第41話 もう寂しくなかった
少女は再び首を振る。
「あなたには会いたかった……でも見せたくなかった……本当の私を」
血の海の中で揺らめく、少女の黒髪と光る赤い瞳。
「ここにいる人はみんな要らないものなの。本物の血天使になれなかった用無し」
彼女の言葉で周りを見渡すと、漂う人達はゆっくりと少しずつ動いていた。
「……生きている!?」
「そう……生きている。でも、ただそれだけ。血の涙を流しながら生き続けるの。私たちが流す血の涙、それがこの巨大な肉塊、忌まわしい者の糧よ」
少女の黒髪が揺れるたびに、もう一つの目……真黒な穴が見える。
少女の身体は腐りかけていた。
少女は一つだけ残った瞳から涙を流し続ける。
少女が握る僕の手の力が、少しずつ弱まっていく。
「あなたに会えて良かった。これであたしは終わらせられる……」
「終わらせる? 不老不死の君が……」
少女が指さす方向、血の海に沈む巨大な肉界、忌まわしい者。
水中で見ると、その全容の大きさ、醜悪さに圧倒される。
だが、水中に隠されたそれは、見かけの醜悪さなど、些細な事だと感じられた。
忌まわしい者の水中に沈んでいる部分に、イソギンチャクのような口を開いた器官がついていた。それは数分に一度大きく、血の海の水を吸い込み、また数分かけてはき出している。その時、吸い込まれる者。
この血の海で生きる漂う物言わぬ人が吸い込まれ、出てこない。
「あれは……もしかして」
「そう、捕食しているの。最初はあんな器官は無かった。忌まわしい者はもっと小さかった。それが、眼鏡の男の計画が進むうちに、あんな姿になった。そして食べ始めたのあたし達を」
「そんな……それじゃ……」
「そうよ、ここには長くは留まれない」
胸を掌で押さえ決断した彼女は、ハッキリとした口調で選択した。
「帰りなさい。あなたを待っている人がいる、あなたの世界へ」
少女は握った手の力を緩ました。ほどけ始めた手……離される指先。
彼女が遠ざかり始める。
(僕は……どうしたらいいんだ)
さっき見たビジョンが浮かぶ……僕の家族。
もどれる僕の場所が見えた。
でも、まだ微かに触れている指先……別れの時を惜しむ二人の心と身体。
「この血の海を泳ぎ切ると、上に昇る階段があるわ。あなたの力は、かなり弱くなってるけど、回復した今なら、ここから逃げられるはず」
「君はどうする?」
「あたしは……」
途切れた言葉の続きは分かっていた。でも諦めたくない。
「僕と一緒に行こう」
少女は肉が無い、表情のない顔で笑ったように見えた。
「私はここから出られない……この崩れ落ちた身体は、この血の海でしか生きられない」
離れてしまった二人の指先。
血の海の中でゆっくりと離れ始める二人の身体。
「さよなら……そしてありがとう。あたし、あなたに会えてよかった」
別れの言葉と共に、勢いをつけて僕から離れようとする少女。
(僕は……どうしたいんだ?)
現実の世界での僕の暮らし。人とうまく付き合えず、一人で孤独を感じ、ネットの世界に繋がりを求めた。ネット……彼女と冒険したゲームの情景。
ゲームの中で会ったプレイヤーが言っていた。
(君達は決して離れてはいけない)
僕は力を込めて前に進み、離れ始めた少女の手を強く掴んだ。
「……え?」
驚く少女のその身体を引き寄せ、自分の胸に抱いた。
目の前に揺らめく黒髪。
「僕はこのままでいいよ」
その言葉を聞いた彼女は、懸命に首を振りもがき、僕を振り放そうとする。
僕は彼女を強く抱きしめた。
沈みはじめた二人に、赤い血の海の暗き底が見えてきた。
首を振り続ける彼女は髪を上げ、僕に自分の顔を見せる。
「見て、見なさい! あたしは化け物なのよ。身体は腐り果てこんなにも醜い。あなたが見ていた、青い髪の少女とは違うの! 離して!」
「離さないよ。これからはずっと一緒にいる」
泣きながら首を振る彼女。
「お願いだから離して……あなたがあたしにつきあう必要なんてない……離してお願い」
彼女の髪に触れながら、僕は笑顔で話しかけた
「僕は君と一緒にいたい。もう諦めてくれよ。きみなら、他にもっといい人がいるかもしれない。でも僕で我慢してくれ。他の知り合いの処へは行かないでおくれ」
笑った僕の顔を見た少女も微かに笑う。
「フフ、あの時はヤキモチやいてくれたよね。でも言ったじゃない、あなたは特別なの」
「だって君が、他の男にも試したって言うから……」
彼女の唇が僕の唇に触れ、それ以上の僕の言葉を止める。
「ごめんね……でも嬉しい」
少女は僕の胸に頭を付けた。僕は彼女を胸元に引き寄せる。
長い黒髪が、僕と彼女を一つにするように絡みつく。
「これで終われる……やっと寂しさから孤独から解放されるの」
少女の呟きと共に、僕は全てを捨てて、一番望んでいたものを手に入れる。
そして、一つになり沈んでいく。
真黒な澱んだ底へと落ちていく。
でも二人はもう……寂しくなかった。
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