132話:⑩ 食い違い

 牧野・西郷は三河戦線の重要勢力。彼らは今川の中核に置かれていた。すなわち、何が起こるか。察することは容易だろう。今川本陣近くまで迫った勝家は驚きの声を上げた。

 「すっかり……瓦解といったところか」

 今川の雑兵の中には未だ情報を知らない者も数多く居るからか、こちらに向かってくる。しかし統率は全く取れておらず勝家たちの手によって次々に討たれていく。どうやら、牧野の寝返りは思った以上の効果を見せたようだ。


「どけ!散れ!」

 信盛は戦場を駆け抜けていく兵たちの叫びよりもさらに大きく、力強く叫びながら敵兵を倒していく。この戦は彼にとって、一族の弔い合戦にもなっていた。彼を思って泣いた目はまだ赤さを失っていないが刀を握る手はいつもより強かった。

「今川義元はどこだ! この手で討ってやるぞ!」

 そしたらどうなるか。織田の士気は上がっていく一方だった。



「私が殿しんがりを務めます、撤退を」

「くそ!」

 ブン、と義元の苛立ちを精一杯こめた拳が空を切る。しかしそんなことをしても劣勢の状況は変わるはずもない。今、この瞬間も今川の兵は次々と討ち取られている。それを考えると『退く』と言う選択肢以外なかった。選択肢を奪われていた。


「武田に後詰を頼め……いや、待て。武田も瓦解しているのでは?」

 今川の少し後方に控えている武田軍。彼らは甲斐国や信濃国から持ってきた兵たちを主には使っていたが、三河の土地勘は全くないために案内を任せていた。三河の国衆たちに。西郷や牧野と直接のつながりはないが、何らかの方法で意思疎通をしていても不思議には思わない。


 国衆たちがどのような行動を取るのかは分からないが、少なくとも武田の戦力は削がれる。

「早く」

 殿を務めると名乗り出てきた井伊直盛らを筆頭とする家臣たちに、前線への配備を命じた義元はそのまま駿河に逃げ帰る準備をした。武田も、もはや頼れない状況になっていた。いや頼ったとしても武田に三河の国衆を再び懐柔するまでの義理はない。こうやって戦は終わったのだ。今川の屈辱的敗北という結果を残して。

 

 

 「撤退していくぞ!」

 最初にそう言ったのは偶然そばに居た恒興だった。「まさか」と思って向こうを見渡すと、確かに今川の旗が慌ただしく退いていくのが見える。

「藤吉郎、どう思う?」

「勝利です!」


 藤吉郎が出した歓喜の声と同時にあちこちで銅羅が鳴り響いた。織田軍も撤退か。もう『向かってくる敵以外は一旦全て無視して帰還してこい』ということなのだろう。確かにこれで今川は三河での求心力を大いに失う。大きな転機にはなっただろう。


 うん。良い戦だった。というか、年代でいうとでは義元が死ぬのは数年先だ。うん。今川の重臣も多く死んだ。代わりにこっちの家臣も多く死んだが、その後の影響を考えると与えたダメージは比ではない。


『勝介も死んだけどな』


 

 上手くやった方ではなかろうか。この快晴、の桶狭間の戦いのように雨の中飛び込むギャンブル的な大勝負にならなかったことは、ある意味良い。これから起こることなんて不確定なんだからな。


『それを一発勝負で決めてみせた織田信長の天才性』


 

 では桶狭間の戦いを終えた信長は大局的には、斎藤氏攻略に乗り出す。の信長は長良川の戦いで父親を討ち、信長に敵対した斎藤義龍と戦うことになる。

 この戦を見てみろ、どうだ。敵どころの話じゃない。道三は武田を止めたし義龍は尾張を守ってくれた。と比べて遥かに良い状況じゃないか。


『そんなに条件が揃っているのに何もできなかったのか』


 ……いくら言い訳を並べ立てても仕方ないことは分かっている。俺、いや俺たちはこんなにも抜群のコンディションを揃えたにも関わらずの信長の足元にも及ばない。それが示されただけだ。


 織田信長は間違いなく、中世日本最後の天才だろう。彼の業績はそのままに豊臣政権、徳川幕府に直結する。虐殺、乱暴的な性格。後年に指摘された欠点も多くの分析にかけられ、正確な織田信長像というのも変わり始めている。その天才が日本中に示した最初の功績、それが桶狭間の戦いの存在意義である……というのは言い過ぎではないはずだ。


 それに対して自分のことを考えると自身の何もしなさにうんざりする。だとすると、取るべき道は一つと考えられる。ほんの少しの逡巡の後に俺は言い放った。


 

 

 「今川義元を討つ!」

 俺はそう叫んでいた。目を丸くさせた藤吉郎と恒興にも構わずに俺は飛び出した。藤吉郎と、俺が率いていた兵たちがそれに続いた。


 勇気を出した。そう思った。

「拓海!」

 それに立ちはだかったのだ。が。立派な鎧を着て戦場を駆け回っていた信長だ。

「お前、今何しようとした?」

「見れば分かるだろ」

「勝手な行動は慎んでくれ、この戦には勝った」


 俺は愕然とした。この目の前の現代人は何を言っているのだろうとすら思った。ただ前を向いている俺に向かい合っている信長は俺に馬から降りるように促すと、目線が同じくらいになる。

「義元を討つ」

「そう言うと思った。拓海の悪いところだ。無理、不可能。今回義元を討つことはできない」

「やれる!」

「やれない!」

 思わず頭に血が上った。コイツのぶっきらぼうな言い方にも少しイラっときたし、この押し問答をしているこの瞬間にも義元を討てる確率は下がっていく。彼は領内に引きこもってしまう。


「俺たちは今川義元を討たないといけないんだよ、だから信長はどいてくれ」

「『で織田信長がやったように』か?」

「ああ」

「ちょっと振り向いみろ」

「は?」と思いながらも面倒臭いので大人しく後ろを見てみる。確かに凄惨な戦場だ。矢に刺さった者、刀で切られた者、槍傷を負った者、鉄砲に当たった者。種類は様々だが一様に赤い血が広がっている。さらに負傷兵も山のようにいるのだろう。


「でかい戦だったからな」

「それを見てなお、義元を討ちに行くのか?」

 信長の声は明らかに苛立ちが含まれていた。彼の言いたいことは分かる。これ以上犠牲を増やすな、ということだろう。しかしそんな事考えている場合ではない。それも分かってるはずだ。

 「犠牲は残念だけど戦だからしょうがない所はある。それよりも義元を討つ方が優先だ」

 「奥に引っ込んでるだろ。討てる確率は限りなくゼロだ」

 「0.1でも確率があるなら突っ込むべきだ!」

 

 その瞬間信長が俺の胸ぐらを掴んできた。突然のことでビックリしたから、俺もとっさには反応出来ずにそのまま地面に押し倒される。傍で様子見していた恒興が流石に駆け寄ってきて信長を引き剥がした。

 「拓海! お前やっぱりこの時代をシミュレーションゲー厶かなんかだと思ってるだろ! おい!」

 「何を言って……信長様! お止め下さい!……ほら、拓海も。馬鹿なこと言ってないで帰るぞ」

 「はぁ? くそ……」

 恒興にも促されて半分無理矢理になりながらも、本陣へと帰らされた。信長はそこから別の所に何かしに行ったようで暫く会うことは無かった。


 本陣に帰る途中、心配そうに藤吉郎が尋ねてきた。

 「磯貝様、大丈夫ですか?」

 「すまん、藤吉郎。ちょっと方針が食い違っただけだ」

 ちょっと、ね。

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