第32話 日常の一片

「一週間のレンタルですね。ありがとうございます」

 僕に必要資料を差し出し、記入を要求する係の男。

「車は小さなタイプで良かったです? 遊びに行くなら大勢乗れるワゴンタイプもありますよ」


 若者は、みんなでワイワイ楽しむものだと思っている、中年のカーレンタルの係の人が続ける。


「いいよね、みんなと一緒に遊びに行くなんて。私もね、若い時は海や山に、仲間と一緒に遊びに行ってね。ホテルに泊まるお金なんか無いから車で寝たりして。今思えば、楽しかったなあ。やっぱり若いっていいね」


 やけに親しげに話しかけてくる。いつもなら空返事と、感情の無い笑いを受かべる僕だったが、今日は係の人の言葉を聞いていた。


「そんなに若い頃は楽しかったですか?」


 僕がレンタルに必要な書類に、住所を書き込みながら質問した。

 係の人は僕の質問に嬉しそうに笑い、二、三度頷いた。


「気の合う仲間と一緒なら、多少の不便は問題無いよね? 今はもう、こんなに歳を取ってしまったから、出来れば設備のいい、温泉つきのホテルに泊りたいけどね」

「年を経ると、仲間より自分の事が大切になるんですか?」

 僕は書類の最後、アパート名を書きながら再び聞いた。


「そうだね、若い頃はもっと純粋だった気がする。何も知らないだけだったかもしれないけどね。その頃は何でも、何とかなると思っていた。その頃バンドもやっていたんだけど、現実の将来の事なんて考えて無くて……」

「はい、出来ました」

 僕は車を借りるために必要な書類を、書き終わり係の人へと渡した。

「あ、はい。あと免許証をコピーさせてください」


 僕がポケットから財布を出して、中から免許証を取り出す。

 免許証を受け取り、僕に背を向けた係の人は話しを続けた。


「若いころは今とは違う時間と、世界に住んでいた。そこでは夢と現実に差が無かったんだ」

 コピーを取り終わり僕に免許証を返し、全ての書類をチェックした係の人。


「手続きは全て完了しました。車を前に回してきますね」

 店から出ようとする係の人、最初見た時の平凡過ぎる中年の姿と違って見えた。

「なんとなく分かります。僕にも夢とリアルが一緒の場所があるから」

 僕の言葉に立ち止まった係の人。


「……それ、無くしちゃ駄目だよ。大切な場所と人は二度と現れないから」


 係の人は二分ほどで、駐車場の奥にあった小型の車を店の前に回した。

 鍵を受け取った僕は、さっきの言葉「大切な場所と人」が気になっていた。


「ねえ。おじさんにも、大事な場所や人がいたの?」


 僕の問いに答えようとした時、店の電話が鳴った。

 急いで店の中に戻った係の人は、電話で話ながら頭を下げ続けている。

 その姿を僕は駐車場から窓越しに見ていた。

 電話が終わって係の人は戻ってきた。


「いや~クレームの電話だったよ。お客さんの単純ミスなんだけど、私がそれを指摘したら、本社に直接クレームの電話をされてね。上司から一方的に怒られたよ……まったく下っ端には選択する自由なんて無いね。それで、さっき何か聞いていたっけ?」


 僕は鍵を受け取りながら答えた。

「いえ、何にも言ってません……それじゃ」

 車に乗りシートを自分に合わせて、エンジンをかけて窓を開けた。

「あの……人生に後悔してませんか?」

 一瞬、動きか止まった係の人は、愛想笑いを浮かべた。

「うーーん、そうだね、まあまあ、満足してるよ……お気をつけて」

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