第3話 いつもの夕方
……バイトへ新しいスマートフォンを持って行く。
音楽データはサブスクのサイトから準備完了。
いつもと同じ方向、駅へと歩き始める。耳には愛用のヘッドホン。
昨夜のバージョンアップで、深紅のスマートフォンのOSである、ケルブのバージョンは1.1になっていた。
「何が変わったのかな……まあ、初期バージョンだから、バグの修正か」
ケルブのメニューに、覚えのないAP(アプリ)のアイコンが追加されていた。
「拡張現実の彼女? なんだこれ……昨夜のバージョンアップで追加されたみたいだな」
白い少女の影が描かれたアイコンに触れて、APの起動を試みる。
”あなたは条件を満たしていないので起動出来ません”
「おかしなメッセージだな。何か購入しないといけないのかな、それにしても”あなたは条件を満たしていない”って、まるで僕に問題がありそうな言い方だ」
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スマートフォンを取りだし、心を落ち着かせる曲を選ぼうとした。
その時、拡張現実の彼女のアイコンが気になった。
「僕が今思っている、心が先の愛情なんて存在しない。あるとしたら、こんな、造られたAPの二次元の世界のもの」
何気なくアイコンに触れると、”拡張現実の彼女”が起動する。
画面には、見慣れた車内が写っていた。
APの名前から、今、流行のAR(Augmented Reality)拡張現実の技術を利用したソフトのようだ。
カメラに写ったライブシーンと、二次元の画像や音をコンピューターで合成して表示する技術。ある意味珍しくない、最近多く見かける種類のAPでもある。
「このAPは現実の画像と、何のオブジェクトを合成して表示するのだろう」
画面に微かに何かが写り始めた……白い影。
「あ、これはちょっとまずいな……」
ミニスカートの女の子が、こちらを見た気がした。
車内でカメラを起動すると、痴漢行為と間違えられそうだ。
終了ボタンを押して、APを終了させる。
「しょうがない。帰ってから起動させてみよう」
APの説明にはこう書かれていた。
……本APは”純愛”を求める方、専用のソフトです。それ以外の方は使用しないで下さい。純愛以外の感情が高い場合、起動できない、誤動作する事があります。
「……おかしな説明文だな」
列車がポイントで大きく揺れた。僕はは大きなヘッドホンで耳を覆い、この世から意識の遮断を自分から行う。
ほぼ同じタイミングで入ってきた、ケルブの契約の確認メール。
”この度はケルブご契約ありがとうございます。今後もユーザーの要望を叶える為にバージョンアップを行って参ります。今回1.1では、あなたにも見えるように改善されています”
「見える?……さっき、うっすらと写りかけた……あれかな」
”ケルブは無償です あなたも無償でお応え下さい”
「ふーん無償ならいいか。バージョンアップの情報が、受けとれるのは悪くはない」
列車の扉が開いて、人々が入ってきた、慌てて入り口へ進む。かき分けた人の波の中で不平が漏れたが、大きなヘッドホンは、僕と世界を遮断していた。
ゲームの事を考えている時は楽しくて、すぐに時間が経つのに、リアルは何故こんなにも面倒で憂鬱なのだろう。
「いっそ、ネットの中で生きていければいいのに」
肉体を無くしネットの世界にダイブする、まるでアニメか漫画の世界。
でもそんな遠くない将来、人間の魂が解析され、データとして生きていくかもしれない。
「そうなったら、バイトもしないでいいのに」
ただ、数年前に見た映画で、人間にはストレスが必要で、未来に造られた仮想空間は、結局、今の世界と寸分違わず、みんな働いていたっけ。
「はぁあ、結局、バイトは辞められそうにないなあ」
空想の後にため息をついた僕。
着替えを済ませて、バイトへ行くために玄関へ向かう。
ネットの世界で生きていける分けなどない。単なる現実逃避。
それは分かっている。でもそれを願う心はいつも僕にあった。
誰にも干渉されず、僕を理解してくれる人だけと暮らせる場所を心から望んでいた。
「今日も無意味に怒られそう……あ~嫌だ」
少しずつ心が重くなってきた。
でもこの生活を続ける為には、バイトは続ける必要がある。
「毎日店長から受けるストレスが、血の味のする夢の原因かも」
バイトへ出かける前に、スマホをタップしてスリープ状態を解除する。
ゲームのフレンドから連絡、今日のギルドの集合時間を確認する為だ。
メールが届いていた。差出人の名前はアスタルト、ゲームで知り合ったフレンド。
当然、アスタルトは、本名ではなくゲーム中のキャラ名。
僕が毎晩長い時間を過す、ネットゲームの種類はMMORPG。
マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム。
多人数同時参加型オンラインゲーム。
ゲームの中では、アスタルトは前衛のジョブ、モンクのプレイヤー。
アスタルトの本名? 知らない。どこに住んでいるか?知らない。
僕は知らない、リアルの彼の事を何一つ知らない。
でも、アスタルトは僕の一番のフレンドだった。
リアルでは話せない事も、気軽に話す事が出来る仲間だった。
リアルの世界では、五分と人と話さない僕が、ネットの中では毎日、何時間も他人と一緒に行動する。例えそれがゲームの世界でも、苦楽を共にする打ち解けた大切な仲間。
「あ!もうバイトまで時間がない」
慌ててスマホをポケットにしまい込んで玄関へと移動する。
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