120話:松平広忠

 暑い夏の日、7月15日。それは突然の出来事だった。

 「忠康様! 忠康様! 父上が! お倒れに!」

 真っ先に忠康の元に駆けつけて事態を告げたのは、たまたま忠康の近くにいた正親だった。忠康の血の気が一気に引いた。ここらの間、広忠は寝て起きてを繰り返すだけで政務も滞っているように見えていたから、衝撃度は正直あまりない。忠康も心の底では何となく察していた。


 「父上! 父上!」

 広忠の年齢は二十九歳。家臣の中では『若いのに』という声を上げる者もいたが、それよりも心配なのはこの時期に倒れたということ。あまりにもタイミングが悪すぎる。


 広忠の寝室に駆け込んだ忠康。部屋の中には既に定吉、忠尚、忠吉、忠員……有力家臣たちが揃い踏みして広忠を心配そうな顔で見ていた。彼らも、忠康と同じクチで報告を受けて来たようだった。広忠は眠っていた。

 「忠康様」

 「今は眠っておられます。ただ、正直……」

 定吉が目を伏せるのを見て事態を察した。

 「随分前から苦しそうにしておられましたが……もうこれ以上は限界、と言わざるを得ません」


 その言葉で、もはや広忠は復帰不能であることを示唆していた。恐らく医者はもう呼んで、そんな診断を下されたんだろう。また一段と部屋の空気が重くなったのを感じた。

 「恐らく主だった政務は近くの城の者たちが対応するでしょうが、日常の補佐は私たちが行います」

 彼らは明言してこなかったが、恐らくそういう事だろう。

 「この忠康が、安祥松平の家督を継げということだな」

 「政を覚えていただきます」

 痩せぎすになって手を細くした広忠の上で、そんなやり取りが行われた。その日の内に松平の当主は松平忠康とされた。周辺勢力の混乱を招くだろう、ということで一部の者以外には伏せられた家督相続となった。


 

 彼の人生はまさに波乱と言っていい。大永六1526年、松平清康まつだいらきよやすの元で生を受けた幼名千松丸、松平広忠は十歳の時に父を亡くした。俗に言う守山崩れ、尾張国守山もりやま城で起きた事件である。

 当時の桜井城主、松平信定まつだいらのぶさだとの対立関係が続く中で清康は守山で定吉の子に殺された。

 

 これをきっかけに信定が政治対立の優位を獲得し、岡崎城を占拠した。広忠は当然その地を逐われ、定吉の縁で伊勢国三重県まで逃げた。


 その後になって漸く岡崎城を取り戻せたと思ったら、今度は信秀との対立が表層化した。戦に追われ、城を取られ取り返すような戦いが相次いだ。信秀から同盟をもちかけられた時には応じ、今度は義元との戦いが始まった。


 人を変えて、ひたすら戦に追われた人生であった。


 「松平広忠様、臨終となります」

 天文二十三1554年八月二十二日死去。享年二十九。死因は病死。若く、家臣に見守られながら死んだ。最期は衰弱し、何か手を動かそうとしていたが震えていた腕がすとん、と落ちた。


 「広忠様……広忠様……!」

 古株の家臣たちには泣いている者も多くいた。特に忠吉なんかはボロボロと涙を流して突っ伏していた。静かに手を合わせた数正はふと忠康の様子が気になって、横を向いた。

 「……」

 立って父の遺体を見下ろす目からは涙が一筋こぼれていた。しかし、泣き声をあげることもせず涙も拭かずに黙って外に出ていった。


 「お待ちください」

 もう少しいたらどうだ、と思い引き止めた。

 「数正か」

 「もう少しお父上の所に居られてはどうでしょうか? いずれ広忠様の体は骨となります。最後、お顔を見ては」

 そんな提案に、忠康は首を横に振った。


 「私も今川と戦っていることは知っている! だから……父上の時代を終えて、私の……私の政を始めたい!」

 責任感のある言動に、数正は何となく広忠の教育の成功を悟った。忠康を元服させたのは後継とするためであったが、もう彼は後継ではない。松平になった。

 「では、勉強をしましょう。戦だけでなく、政治や民のこと、様々な人々のことを学ばなければなりません」


 数正は岡崎城の日差しが差し込んだ誰もいない廊下で、忠康に跪いた。忠康は元服もしていて当主としての自覚を持っている。彼に敬意の心を持たない方が失礼だ。

 「我、石川数正を含めた広忠様家臣はたった今から貴方様の家臣になります。義元を退けてみせましょう」

 

 広忠の訃報は忠康の代替わりのニュースと共に織田家を含めた同盟勢力にのみ流布された。世間への公表は現在の動乱が終わってからだと思っていた。その2週間後には何故か晴信にも知られていたが。

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