ。
姫乃はちょうどパソコンに向かって、マネージャーの吉川と通話しているようだった。
「もしかして緊張している?」
「何故? あたしが緊張する理由がありません」
姫乃は吉川の前でも
「ごめんなさいね。ちょっと聞いてみただけよ。ただ、青空ひなたのおかげで同じ三期生のあなたにも注目が集まっているから、プレッシャーを感じてるかと思ったの」
吉川が言っているのは、陽向の初配信のことだろう。あの配信は良くも悪くもネットを騒がせた。炎上と呼ぶほどではないけれど、波紋を生んだのは確かだ。おかげで陽向のチャンネル登録者も一気に増えた。姫乃の初配信次第で、陽向に遅れをとることだって十分ありうる話だ。
「関係ありません。あたしはあたしの全力を出すだけです」
「そう、なら良かったわ。ところで、姫乃……いいえ、ルカはひなたの配信を観たのかしら?」
「観ましたけど、正直くだらないパフォーマンスだと思いました。実力がないから、ああいうやり方でしか目立てないんです」
別に私は陽向のパフォーマンスじゃないんだけどね。まったく相変わらず生意気な女だ。まさか私に聞かれているとも思ってはいまい。後で陽向にいろいろちくってやるんだから。
「くだらないパフォーマンスか。確かにルカにとってはそうなのかもね。あなたの強気なところ結構好きよ。今はひなたばっかり注目されてるけど、リスナーがあなた歌を聴けばそれも変わる。わからせてやりなさい」
「はい、もちろんです」
姫乃には吉川の励ましなど不要のようだった。通話を終えると彼女は一人深呼吸する。画面には既にアイドル衣装に身を包んだ赤髪の美少女アバターが控えている。見た目は姫乃と瓜二つで、もしかしたら姫乃の方が美しさでは勝っているかもしれない。これがVTuber姫崎ルカなのか。確かにこれならトップアイドルだって目指せそうだ。
あとは配信が始まるのを待つだけだ。姫乃はひたすらに集中を深めている。しかし、それを遮るように部屋のドアがノックされた。
「お母さん? 今日は邪魔しないでって言ったでしょう?」
姫乃は後ろのドアを振り返った。そこには姫乃以上の美女、いや、正真正銘の輝きを放つアイドルが立っていた。
「ヤッホー、姫乃。来てあげたわよ」
姫乃の姉、東條綾乃はテレビなんかで観るよりも、ずっと眩しい存在感に縁取られている。彼女の周りだけ世界が変わるようだった。顔は姫乃とよく似ているけれど、醸し出す魂の気配が全く違う。姫乃がお姫様だとしたら、彼女は女王だ。
「姉さん、どうして?」
姉の綾乃の登場に初めて姫乃は動揺していた。さっきまで静かだった心が、ざわつき乱れ始めている。
「あ、本当にやるんだね。こんなアニメの仮面を被って、アイドルの真似事するんでしょう?」
ディスプレイに近付いて、邪気のない子供のように綾乃は言う。
「──っ真似事じゃないわ」
「真似事でしょう? だってあんたはいっつも私の真似ばかり。私の背中を追うしか能がないあんたに、VTuberなんて無理だよ」
綾乃が言葉を重ねるたびに、姫乃の顔は青ざめていく。さすがにそんな顔色まではアバターは追従しない。
「まあ、別にいいけどさ。私の妹だってことだけは絶対隠してよね。だって恥ずかしいからさ。こんな出来の悪い妹がいるなんて知れたら、それだけでマイナスイメージだよ」
どうして彼女はこんな悪意に満ちた言葉を妹に言えるのだろう。人間の姉妹の関係というのはここまで荒んだものなのか。
姫乃は何も言い返せずに固まっている。
「とにかく私の足だけは引っ張らないでね。姫乃」
それは満面の笑みだった。ステージの上で見せるのと同じ笑顔で綾乃は言い切ると、部屋を出て行った。
あれが家族同士の喧嘩なんだろうか。そんな穏当なものにはどうしても思えなかった。
姉が出て行った後も姫乃は氷みたいに固まって動かない。アバターも、そんな彼女に従って、ただの彫像みたいになってしまう。
もう配信の時間でしょ。早くボタンを押さないと。
「………………」
そっか。残念だけど、私にはあんたを助けてあげられないよ。
当然ながら私の声は姫乃には届いていない。陽向のように交代してあげることもできないから、もうどうしようもない。
時間は刻々と流れていく、吉川の連絡にも姫乃は応じなかった。
私は陽向みたいなお人好しじゃないから、自分で前を向けない人間を励ましてなんてあげない。あんたは精々自分の足で立ち上がりなよ。
それまで、見守っててあげるからさ。
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