139話:松平との政略結婚①

 尾張国清洲城。1555年冬の頃。

 暫く時は穏やかに流れていたがこの時ばかりは少し違った。織田家は信長の代としては初めてのとある一大イベントを迎えていた。政略結婚だ。


 小さいレベルの政略結婚であれば行われていないこともない。いつの頃だったか、織田信成と信秀の娘を結婚させるという話があってそれは執り行われた。それは信秀の代の時から信光との合意があっての上の話だが。


 三河国西部の多くを領する一大勢力、松平氏の総まとめ……松平忠康と信秀の娘の結婚。規模は大きく、周辺勢力にも両勢力の繋がりの強さを改めて見せつけるものとなる。言うまでもなく、重要なものだ。


 織田と松平の関係はそれなりに昔からある。しかしその期間の殆どを敵対して過ごした。忠康の祖父、清康は尾張国へ侵攻した際に死んでいるし、信秀が三河国に進軍したことも幾度かある。

 

 しかし信長の印象に深く残っているのは1549年8月、松平と織田が軍事同盟を結んだ際の出来事だろう。戦国時代に来てほぼ初めて成し遂げたことでもあった。

 

 松平忠康がのちの徳川家康である、ということは拓海から聞いている。しかし信長自身は忠康を見ていると親戚の子供を見ているような、成長していく逞しさに感慨を覚えるような気持ちになる。

 

 

 「嫌!」

 幼い女児の声だ。彼女の声がもう数日間、清洲城内に響き渡っている。彼女はお犬。後年お犬の方と呼ばれる人で、信秀の娘だ。つまり今回交わされる政略結婚は彼女が忠康の正室となる。松平の女性も織田の男に嫁ぐが、今はそこはどうでもいい。


 お犬はゴネていた。『結婚なんてしたくない』と。歳は11。この時代は数え年で年齢を重ねるので現代では10歳。小学四年生。色々と難しい時期だ。

 「さあ、長さを測りますから。じっとしてください」

 「ほら!」


 お犬に侍女が数人、諭すようにして話しかける。その中には一際小さい体の者もいる。お犬の妹、おいちだ。お市の方と言えばお犬の方よりは知名度が高い女性ではないだろうか。

 「嫌! 嫌! 結婚なんてしたくもない!」


 織田家がここ数日抱えている問題は彼女をどう結婚させるかである。松平側とはもう既に協議を済ませておりお犬が嫁ぐことは決定だ。忠康の年齢は13。歳の差もそれほど無く適格であると思えた。お犬の妹、たとえばお市となれば歳下すぎるし。姉となればもう既に嫁いでいる者が多い。どちらにしたってお犬が嫁ぐしかない。


 「何故そんなに結婚を拒むのですか?」

 「誰とも知らない男のところに行きたくない! 兄様のいいように動かされているようで嫌! それに三河は田舎だし、そんな所に――」

 まあこの歳だとこれくらいの反応が普通なんだろう。いや、尾張も田舎だけどね。


 「嫁いだらいいのに」

 「だったらあなたが嫁ぎなさいよ!」

 お市が飄々ひょうひょうとした態度でお犬と話す。「嫁いで嫌になったら逃げ帰ったらいい」なんて、中々物騒なことを言っているが。

 「それに私はまだ歳的に嫁げないって兄様が言ってたし。私より歳上で、そんなに皆困らせて、そっちの方が嫌じゃないの?」


 その会話を信長は部屋の端で見ていた。横には信勝が居る。

 「女子ってこの歳からこんな感じなの? 怖」

 「こんなものじゃないですか? 兄上は弟、妹たちと関わらないから」

 「それを言われると弱い……」

 

 信長は兄の信広、弟の信勝以外の兄弟とあまり関わらない。兄は信広しかいないので正確には弟妹ていまいであろうか。信秀は多くの子供を遺してこの世を去った。信長を含めて合計27人、うち男12人と女15人。子沢山である。


 弟の中には城を任されていたり、妹の中には嫁いでいる者もいる。信長も正直顔を知らない人間がそれなりの数いる。

 「一旦腹据えて会ってみたらどうですか? 例えば……同じ腹の弟の秀孝ひでたかとか私のすぐ下の弟の信包のぶかねとか」

 ……顔が出てこない。


 「まあ、小狡い言い方をすると兄弟も姉妹も子も財産ですよ。まあ自分の子だったらそんな事したくありませんけど」

 「ああ、そう言えばそうだったな」

 この横にいる信勝とかいう男、先日長男が生まれたのだ。幼名を坊丸ぼうまるという。

 「子供……ねえ……」


 やることはやっているのでその内に出来るだろう。自分が父親、というのは中々考えがたい事だ。

 「……あ」

 そこに丁度、と言えば少し違う気がするが一人、やって来るのが見える。帰蝶だ。

 「帰蝶様……」

 侍女が申し訳なさそうな顔で彼女の顔を見る。帰蝶はにこりと微笑んでお犬と呼びかけた。

 「少し話しましょう。結婚、したくないんでしょう?」

 「……はい」


 小学校の先生に怒られることを分かって先生の背中に着いていく時の気持ちを思い出した。帰蝶はあまり怒る人間では無いから叱責という訳ではないだろうが……

 「じゃあ会ってみようかな、弟」

 「そうですよ、同じ父親から産まれた人間なんですから」

 そう言って脳裏に浮かんだのは戦国時代での織田信長の母親だ。彼女とも会ってないな。最後に会ったのは信秀が死んだ時だったか、いや、いつだ?


 「母上は元気か」

 「ああ、末森すえもりで暮らしていますよ。父上が死ぬ前から変わりません」


 15分、20分、その位だろうか。帰蝶との話を終えて戻ってきたお犬の表情は少し不満げだったが言った。「嫁ぎます」。信長には帰蝶がどんな魔法を使ったのか分からなかったが、ともかく問題は解決された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る