第40話 空のない海

「なんだ! ここは!?」


 空が見えない巨大な血の海。

 僕は自分の目と感覚を疑った。これはリアルで起こっている事なのか疑った。

 ひどい臭いと研究所の中とは思えない大きな空間。


「どうして、こんなものがここにあるんだ!?」

 驚きで大きな声で喚き散らしていた僕は、さらに恐ろしいものを見つけ言葉を無くした。


「……え?」


 赤い血の海の上、僕が浮いている水面に……大勢の人がいた。

 血の海を漂う人はみな腐っていた……身体が朽ちていた。

 そしてゆっくりだけど人々は、僕に集まってくる。


 驚いた僕が避けるように身体を動かすと、新たに水中から浮かび上がってくる人々。たくさんの人々の物言わぬ虚ろな目が僕を見る。


 肉は剥がれ骨が見える。顔は表情を無くし、目は真っ黒な穴になっていた。

 数百人もの朽ちた人々が、僕の方に漂って来る……

 恐ろしい光景……思わず後ろに下がる僕の背中が大きな壁にあたる。

 その感触は柔らかく肉感があり、そして動いていた。


 鼓動する壁……振り返る僕……背中に当った、それを見た僕の心がはじけ飛ぶ。


 恐怖が僕を呼び、身体が引きつり頭がからっぽになり、言葉にならない叫び声を出す。


「うぁああああああああ」


 そこには、この世の醜悪を全て含んだ、血と肉の巨大な生物が存在した。

 しぼんだゴム毬が拉げたような形。

 大きさは十メートル以上あり、その半身は血の海に沈んでいる。


 そして巨大な肉の固まりは、一定の間隔で収縮と拡張を繰り返す。

 その度に、強烈な肉が腐った匂いが周りに広がる。


 恐怖で身体も脳もパニックに襲われた。

 回復が終わっていない僕の身体は痺れ動かない。


「これはなんだ? これは本当に現実なのか?」


 身体が動かず、溺れ始めた僕。

 その周りに、物言わぬ人々が集まりだす。

 その腐った人々の渦に揉まれ、血の海へと沈み込む僕の身体。

 必死で浮かび上がろうとあがく僕、そして浮かび上がる物言わぬ人々。

 その数は増え続け、僕を血の海に引きずり込む。その瞳は黒い穴。


「地獄……ここは地獄だ!」

 溺れた僕の口に、生臭い血の水が入ってくる。強烈な血の味にむせかえる。

「僕は地獄に落ちたんだ……」

 沈み始めた僕は呼吸が出来なかった。

 ドロッとした血を飲み込み続ける。

 血の匂いと鉄の味は体中に染みこんでいく。


 僕は必死に手を伸ばして助けを乞うが、手足をばたつかせて懸命に逃れる僕に、朽ちた人々が集まって覆い被さってくる。

 引きずり込まれる僕は、血の海に沈んでいく途中で声を聞いた。

 僕が探していたその声は、静かだが力強く語りかけてきた。


「大丈夫よ。私がいるわ。さあ、つかまって!」

 僕の手をしっかりと握る小さな白い手。

(ケルブ……?)

 一気に沈み込んだ僕の身体、視界が利かない血の海の中で、握った手の先に少女の姿がうっすらと写る。


 長い黒髪の間から、赤い瞳が僕を見ていた。


「こんな事になってごめんね。あたしはあなたを止める事も出来たのに……でもあなたに逢いたかったの」

 不安は消えた、もう血の中でも息は苦しくない。


「大丈夫、僕が自分で選択した事。君に責任はないよ」

 僕の精一杯の格好つけに、少女の赤い左目が喜びの光を見せた。

 長い髪が少女の顔の半分を隠して右目は見えない。


「あたしはどこかで願っていた。この寂しさ、永遠の孤独から解放される事」

顔を下に向けた少女。その仕草から後悔している事が伝わる。


「君を救い出せなかった……逆に君に助けられている」

「違うの。あたしは助けて欲しかったわけじゃない」

 水中を漂う二人の手は強く結ばれていた。

「終わらせたかった……あたしを解ってくれる人、あなたに傍にいて欲しかったの」

「終わらせる? 君はケルブだろう? ネットの世界を飛び、不老不死で、そして身体も取り戻した……その身体が、君の本当の姿なんだろう?」


「ええ、そうよ。あなたと会った、青い髪の少女はここで造られた偽りの姿」


 血の海の中ではっきりとは見えない少女の姿。

 でも陶器のような白い顔に大きな赤い瞳。

 そして腰の辺りまである長い黒髪。

 その華奢な身体は少女としての美しさを十分に持っていた。


「その姿も十分可愛いよ」

 少女は首を左右に振った。

「あの眼鏡の男、所長は意外にもあたしに身体を返した」

「良かったじゃないか」

「ええ、でもあたしは既に用無しだった。あなたを見つけ、新しいケルブを造り出し、そしてついに眼鏡の男は人間の再生のクスリ、インフィニットを完成させた」


「別に構わない。君が解放されたなら、僕はそれでいい」

「完全に破壊されたあなたを助ける為、あたしはこの忌まわしい場所、血の海に連れてくるしかなかったの」

「それも構わない。こうして僕は元に戻れた。全て君のおかげだ」


 僕は想いを彼女に打ち明ける。


「君に会いに来たんだ。そしてこうして逢えた……これからはずっと一緒に居よう」

僕は少女の小さな手に力を入れて、少女を自分へと引き寄せる。

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