118話:表層化

 今川、武田、北条と各勢力が上之郷城制圧をマイナスに捉えた中、ひとつ。

 「上之郷城が落とされた?」

 松平は今川なんかに負けないというプロパガンダを熱心に込めて、その報告は隣国尾張国にも届けられた。その報を喜んで受け止めたのも勿論織田家の面々だった。

 「上之郷城は史実だと落とされるの、桶狭間の後なんだけどな……」

 竹千代が松平忠康という名で元服を遂げたことを知った時もこの拓海という男は何やらブツブツと唱えていたが、今回もまたそれは一層のことであった。


 そんな拓海の姿を見ながら一息置いて、信長は議論を進める。

 「今川戦においての俺たちの立場は勿論親松平になってくる。そろそろ戦いも現実味を帯びてきたし、考えないといけない時が来たのかもな」

 信勝、信広、信盛、勝介、恒興、勝家、秀貞、拓海、1号……重臣に基本的な親族、親衛隊を加えて、本日軍議に参列したのはこれらのメンバーだった。もう拓海にすれば5、6年間の付き合いになる。よく親しんだ仲間と言うべきだろう。


 「まずは斎藤でしょうな。道三……失礼、義龍殿の援軍がなければ今川を抑えきれまい」

 勝介が初めにそう発言する。彼が言ったのは兵力としての斎藤へ単純に期待している、という訳では無い。確かに今川の兵力は多く、武田・北条の援軍がある可能性も加味すると厳しい状態になる。だが、それよりも大事なのは尾張の兵力を松平にどれだけ援軍できるか、という事である。だから織田家にとって斎藤の援軍というのは今川相手に限って言えば『一緒に敵と戦うもの』だけではなく、『織田が居ない尾張国を任せる者』だ。

 

 「言っていることは分かりますが、斎藤相手に清洲を任せる、というのはあまり賛成できませんな。在番衆もあまり置かないというのでは……」

 「いや、城内には勿論入れないよ。清洲近くに布陣して待機、あたりか。現実的なのは。在番衆も置かないわけじゃない……うん。那古野の信成とかの兵を少し貰おうか」

 信盛の不安そうな声に信長が答える。斎藤相手には信用もある。信長もそんなに不信そうにはしない。


 静まった場を見渡す。他に何か言う者はいなそうだった。

 「反対意見は……よし。じゃあ斎藤にその旨の文を。尾張に向ける兵力は1500もあれば良い、秀貞頼むぞ」

 「ははっ」


 後は鉄砲の挺数の話などを信勝と終わらせ、出陣前の話を締めた。編成については軽く決めたが情勢しだいで変化するので細かくは決めない。そして、どういう作戦を取るのかについて考えていた。

 「不安要素は4つあるな」

 1つ、勿論今川。

 2つ、知多半島の佐治氏。三河国境周辺で水野との交戦が予想される。彼らは水軍も持ってるので上手く活用されたら少し面倒くさいことになる。

 3つ、斯波氏と吉良氏。今はなりを潜めているが権威もあり、義統は尾張の地理にも詳しいはずだ。尾張にまで出張って来させないようにする必要がある。

 4つ、その他の未知勢力。強いて言うなら思い浮かぶのは織田家の土地を"横領"している服部友貞か。横領、と書いたのは織田が知多半島を除く尾張国ほぼ全域を統治している、ということを強調するためだ。外交政策の一環で、近隣地域に彼のことを言う時はそう伝えている。


 「出せる兵は……どのくらいだろ? さすがに全兵力を動員するなんて馬鹿な真似は出来んから精々7000か8000。いやそれでも大層な数だけど」

 史実の信長が桶狭間の戦いで用いた兵数は5000程度である、というふうに言われる。しかし史実の当時の信長は信清と完全な協調関係にあったわけでもなく、尾張を完全に統一できたとは言い難い状態だった。

 それに比べると今の信長の状況はかなり良い、というのが見て取れる。


 「今川単体で見ると……全力で来るなら1万は絶対に出してくる。1万5000が来ても不思議には思わねえ」

 恒興が不快そうに言った。1万5000と言えば織田家が出せそうな最大勢力の倍である。恒興は好戦的ではあるが、やはり今川の戦いとなると身震いするようで恐れが何となく伝わる。

 「少なくとも戦況が入り組むのは間違いない」

 勝家も頭をかいて何やら考え込んでいる様子だ。

 「戦地は東三河の山地になりそうだし、日頃平地で戦ってる俺たちは兵数以上の差があると思っていい」

 信長もいつにも増して神妙な顔つきだ。


 そう言えば当たり前の話ではあるが、拓海の知るこの時代の織田信長は史実で言われているような奇行はしないし、恐らくこの戦の日も逸話であるような『家臣に戦略を黙りこくって決戦の日にいざ飛び出す』みたいな行動はしないのだろう。

 良くも悪くも現代で人格形成期を経て育った現代人だ。

 「やっぱり多少無理な行動はせざるを得ないだろうな。今川が三河で安定した地盤を築くことが出来れば、間違いなく織田は崩れるから」

 拓海は史実を脳裏に思い浮かべて色んなことを考える。勝家、信盛、勝介等……武に優れた武将たちは少し苦笑いしてしまう。


 「多くの犠牲……」

 「まあな、拓海の言ってることは間違いでは無い。多少の……取捨選択は必要だろうけど」

 この戦いの重要度を皆は理解している。戦いの中で武功を立てることは勇ましく、名誉のあることで、その中で死んでも何も後悔はない。そう心の底から思っている。だが大局的に見ると兵を失うことは損害になり、避けるべき事柄だ。討死とは、出来ることを全てやった先にあるもので無闇矢鱈にするものではない。

 

 そして、『死なせたくない』という想いもあるだろう。信長は軍を指揮する立場にある以上、最低限の損害で最大の成果を得たいと思うのは当然のことである。

 「どこを守るか?攻めるか? そういう具体的な場所は松平と協議する必要があると思うけど……俺は損害を最低限に、と言っておける状況で無いと思っている。それに今川は複数手に軍勢を分けるだろうから、こちらも防衛戦で城を死守してできるだけ多くの今川兵を留まらせる……そういう戦い方しかできないと思う。白兵戦はあまりにも分が悪い」


 拓海の考えには基本的に間違ったところはない。何も。しかし一つだけ重要は見落としがある。

 「うーん……納得いかん」

信長が小さく呟いた。

 そんな理論的なことを信長が決断できるか、どうかである。信長は拓海の話を聞いて、自身の決断と気持ちを振るいにかけて、頭を悩ませていた。

 「……ま、まあ! 今決めることでは無いだろう! 村からの足軽、人足の募集についてはどうだろうか?」

 「あ、それについては各村の十五歳以上六十歳以下の健全な男という条件で、徴兵に応じた場合税の一部免除を――」

 そう恒興が話の流れを切っていなかったら、感情論と理論のぶつかり合いになっていたかもしれない。信長は苦い顔を残しながらも話を転換していく。


 拓海の言説は。今川は。これまで表面化してなかった、表面化しても軽く流していた、二人の思考の対立を決定づけた。


 武田晴信が下伊那郡と木曽郡を平定し、川中島以北を除く信濃国をほぼ平定したという知らせが入ったのはその後すぐだ。

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