第17話 近づかないでください

 どーもこんにちは。アウシュビッツ・ショートケーキです。


 なんだその変な名前、って思ったやつ前に出ろ。いや、そうすると俺が真っ先に前に出ないといけなくなるんだけど、でもまあ、とにかく俺の名前はアウシュビッツ・ショートケーキなんだ。どうやらそれが、魂の名前ってやつみたいなんだ。


 俺だって本当は納得してねえよ。誰だよそんな名前つけやがったやつ。おっさんだよおっさん。あのクソ不良中年みてーな、適当なノリで騒いだりする金髪のやつだよ。ライオンみてーな面構えの、乱暴なくせに優しいパティシエだよ。


 あとはそんな不良中年の娘も加わって、物騒なんだか緩いんだか分からねえ名前をつけてくれやがった。その場のノリとテンションで、適当な名前をあのあったかい家族が俺にくれたんだ。


 そう、だから俺は、アウシュビッツ・ショートケーキ。


 その魂の名前ってやつが、「おいやめろ」って言ってくれたから、俺の手元は正しく狂ってくれたらしい。


 狂うのに、正しいとか、なんだそれって思うけどさ。でも、そう表現するしかねえんだよ。


 思い切り振り下ろした、ウィスキーの角ボトル。それが狙っていたのは、床に倒れ伏す親父の頭。


 だけど今、その角っこが穴を穿ったのは、親父の頭なんかじゃない。ちょうどその真横辺りの畳を、角ボトルは殴りつけていた。


 そう、俺は親父を殴らなかった。俺は親父を殺さなかった。


 殺さないで、どうにか済んだ。そう思った途端、なんだか物凄く安心して、一気に体から力が抜ける。その場に座り込んでしまう。


 ――そう、だから最後の一線で、どうにか俺はまとも・・・を保つことができた。とっくに狂い切っていたような気がしていたけれど、最後の最後で魂の名前が俺を繋ぎとめてくれた。


「ふ……ぅぐ」


 わけも分からず、熱い涙が溢れ出てくる。胸の内から湧き上がってくる感情は、やたらとうるさくてあったかくて、それを取りこぼしたくなくて俺は両腕で自分の肩を抱いた。


「ひ……ぃぃぃ」


 何が起きたかを把握した親父が、床で尻を滑らせながら後ずさる。そんな親父の姿をどこか冷静な視線で俺は見ていた。まあそうだよな。頭を砕かれそうになったら、誰だって同じ反応をする。それでも両腕で、酒瓶を抱え込んでいるのはさすがと言うしかなかったけれど。


 それでも今度は、そんな親父を見てカッとなったりすることはなかった。


 だって俺には、ちゃんと名前があるんだ。


 お袋のつけてくれた名前じゃない。親父のくれた苗字でもない。


 それでも確かに、俺が俺だって主張するための、魂に刻まれた名前がある。ヘンテコで頭おかしくてなんだそれって笑いたくなるような名前だけど、そこには温もりが確かに存在している。


 どうか誰か笑っておくれよ。そんな名前に縋ってる俺は、きっとどこかおかしいんだってさ。


 でもいいんだ。縋りたいんだ。


 だってその名前こそが、俺をどうにかまとも・・・な側に繋ぎとめてくれたものだから。


 そしてその名前をくれた人達に、きっといつの間にか俺は修理されていたんだろう。部品の欠けていた機械に、長い時間をかけてネジやら釘やらボルトやら、きっちり組み込んでくれていたんだろう。


「透夜……き、君は……君は、人間じゃない」


「……」


「悪魔だ。君は……悪魔だ!」


 そんな風に俺を非難しながら、親父が居間から去っていく。


 その親父の背中を見送りながら、俺はでも、しっかりと自分を繋ぎとめる鎖を今は感じていた。


 だからここから始めるんだ。


 押し付けられた絶望じゃない。


 決めつけられたレッテルじゃない。


 本当の自分の人生を生きるために、やらなきゃならないことがある。


 だから、せめてもう少しだけ、まとも・・・ってやつを演じてみようと俺は思う。


 それはもしかすると、岡本透夜にはできないことかもしれないけれど。


 だけど、アウシュビッツ・ショートケーキなら、きっとやれるはずなんだ。


  ***


 翌朝、俺は早く起き出して、台所で朝食を作っていた。


 味噌汁と焼き魚と、あとは米。岬の教えてくれた、簡単に作れてそこそこの味にはちゃんとなってくれるレシピ。料理がそれほど上手くない俺でも、これならちゃんと作れるようにはなった。


 この日は二人分、食事を用意する。いつの間にか昨晩のうちに帰ってきて、居間で眠り込んでいた親父を揺り起こしてみた。


「なあ、親父。飯、作ったから一緒に食おう」


「い、いい……いらない」


 逃げ出すように親父はそそくさと居間から出ていく。まとも・・・ってやつは難しい。


 ……まあ、でも、これも、ゆっくりやっていけばいい。きっと時間をかけることでしか、修復できないものもあるから。


 ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて、俺は食事を平らげる。親父の分にはラップをかけて、『良かったら親父も食ってくれ』とメモだけ添えてテーブルの上に並べておく。


 それから自分の部屋へと戻り、いつも通りに制服に着替えた。壁に刻まれた色んな言葉は、今となってはもう消すこともできないけれど……ちょっとずつでもそれらのものを、ちゃんと過去のことにしていければと思うのだ。


 そして準備を終えた俺は、鞄を持って家を出る。


 学校へと続く坂道を行くと、そこではやっぱり岬が俺を待っていた。


 坂の上に立つ少女。いつもと同じようなシチュエーション。その時と違うのは……彼女と向き合いたいという気持ちを、今の俺が持っているということだ。


 坂の上から、岬が俺の姿に気づく。その視線が真っ直ぐ、俺へと向けられているのを感じる。


 逸らしたくなる気持ちをこらえて、俺はしっかり岬を見上げる。足を前に踏み出して、彼女との距離を詰めていく。


 それはゆっくりと、しかし確実に縮まっていく。十メートルの距離が、五メートルになり、やがて三メートル、二メートル、一メートル……。


「透夜くん」


 目の前までやってきた俺に、岬が静かに声をかけてきた。


「ああ……岬」


 応える俺の声は掠れている。気分は贖罪を願う罪人にも似ていた。実際のところ、俺は彼女に向かって跪きたいぐらいの気持ちを抱いていた。それで彼女にしたことを許されるのなら、それこそ地面を舐めるぐらいのことはできるだろう。


「ああ……岬、ごめんよ。本当に、すまないことを――」


「近づかないでください」


 きっぱり、俺の言葉を遮るようにして岬が告げる。


 一瞬、その言葉が理解できなかった。「……え?」と、俺の頭の中をハテナが巡る。聞き間違いかと思ったけれど、ご丁寧にさらに岬が言葉を重ねてくる。


「もう、嫌です。透夜くんに振り回されるのはうんざりです」


「岬、あの、俺、その……」


「だから近づかないでください」


「だって、でも俺は、誓っ――」


「私に、もう、近づかないでください」

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