第44話 所長の見る夢

「やっぱり……君は目覚めないんだね」

 水槽の中で揺らぐ美しい姿に、語りかけた私は、レンズが壊れてフレームだけになった眼鏡を拾った。

「進化が足りていない……そうだろう?」


 部屋を出て研究所中を歩きまわり、全てのデータと痕跡を消去していく。


 私は最後に、特別な扉を開けて最下層に降りるエレベータに乗った。

 地下に降りてしばらく歩いた先に、巨大なプールが現れる。

 広大な広さ、数十メートルの深さの赤い血のエリア。

 私がが装置を操作すると、血の海を覆う、赤い液体が排出されていく。


「クウゥクゥウウ……」


 血天使になれなかった者がプールの底に残り、数百の微かな声を出す。

 やがてそれも静かになった。静寂が広がり始める。


 そして、ドックン、ドックン、私に聞こえ始めた鼓動。


 プールの一番底の方で動くものがあった。

 この世の醜悪を全て含んだ巨大な肉の塊。

 私はプールの底へ、側面に削られた階段を使って降りていく。


 プールの底で全身を現し鼓動する巨大な生物は、人の臓器のような姿をしていた。

 私は巨大な醜悪な臓器に、腕を差し込み探し始めた。

 ドロリ、破られた生物の中からどす黒い液体が流れ出す。


 数十分の私の解体により、巨大な臓器は切れ切れに裂かれ、その鼓動を止めた。

 散らばった臓器の破片を確認していた私に、いきなりそれは飛びかかった。



 プクプク、何か気体が昇る音と、気泡が弾ける音だけが響く。

 静寂が占めるその部屋は、大きな水槽があり、そこにゆらりと揺らめく者。

 赤い髪が腰の辺りまで長く伸び、瞳を固く閉じた痩身の姿の女。

 その姿は美しく怪しく、そして神秘的だった。


 ケルブファーストを見ながら私は呟いた。


「自分でインフィニットを使ってみて感じたよ。血天使に備わった、異常な残虐性はなんだろう? 君がいた世界で、は何かと戦っているのか? もしくは三次元しか知覚できない人類など、殺しても蟻を踏みつけている程度の感じなのかな……」


 水槽のケルブは、瞳を閉じたまま答えない。


「私の本当の目的はね。君を目覚めさせる事なんだ。初めて君の再生した姿を見て、私は心を奪われた。色々とやってみたよ、懸命に起こそうとした。でも、君はずっと眠ったまま……高次元からこの世界に降り立った血天使の君が、私のする事に感心など持つはずもないのにね」


 ……ガシュ、ガシュ、何かが……何かを食らう音が聞こえてきた。


 自分の胸に小さな穴が開き、徐々に大きくなっていくのを見ていた私は笑った。


「フフ、だからね、君が感心を持つ者を造り上げたんだ……僕の身体に寄生したサードとセカンドが融合した世界を覆う者。血の海に置いた、巨大な血天使の子宮で世界を覆う者を育てた……そして私に寄生させた」


 口から血をはき出す私は、血天使の眠る水槽に胸を押さえながら近づく。


「やっぱり……生きたまま食われるのは嫌だな。どうせなら食らう方がいい」


 胸の穴は内蔵まで達した。

 大きく開いた穴からは、どす黒い色の生物が脈打ち触手を広げるのが見えた。


「でも、これで君はきっと……気がつく」


 あと水槽まで数歩まで近づく。


「この子の遺伝子へ私の意志を組み込む……私が食われる事でね。世界を覆う者に、私の血と肉から伝える……血天使を食らえ……と」


 私の内蔵を食い終わった複数の触手が、背中を突き破り体全体、手足の先までも巻き付く。


「少女を卵子、男の子を精子として血の海で受精させ、巨大な子宮で育てた。世界を覆う者は新しい人類。赤き瞳の血、人間の血、ネットの血で生まれた、新しい……血天使」


 床に膝を落とした所長の身体から、流れる血が、水槽へと少しずつ流れていく。


「私は次の世界の人類を生み出した……フフ、そんなのは私の夢の話だね……でもね、例え神でも、人が見る夢の内容を変える事は出来ない……そして人は夢を見続ける。人はどんなに後悔しても、昔が懐かしくても、後戻りは出来ないから。その夢が自分を滅ぼす事になっても……私が見る夢……この子がこの世界を覆い、そして君を起こす……うっぐ」


 体中に伸びた触手が私を強い力で締め付ける。


「この子は……こんなに元気だよ。もうそろそろ私を食べ終える……」


 半身以上を食われ、所長の内蔵と肉の破片が、ポトリポトリと床に落ちる。


「そして君を食らう……楽しみだよ……私が君の血と肉を食らいたかったけど」

 意識が薄くなった所長を、食らい続ける世界を覆う者の姿が急激に変化していく。

「……あ、君に聞きたい事があったんだ」


 耳の中、口の中、目の中へ入り込む触手。

 何も感じられなくなった、所長が最後の言葉を呟く。

「……君も夢を見ているのかな? この世界で神に等しい君でも自由にならない、血天使の夢をね……」


 床に崩れ落ちた所長はどんどん食われ小さくなり、やがて血の溜りを残して無くなった。残った所長の血は滲むように進み、ついに水槽にたどり着いた。


 その時……この世界でもはや誰にも理解されない者へと進化した、世界を覆う者は、自分の本能に従い、目標へと近づいていく。


 理解してもらう為に。感じて貰う為に。食らう為に。再び進化する為に。


 水槽の中で揺らめく赤い髪……均整な白い彫刻のような顔が少し歪んだ。

 そして彼女がゆっくりと深紅の瞳を開く。

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