第45話 目覚めた血天使

「やっと成功か……ギリギリ間に合った。老いた体は限界に近い」


 儂はもはや歩くのがやっとの使い古された身体で、廃墟になった研究所の水槽のある部屋に立っていた。水槽の泡だけが音を立て続ける。


 数時間前に、この研究所を守る守備隊の隊長からの緊急シグナルを受信して、儂は急ぎここへ向かった。

 これから起こる事は、すべての常識を逸脱するもので、他の者には知られるわけにはいかない。だから、ガードする者たちは、表で待たせてある。


 さて、儂の期待をあの眼鏡の所長は叶えてくれたのか?


 廃墟の中を儂の歩く音が響く。

 動く物は無いが、奥の方から確かに強い力を感じてた。

 それは儂が欲していたもの。


 九十歳を越え、この世界にある欲しいものは全て手に入れた。

 だが、老いと死の恐怖は無くす事が出来なかった。

 金や権力を持てば持つほどに、自分を守る為に、さらなる大きな力が必要になった。


 この研究所を守る警備の者達も、軍隊と同等の装備を与える事になった。

 だが所詮、どんな武器を持ったところで、多くの人間を配したとしても結果はこの通り。もっと巨大な力を振るわれたら制止ようが無い。


 だからいつも自分以上の力に怯える事になる。


 そう儂も所詮、低俗な人間なのだ。

 文明という支配体制の中でトップにいるだけで、単体では動物の餌でしかない。


 完全生物。


 儂の目の前に何もつけてない身体に巻き付くように、長い紅い髪を纏っている美しい女。


 ケルブファーストと呼ばれる異次元からの訪問者。

 この世界では神に等しい力を持つ者。


「眼鏡の男はこの女の覚醒が夢だったようだが、そんな事はつまらない事だ。神を起こしたのなら、望みを願うべきだろ? 死や老いに怯えず、誰かに守られる必要がない力。権力と金を持つほどに危険が増え、自由は無くなる。一人で生きていける強さが欲しい」


 深紅の瞳の女は、儂を不思議そうに見る。


「不思議……おまえは化け物になりたいの?」

 完全な人間の言語だった。

 発音、音質ともに完璧。そして美しい声で話すファースト。


「クク、もうこの世界の言葉を覚えたのか?」

 腰まである長い髪、全てを晒した身体は完璧な美を揃えている。

「覚えた? そんな必要無いわ。あたしは全てを知っている」


 声も話し方も人間の女のものだ。

 だが、こいつは異世界の住人、この姿も本来のものではない。

「眼鏡の男が言っていた生体チップ。ケルブの力を制御するもの。おまえの脳にあるそれは、世界の知識の全てを記憶している」


 女は首を傾げた。

「……アカシックレコード……そんなふうに眼鏡の男は言っていたけど?」

「眠っていた時の記憶も持っているのか。まさにアカシックレコードだな。この宇宙が出来てから、終わるまでの全てが書かれている本。だが、おまえのような高次元の生物なら、三次元の儂らの世界など単純。未来も過去もこれから起こる事も予見出来るだろう」


 ファーストは知識レベルを大幅に下げ、儂との会話を行っている。

 だが言葉は、ケルブには通じていても、儂の思いや意思は通じない。

 あまりにも違い過ぎる生物の間で、正確なコミュニケーションなど不可能だ。


「未来が知りたい? 言っている事は分かるけど、それが何になるの? 三次元しか認識出来ないあなたに他の次元の要素は理解は出来ない。そうね、足し算しか出来ないあなたに、かけ算を教えるようなものかしら」


「随分、人間的な例えだ。とてもいい。こうして会話出来るだけでも上出来だ」


 女は静かに近づいてくる。その美しさは完璧だが、徐々に儂の額に汗が噴き出る。


「あたしが怖いの? あなたにはあたしは理解出来ない。理解出来ないものは怖い。確信が持てないからね。あたしがあなたが望むケルブだと、あたしでも証明出来ない。アカシックレコードとあなた達が呼ぶ、あたしの脳中のチップも本当に、不老不死を実現出来る、そんな機能があるかなんて分からない」


 まったくその通りだ。


 この者が特別な力を持っている事は確かだ。

 だがこのまま気まぐれに儂を殺すかもしれない。

 人間が蟻を踏みつぶすように。そしてそんな事は、人間は気にも留めない。


「汗が増えたかな。あなたに蘇っている死の恐怖。人間の弱さと、自分が生かされている事が分かる」


 儂は背広の胸ポケットからハンカチを取り出し、自分の額にあてた。


「まあな、こんな気持ちは久しぶりかもしれん」

 フフ、笑いながら女は、儂の目の前まで近づいた。

「随分と正直ね。それにここまでに死の恐怖を何度か味わったなんて、人間には珍しいわね」


 女は右手で儂の頬に触れた。

 その手は冷たく、そして虎の前足のような、圧倒的な力を感じた。


「それで? 儂の望みは聞いてくれるのか?」

 フフ、再び笑った女は、マジマジと儂の顔を見つめた。

「……いいわ。この世界での目的は果たせたしね」


「おまえがこの世界に来た目的? 偶然に召喚されたのではないのか?」

 天井を見上げ、大きな声で笑い始める女。


「ハハ、人間が思う神は、人ごときに召喚されたり、捕らわれたりするの? 蟻が人間を捉えておけるの?」


 素粒子の衝突実験で偶然に得られた、異次元の細胞……だった筈だ。

 それがこの女の意思だった?


「……ならば、おまえの目的は何なんだ!?」

 天井から儂に視線を移した女は、ニヤリと笑った

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