第16話 アウシュビッツ・ショートケーキ
洗濯していた服が乾いたあと。俺は着替えて、モカさんの家をあとにした。
そして、自分の家へと帰る。ただいまも言わずに、玄関を開ける。
玄関の鍵はかかっていなかった。親父が帰ってきて、開けっ放しにしていたのだろう。見れば居間の電気も点いている。いつも通り、そこで呑んだくれて寝コケてでもいるのだろうか。
だけど、いびきの音は聞こえてこない。こっそり居間を覗いてみれば……そこには誰も、いなかった。
(どういう、ことだ?)
訝しく思いながらも、俺は自分の部屋へと向かう。あの男のことなんて、心底どうでもいいと思った。
不意に。
――本人にゃ言わんが、自慢の親父だ。
モカさんがそう言っていたのを思い出した。羨ましい、と強く思った。俺は親父のことを自慢できない。自慢できるようなところが、親父にはない。
モカさんの父親は、キックボクシングのジムの経営者だ。会長として、そしてトレーナーとして、選手たちと向き合っている父親の背中をモカさんも見てきたに違いない。
岬だって、おっさんのことは誇りに感じているはずだろう。彼女は自分の父親が作るケーキを、両親が切り盛りしているあの店を、とても大切だと思っているから。
だけど俺には、そういうものがまるでない。親父の背中というものを、よく知らない。知っているのは、アルコールで煤けた、小さく痩せた寝姿だけ。
(……やめよう)
思考停止。これ以上はどうせ、考えたところで意味もないのだ。いつだって、堂々巡りの迷宮をさまようことになるのだから。
そう思いながら自室の扉を開いたところで……なぜか部屋の中から、いびきの音が聞こえてきた。
部屋の中は、薄暗い。だから室内の様子は
いびきの正体が分からない。薄気味が悪い。得体の知れない悪寒がせり上がってきて、それを振り払いたくて、俺は部屋の電気を点けようと一歩踏み出した――その時。
足の裏が。
ぐ
にゃりと柔らか
な
な
をかに
踏
ん
だ。
…………。
……………………。
………………………………。
パッと部屋の電気が点く。
俺が踏んでいるもの。
それは。
生身の。
人間。
なぜか、俺の部屋の、床の上で眠りこけている。
酒瓶を抱いた、裸の男の。
「……」
親父の、痩せて小さい、薄っぺらい、背中だった。
衝動。
衝動。
衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。衝動。
目の奥が、真っ赤に染まるほどの衝動。激しく狂おしい破壊的ななにか。俺を乗っ取ってコントロールしようとする黒々しい感情の波動。波濤のごとく襲い掛かってくるのは赤と黒が混然一体となったような、暴力的な負の行動力。
気持ちが悪いと思った。
醜いと思った。
みっともないと思った。
醜悪だと思った。
薄赤くなった視界が明滅とする。不意にその場でよろめいた。首を巡らせて、自分の部屋の壁に視線を走らせる。壁紙のいたるところに刻みつけられた傷跡がある。その傷跡は、かつての俺がナイフで自ら刻み込んだ呪いの言葉の数々だった。
シニタイ。
キエタイ。
シニタイ。
イヤダ。
そんな言葉が、ナイフで壁紙に刻みつけられている。いたるところに、びっしりと。
俺は毎晩、シニタイに囲まれて眠っていたのだ。病的なまでに、執拗なほどに、シニタイという言葉を日々刻みながら今日まで生きてきてしまったのだ。
だけどそれは、親父の口癖でもあったのだ。死にたい、消えたい、もう嫌だ、報われない人生なんてやめてしまいたいと――何度も何度も、夜ごとに親父だって管を巻いていたから。
だけど俺は、岬と出会ってまともになった。出会ってからは、呪いの言葉を刻むこともなくなった。
でも、もしかしたらずっと勘違いしていたのかもしれない。まともになったと、思い込んでいただけかもしれない。
事実として、今の俺は、あまりにも激しい衝動に駆られていて。
頭には完全に、血が上り切っていて。
だから、もしかして。
とっくに、俺は。
狂 い 切 っ て い た ん じ ゃ な い か ?
「……っ」
そう思ったら、気持ちが不意に楽になった。そうだ、きっと狂っている。俺などとうに壊れている。
だったらなにをしてもいいんじゃないか。狂っているなら、壊れているなら、どんなことでもできるんじゃないか?
眠っている親父の腕から、酒瓶を奪い取る。中身はまだ、半分以上残っていた。蓋を開いて、一口だけ呑んでみる。うまくはない。こんなものをなぜ好き好んで飲むのか、まるで見当がつかない。
一升瓶を持ったまま、台所へと俺は向かう。瓶の中身を、流しに捨てていく。瓶がひとつ空になれば、他の酒瓶を持ってきて捨てていく。それを次々、繰り返していく。
うちにはこんなにも大量の酒があったのかと、改めて俺は驚いていた。ビール、日本酒、焼酎にワイン。時にはウイスキーなんかもあったし、安い発泡酒の類まで数えるなら十をも超える酒があった。
でも、酒の違いなど分からない俺は全部捨てていく。アルコール臭が台所に立ち込めて、気持ち悪くなったから、換気扇を途中でつけた。
「はははっ」
途中で、ふと思い立って、笑ってみた。
「はははははっ」
別に面白くもなんともない。だけど、そうやって笑っていれば、陽気な気分にでもなれるんじゃないかと思ったのだ。
そんな風に笑いながら酒を捨てていると、不意に背後に気配を感じた。振り返ってみれば、全裸のままの男が、澱んだ顔つきでそこに立っている。
「な、なな……なにを、しているんだ」
震えた声を男が発した。こちらに向けられた指は、落ち着くなくぶるぶると宙をさまよっている。
「僕のお酒に……なにを、しているんだ!」
「捨ててる。見て分からない?」
「僕の……僕が稼いだお金で買ったお酒なのに!」
親父が掴みかかってきた。俺の手から酒を奪おうと、必死だ。
「僕のお金だ! 僕の酒だ! 君が奪う権利なんて!」
「稼いだ金で……でも、やってんのはくだんねえことだろうが!」
でもその必死さは、意味がない。
今はやめたとはいえ、これでもテニスで体を鍛えてきた身だ。痩せっぽちな親父が、俺に敵う道理もない。
みっともなく床に這いつくばった親父は、「僕の……僕のお酒を……」なんて呻きながら、なんと涙を流し始める。酒なんてもんのためならば、こいつも流せる涙をまだ残していたらしい。
そんなどうしようもない姿を目の当たりにして、全身が氷のように冷たくなっていく感覚を俺は覚えていた。
足元には、這いつくばってこちらを見上げもしない親父。
手には、ウィスキーの角ボトル。しっかりとした重みがあって、やたら頑丈で、中身はまだ半分も残っている。
人を殺せる凶器。
そのことに気づいた時、俺はあまりにも自然に……腕を振りかぶっていた。
ヒュッ――。
直後に響く風切り音。
そして、ドゴッ……という、重いもので重いものを打ち据えた音が、した。
***
岬と出会った日。
それは同時に、『岬の家族と出会った日』でもある。
「ああん? なんだ、そのシケたツラしたクソガキャー」
というのが、岬の父親、本谷
港晴さん……おっさんは、なんというか、不良みたいな面構えのおっさんである。いわゆる、不良中年というやつだ。
切れ長の、鋭い目つき。どっからどう見てもカタギには思えない、乱暴な口調。キツいブリーチをかけた髪は、黄金の輝きを帯びている。
パッと見の印象では、ヴィジュアル系のバンドでボーカルとかギターとかでもやっていそうな、まるで
「チッ……クリスマスだってのに、んな辛気臭ェ顔してオレ様の前に出てくんじゃねえよ。おめでた気分が損なわれんだろうが。そうだな……もっとお前、『おめでたー!』って感じの顔しろよそうしたらぶん殴らねえでおいてやる」
「港晴さん。子ども相手に、ぶん殴るなんて言ったらダメよ?」
「わぁーってるっての美汐。小粋なジョークだ。オレ様は殴るより蹴る派だからな」
「お父さん、また変なこと言ってます……」
「変なこと言ったらダメよ、港晴さん」
「ぬぐっ……だ、だからこれは小粋なジョークであってだな! チッ、小僧! テメェが辛気臭ェ顔面してやがるからオレ様が注意されちまったじゃねえか!」
そんな風に俺に責任を擦り付けて、大人げなくもゴツンと拳を脳天に落とされたのが、俺と港晴さんの出会い。
自分よりも遥かに大きい、男の人の手で頭を殴られたのはこの時が初めてで……それは『痛い』というよりも、『重い』といった印象の方が強く感じられて。
「……えぐ」
その重さにびっくりした俺は、暗い気分も忘れて思わず、その場で泣き出してしまっていた。
「ふ、ふえぇぇぇぇっ」
「なあ!? ちょ、オレ様そんな強く叩いてねえだろうが!? なんで泣き出してんだよ、小僧!?」
「あらあら。ちゃんと謝らないとダメですよ、港晴さん」
「お父さん。暴力はよくないと思います」
「ぬおおおっ、妻と娘よ、オレ様をそんなに冷たい目で見ないでくれー! そして小僧、悪かったオレ様が悪かったからほら、笑え! 店の残りもんだけどこれでも食ってけこのドロボー!」
言いながらおっさんは、俺にあまりものだというマフィンを押し付けてきて。
強引にそれを口の中に入れられて、優しい甘さが口いっぱいに広がって。
「どうですか? おいしいですか?」
「……うまい」
「よかったです。お父さんの作るお菓子は、宇宙で一番おいしいんですよ?」
ちょっと自慢げに笑う岬の顔を見て、俺もようやく頬を緩めることができたのであった。
とにかく、岬の家族は……本谷一家は、『温かい人達』という言葉がぴったりだった。それはただ、優しいとか、思いやりがあるとか、そういうものとは少し違う。
それは言うなれば、どんな時でも心の一番奥深いところに、温かな気持ちを抱いていると言ったらよいだろうか。見知らぬ他人でしかない俺を受け入れることに対して、微塵も躊躇わないのである。
その中でもおっさんは、本谷一家の中でも特に個性の強い人だった。
「おい小僧。お前、透夜とか言ったか」
それは、出会ってからしばらく経ってからのことだ。出し抜けに、おっさんがそんな風に言ってきたことがある。
「ん? ああ、そうだけど……」
「ふんっ、透明な夜と書いて、透夜ね。チッ……もうちっと根性出しやがれ!」
くわっと目を見開いて、おっさんは怒鳴りつけてきたのであった。
本谷家で、夕食を食べている時の出来事である。その場には俺とおっさん以外にも岬と美汐さんがいて、直前までは和やかに会話を交わしていたのだが……突然の展開に、戸惑い以外の反応を俺は返すことができない。
「こ、根性って……いきなり何事だよ。わけ分かんねー」
「あはは……お父さんはいつも大抵こうですから」
「発作みたいなものなのよねえ。まあ、少し賑やかなBGMだと思ってくれたらいいからね?」
「シャアラーーーーーップ!」
岬と美汐さんの突っ込みに、おっさんはシャウト気味にそう放つ。
「ああいや、嘘だ黙るな。むしろ騒げ。喋れ。語れ。主張だ主張だ、もっと存在感を発揮しやがれ。じっと息を潜めて黙り込むなんてなあ、男らしくねえんだよ!」
「……まーた、おっさんの意味不明な持論の展開か」
「意味不明とか言うなっ。いいか小僧、お前なあ、存在感が薄いんだよ! なんだよ透明な夜って! 今にもパッと散りそうな名前しやがって! 名乗るなら、もっと堂々たる名前を名乗ったらどうなんだ、ああん!?」
「いや……この名前つけたの、俺じゃないし」
「馬鹿野郎、そういう理屈はいらねえんだよ。これは魂の問題だ!」
「はあ……」
「魂に、名前をつけろ。いいか小僧、お前の魂は、岡本透夜なんていう、スカした名前してんのか!?」
「……魂の名前ってのがまず分からないんだけど」
「雄々しくそそり立つもんがあるだろう、男には!」
ドンッ、とおっさんが拳でテーブルを叩く。グラスに注がれた水が波打つ。「お食事中に下品よ、港晴さん」と冷静に美汐さんが突っ込みを入れる。
それを無視して、おっさんは続けた。
「しっかたねえなあ! 魂の名前を知らんとは、なんて嘆かわしい男だお前というやつは!」
「あ、透夜くん。もっとお野菜も食べないとダメですよ」
「う……野菜苦手」
「でも、お体にいいですから。少しでいいからちゃんと食べてください」
「そこぉ! オレ様の語りを無視して和やかに話を進めるなあ!」
「あ、お父さん、もう終わりましたか?」
「始まってもいねえよ!?」
始まってすらいなかったのか……長々と語っていたような気がしたけど。
仕方なく黙り込む、俺と岬と美汐さん。こういう時は気持ちよく語らせた方が面倒がないこというのが、この本谷家における暗黙の了解のひとつであった。
全員が聞く姿勢になったのを見て取ると、おっさんは「コホン」と咳払いして俺の方に向き直った。
「いいか小僧。お前の真っ白な魂は、未だになんの名前もついちゃいねえ。存在感の希薄なへなちょこだ。だからそんなテメェに、喜べ、オレ様が名前をくれてやる」
壮絶にいらないんだけど……。
「そうだな……なるべく強そうな名前がいい。あと、デカそうなのも大事だな。できれば、ネオアームストロング・クラスにでっけぇ名前が望ましい」
なんだ、その、ネオアームストロング・クラスって……。
「と、いうわけで、今からお前はアウシュビッツ岡本だ!」
ビシィ! とおっさんが俺を指さして、そう宣言した。
「ふっ……どうだ嬉しいだろう。アウシュビッツ、これほど強そうで勇まし気な名前もそうそうない。ドイツ語は最強。ドイツ語は偉大。ドイツ語に敬服せよ!」
「いや、ドイツ語推しすぎでしょ……」
「るっせえ! いいもんはいいんだよ! 分かったか、アウシュビッツ岡本!」
「その呼ばれ方、すっげえ反応したくないんだけど」
げんなりとして俺が返すと、美汐さんが追従してくる。
「そうよ。アウシュビッツ岡本なんて、芸人さんみたいな響きになっちゃってるじゃない」
「半年ぐらいで消えそうなピン芸人にいそうです」
「む……意外と辛辣な評価だな。なかなかイケるとオレ様のセンスは言っているんだが」
信じがたいセンスをしていやがる。
「岡本、がいけないんじゃないかしら? ほら、苗字の方も横文字でそろえたら……」
「妻よ……お前、もしや天才か!?」
「やーね。当たり前じゃないの」
気づいたら美汐さんまでノリノリで、俺の魂の名前とやらについて考え始めていた!?
「ってなると、だ……苗字としてふさわしい名前だが、岬。なんかお前、こう、いい感じの案はあったりするか?」
「あ、案ですか? 私が考えるんですか?」
「そうだ。せっかくだ、アウシュビッツの真名を、今ここでお前が完成させてみろ。これは父さんからお前への挑戦状でもある」
「そんなこと、いきなり言われても……」
岬までおっさんに取り込まれてしまった!?
うーん、うーん……としばらくの間、岬が必死で考えていた。
それからやがて、何か思いついたのか、おもむろに真っ直ぐに顔を上げる。
「それでは……こういうのは、どうでしょう?」
「聞かせてみろ、娘よ」
ニッ、と不敵な笑みをおっさんが浮かべる。そんなおっさんの目を、岬が真っ直ぐ見据えて言った。
「アウシュビッツ・ショートケーキですっ」
「…………」
「…………」
「…………」
「私、ケーキだったらショートケーキが一番好きです」
そんな風に言って、岬がへにゃりと微笑んで。
「ぷはっ」
「ふふっ」
そしたら今度は、それを見たおっさんと美汐さんが、そろって吹き出した。
「ははっ、そーかそーかよ! 一番好きかあ、それなら仕方ねえなあオイ」
「そうねえ。仕方ないわねえ」
「え? ええ?」
おっさんと美汐さんの反応に戸惑う岬。そんな彼女に、慈しむような、優しい視線をおっさんは向けると、今度は俺に話しかけてきた。
「つーわけで、小僧。お前今日からアウシュビッツ・ショートケーキな! ちなみに拒否権はねぇ!」
「理不尽だ!」
「ふはははっ、世界の真実に早くも触れてしまったようだな小僧! しかし案ずるな、無垢な魂を捨てずに突き進めば、いずれは世界も変えられる!」
「俺は今すぐ、おっさんの方をこそ、変えたいんだが!?」
そんな一幕を繰り広げたことがあったのを、今でも俺は覚えている。
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