131話:⑨ 戦線崩壊
考えてみると、この17日は変化の日だった。織田にとって有益な情報がどんどん入ってきた。
まず一つ目は佐治と服部の戦線離脱だ。その知らせが一気に織田・松平を勢いづかせた。
佐治・服部の二勢力は西三河の松平分家たちと同じくらいの脅威であった。外部勢力として挟撃を仕掛けてくる可能性があったからだ。もちろんそれは松平分家や吉良たちも同様だったが、やはり彼らよりは力があるように映っていた。
つまり、それは戦線がこの東三河のみになったことを表す。武田の動きは多少気になるが、ここで決めることができれば問題はない。そういう考えは軍議の中でも上がってきた。
「どうやら、今川の方では『斎藤がこちらに攻めてくる』といった噂もあるようです」
「斎藤は来れないでしょ」
「噂ですよ、噂」
秀貞が、現実的なことを言う信長を窘める。尾張戦線がひと段落したとしても、信長が義龍に頼んだのは『清洲及び尾張の守備』であり、決して戦線加担ではない。更に津島の復旧を最優先にするべきだ。しかしそんなことは義元には分からない。良い兆候に見えた。
「織田様はおられますか」
外からそんな声が聞こえてくる。この声は忠康家臣の忠次だ。
「入ってくれ」
「失礼します。少しお耳を」
そう言って急いでやってきた織田重臣団の中心に割って入りながら、小さく呟いた。
「牧野貞成を中心とした牧野氏がこちらに寝返りました。調略成功です」
その報告にびっくりして、思わず声が出そうになった。調略……そんなことを信長と忠康が話していたことを思い出す。これが二つ目の吉報だった。よく晴れた春の日、雨は一粒も降らなそうな晴天の元、戦の趨勢が決まろうとしていた。
「向こうはなんと?」
「話し合ったのですが、その内容を」
忠次は緊張感を孕んだ口調で話を続けていく。
「2日後、19日の午前に織田・松平が全兵を用いて今川本隊に襲いかかります。その時に牧野も挙兵して、今川を内部から荒らす……と」
「大丈夫か?それ」
その話を聞いて一番最初に思ったことは『騙されてはないのか』と言うことだった。かなり一世一代の作戦になると思われたからだ。松平に内通した、と言うことにして牧野が状況を逆手に取ってくる可能性も考えられた。
「そんなこと言っても、頼る他はないと存じます」
「他戦線が崩壊した今、対局的には織田家有利。ここで押さねば勝てる戦も勝てまい」
秀貞と勝家が同時に、似たようなことを言った。まあ戦なんてやっている時点で博打物なんだから、と一応納得する。信長はこの作戦に乗り気なようだった。
「よし、2日後の午前。承った」
上機嫌の彼はそのまま帰っていった。牧野のことを鵜呑みにすれば、この戦の勝ち筋が一気にひらけた気がした。そして義元を討ち果たすことも。
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「本気で言っておるなら軽蔑するぞ、貞成」
そう呆れ顔で言い捨てたのは西郷正勝。牧野と同じく今川に与する三河国衆だ。彼の義元に対する忠義はそこそこに高い。少なくとも貞成よりは。
西郷氏と牧野氏は同じ場所に陣を構えている。協同して挙兵できればかなり有利にことを進められると考えた。貞成は松平に離反する気満々だった。
「『今川が自分たちをこき使う』とは言うが。そのようなことを考えているから上之郷も落とされる。そんなことを繰り返しているからお前の義元様からの評価も下がる。そう言うことではないのか?」
そんなことを垂れて正勝は貞成を引き戻しているようだった。
「過去のことなど良い。貴様が今川からどんな風に言いくるめられているかは知らんが、状況を見ろ」
東三河での兵数は今川の方が若干多い。それは武田や三河国衆の兵があってこそだ。そして今川が優勢なのはこれだけである。有利と言っても戦局がひっくり返るような兵数差ではない。むしろ織田・松平は兵数が少ないのにこんなにも長期間タメを張っている。
各戦線は役割をもはや果たせていない。
西三河は好景を打ち取ったくらい。佐治は落ちたし、津島はその落城と共に攻勢をやめた。唯一持っているのはひたすら睨み合いを続けている武田義信と道三のところくらいだ。しかし、そこが東三河に来るような展開はまず考えられない。つまり。
「ここで我々が離反すれば松平は間違いなく勝つ」
「しかし今度は我々が今川相手の防波堤になる」
「今と変わらんではないか」
明快な物言いに正勝も黙った。
「……お前の言うことは信用ならんが、説得力はある。少し考えさせてくれ」
「いい返事を待っているぞ」
貞成は期待を含んだ声色でそう言った。
翌、18日はすぐに過ぎ去っていった。戦が始まって唯一、戦闘が起こらなかった日でもあった。しかしそれに反して今川本陣では議論が活発に行われている。
「撤退するべきです」
そう言ったのは岡部元信。小原鎮実を含めて幾人かの家臣もその方針に頷いた。
「少し流れが悪いのは間違いありません。立て直せば良いです」
「……立て直す?」
義元は明らかに苛立っていた。戦局の上手くいかなさに。
「佐治は水野か織田の軍門に降るだろうな。服部はそのまま寺に引き篭もるか?」
そうぶっきらぼうに言ってのけるが、氏真がそれに反論する。
「武田もいます。遠山も未だ武田の軍門。北条もいます」
北条は結局出陣してくると言う話が流れてくることはなかった。事情は分かるが義元からすると不快極まりない。
「失敗したな」
自嘲げに義元は乾いた声でつぶやいた。東海地方の歯車が一つ、狂った瞬間だった。
「明日の攻勢で終わりにしよう。皆、今日はよく寝て備えるように」
ありきたりなことを言って義元は一人になるため、違う場所に移動した。
19日。織田の先陣が今川に全力で向かってきたところで一日は始まった。
「鉄砲! 鉄砲用意!」
もう残弾数もかなり少なくなった鉄砲隊が信勝の指示で全てを吐き出していく。何個かに一個は敵兵に当たり、その兵はそのまま倒れ込んでいく。
「鉄砲、下がれ!」
それと入れ替わりで先陣が戦場を駆け抜けていった。今川兵から、反撃のチャンスとして弓矢が次々と放たれるが、そんなものはお構いなしに進んでいく。運が悪ければ当たる。しかしその状況に物怖じせずに向かってくる様子は、恐怖でしかないだろう。
「続け! 続け!」
先陣の中で一番活躍したのは飯尾親子だった。次々と敵の首を落としていく。彼らを先頭に織田の一軍は今川を襲っていた。
なぜ今川の方が兵数が多いのに全く反撃できていないのか?
「小原殿!」
「牧野殿、ちょうど良いところに。織田が一気に攻めてきた。今すぐ応援を頼む」
「ええ」
貞成が従者を引き連れて前線に駆けつけてきた。鎮実のすぐそばには正勝もいて出陣の準備を早急に進めているようだった。
「では、かかろう」
すっと、据わった目で鎮実を睨んだ。その瞬間、従者が彼を襲った。
「な!?」
かなり動揺していたがやはり武士。即座に刀を抜いて戦おうとした。目の前には貞成と五人の従者。彼は急いできたのだろう。しかし他の者が兵を引き連れてくるはずだ。五対一、かなり分は悪いがこなせないものではない。
ここまで、一瞬で状況を分析した後にふと思った。そう言えば後ろには――
「ぐ……ぐぁ……ぁ」
大きく背中に刀傷が刻まれていた。やったのは言うまでもない、正勝だった。
「なぜ」
そんな疑問にも正勝は何も答えずに即座に彼の首を切り落とした。
「こちらの方が幾らか分が良い。このまま荒らすぞ」
「承知」
貞成はニヤリと笑った。
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