第13話 噂と真実

 レオの部屋は、駅前にある冴島ジムの二階にある。


 その部屋はもともと、ジムの会長が事務所として使っていたらしい。会長の厚意で、そこにベッドと最低限の家具を持ち込んで住まわせてもらっているのだという。


 中に入ってみれば、なるほど狭い。一応は二間続きなのだが、入ってすぐの部屋はベッドと机でほとんどいっぱいになってしまうぐらいである。


 とはいえ、整理整頓が行き届いているため、窮屈という印象はなかった。少なくとも、足の踏み場はしっかりと確保されている。


「とりあえず、適当に座れよ。つーか、冷蔵庫使うか?」


「そうさせてもらうわ」


「んじゃ奥の部屋、給湯室になってて冷蔵庫もあるから、それ使ってくれ」


 指示されて給湯室の方を覗いてみれば、なるほど、流し台の向こうにツードアタイプの小さな冷蔵庫がちょこんと置かれていた。


 俺はその中に、スーパーで買ってきた食材をまとめて叩き込んでおいた。


「ほらよ」


 元の部屋に戻ると、床の上であぐらを組んだレオがクッションを投げ渡してくる。


 これに座れということだろう。タイルが剥き出しの床に直接座る気にはなれなかったため、ありがたく使わせてもらうことにした。


「……で。話ってなんだよ」


「大方の予想はお前もついてるだろ?」


「そりゃ、まあ……」


 今のタイミングでレオが俺に話しかけてくるとしたら、岬絡みの話と見てほぼ間違いないだろう。


「オレは回りくどい話は好かん。だから、ざっくりと本題に入らせてもらうが……透夜。お前、岬ちゃんを寂しがらせたりなんぞして、どういうつもりなんだ?」


「……」


「なんか最近のお前、岬ちゃん相手に妙に壁作っとるみたいだけど……それでオレに気ィ利かせたつもりになっとんならやめとけや。反吐が出る」


「反吐が出るとか、そういう言葉、使ったりするのはよくないらしいぞ」


 あえて芯を外した言葉を返すと、レオの視線が鋭さを増した。


 険を含んだ視線が、「ふざけるのはやめろ」と言ってくる。俺はその圧を、肩を竦めることでやり過ごした。


「……つーか。別にお前に気を利かせたとか、そういうんじゃねーよ。ただ、俺が近くにいると、不都合なことも色々あるよなって。そんだけの話」


「岬ちゃんは、お前のことを不都合に思ったりするような、薄情な子じゃないはずだけど?」


「だとしても、だ。知ってるか? あいつこの一週間で友達ができたんだよ。今日は放課後にお茶してくんだってさ、喫茶店で」


「……」


「今ごろ、新しくできた友達と、仲良く茶でもしばいてんじゃねえ? いいことじゃねえか。ずっとろくに学校通えてなくて、俺とお前以外にはちゃんと話せる相手もいなかったけど、これからはきっと少しずつでもクラスに馴染める。居場所を作って、楽しくやれる」


「それは、まあ、そうかもな」


「俺さえいなけりゃ、そうなっていけるんだよ。あんな噂がある以上、俺は邪魔になることしかできない」


 岡本透夜にまつわる噂。


 暴力事件の、加害者。


 そして、その被害者は――。


「俺が、お前に……篠原礼音という男に怪我を負わせ、選手生命を奪ったという噂は、どう足掻いても拭えない」


 目の前にいる、俺の親友。


 誰もが憧れる、みんなのヒーロー。


 かつてのテニス部のエース。


 俺の知る限り、もっとも尊敬できる男。


 篠原礼音。俺の憧れ。俺の元相棒。俺のコンプレックス。


 俺の……大事な女に惚れてる男。


 消し去れない過去が、断ち切れない絆が……噂となって俺の枷となっている――。


  ***


 それは、練習中の事故だった。


 汗で滑って、俺の手から離れたラケットが、レオの顔面を直撃して……まぶたの上に裂傷を負った。意図したものではなかったが、その傷の出血はひどく、地面に滴った血の赤さは生々しかった。


 当時、レオはテニス部のエースだった。そんな彼に怪我を負わせたという俺の罪は決して軽いものではなく、あれはミスではなく故意による攻撃なのではないか? という憶測すら飛んだ。


 当然、部内の空気も穏やかではいられなかった。あからさまな攻撃を受けることこそなかったが、その事故を境にこちらに対する部員たちの態度もよそよそしいものとなってしまった。


 その空気に耐えかねて、俺は事故の起こった日から一週間後に部を抜けた。


 そして――俺がテニス部を辞めた、さらに二週間後。レオも、テニス部から籍を抜いた。


 活躍を嘱望されていたエースが退部したというのは、テニス部にとっても学園の生徒たちにとっても衝撃だった。全国大会出場者、という肩書は、決して軽いものではない。前回の大会では準優勝に輝き、今年こそは優勝を……と期待を一身に背負っていたのだから。


 誰もが納得をしなかった。レオはテニスをやるべきなのだと、部員たちを始めとして学園関係者はこぞって声を上げたし、レオ本人に対して再三に渡る説得を行った。


 だけどレオは、どんな声にも同じ言葉を繰り返し告げた。


「もう、テニスはやらないことに決めたから」


 はっきりとした理由は説明しないまま、だけど彼は毅然とした態度で復帰を固辞し続けた。それを誰もが残念がり……そして、忘れられかけていた一つの憶測が再び首をもたげることになる。


 ――やらないのではなく、やれないのでは?


 ――あの時の怪我が、今でも尾を引いているのでは?


 ――そういえば、篠原礼音に怪我を負わせた男の名前ってなんだっけ?










 ――そうだ、確か、岡本透夜とか言ったっけ。










 以来、噂は爆発的に広がった。


 事故は事件へと形を変え、ラケットではなく俺が直接レオを殴ったことになっていた。


 元々、俺の素行が褒められたものではなかったことも影響したのだろう。小学生の頃には喧嘩をしたことも少なくない。中学に上がってからは、居づらい家から逃れるようにして深夜徘徊も繰り返していた。


 犯罪に手を染めたことはない。部活動も真面目に行っていたつもりだったし、成績だって下がりすぎないように気を付けていた。なによりも、岬の顔を思えば最後の一線だけは踏み越えないようにという自制心がどこかにあった。


 だけどそんなものは、噂の前にはなんの意味もなさなかった。


 乱暴な言葉遣い。粗野な振る舞い。不愛想な態度に、どこか攻撃的な視線。


 誤解がすくすくと成長し、花を咲かせる土壌は無駄に整っていた。自業自得と、そう言ってしまえばそれまでなのだろう。気づけば俺は、レオの選手生命を奪ったことになっていた。


 そして、噂が事実として扱われるようになってしまったら、もうなんの言葉も意味をなさない。俺のことを誰もが避けるようになってしまったし、俺は俺で、どうせ誰も聞きやしないと弁解することを放棄していた。


 味方でいてくれたのは、岬とレオだけだった。


 岬はずっと、余計なことを言わないで、俺の傍にいてくれた。レオはレオで、「噂なんて気にすんな」とカラッとした表情で笑い飛ばしてくれた。


 なんなら、レオがそうやって俺に対する態度を変えなかったから、直接的な攻撃を受けることもなかったし、噂そのものが下火になるのもすぐだったぐらいだ。


 それでも……噂というものを根絶することはできなくて。


 俺を忌避する空気とか、関わったらマズい奴だという雰囲気だけは、今でも残り続けていて。


「どうしてこうも、拗れちゃったんかね」


 と、あぐらを掻くレオはそんな風にボヤいてみせた。


「オレがテニス辞めたのなんて……単純に、ただ、飽きたからだってのにな」


「……あの頃、お前、そんなこと一度も言わなかったじゃねえかよ」


「言えるわけないだろ、そんなもん。オレに期待して、オレに夢見て、オレが活躍することで色んな人が喜んでくれるっていう状況で、『テニス飽きた』とかさ」


「そりゃ、まあ……な」


「ま、オレはオレで、そういうのが嫌んなってたってのはあるんだけどな。最初は透夜と好きでやってたはずのテニスなのに、いつの間にか別のやつとペア組まされて、勝つのが義務になってって。気づいた時には、テニスやってても息苦しいばかりで楽しくなくなって」


「……贅沢な悩みだよ。こっちは、お前に追いつきたくて、追いつけなくて、必死だったってのに」


「かもな。でもまあ、しんどかったんだよ。『お前なら絶対勝てる!』とかって言われた時に、いつでも自信満々な態度を取ってないといけないのは。だから、ま、噂なんてほんと当てになんねーよ。透夜が部活辞めたの見て、その選択肢に気づくことができたってのはぶっちゃけあったけど」


 つーかさー、とレオが腕を組む。


「格闘技をガンガンやってるやつが、マジで怪我で選手生命を奪われたとか、みんな本気で信じたりしちゃうもんかね? オレはそれが一番理解できないんだけど」


「信じたりしちゃうんでしょ。そうなっちゃうから、俺がこんなことになってるわけで」


「で、根も葉もない噂を気にしたりなんかして、岬ちゃんを突き放したりとかしちゃうわけだ」


 図星を突かれて、俺は思わず黙り込む。


「そんでもって、ここぞとばかりに岬ちゃんと交流を持とうと寄ってきたやつらを外側から眺めたりなんかして、『これがあいつのためだった』とか自分を慰めたりもするわけだ?」


「……でも事実だ」


「だっせーなあ」


「俺がこれまで、カッコよかったことがあったかよ」


「それ、自慢げに言うことでもないぞ」


 呆れたような口調でレオが指摘してくる。


「けどまあ……そういうことなら、オレ、もう一回岬ちゃんのこと口説いてみっかなー」


「……好きにしろよ」


「お前、知らないと思うけど、最近の岬ちゃん、ときどきすげえ泣きそうなツラすんだよな。お前のこと見ながら」


「ふーん」


「傷心中の女の子って、落としやすいってよく言うよな?」


「そういう話を、聞いたことは確かにあるな」


「つーことは、チャンスだ」


「……」


「おい、透夜」


「なんとか言えよ」


「ナントカ」


 なんとか言ってみたら、物凄くバカにしたような目をレオが向けてきた。


 その視線が煩わしくて、俺は頭を掻くふりをして顔を背ける。


「お前さあ……」


 レオは物言いたげな様子だったが、それ以上の言葉は口にしない。


「……まあいいや。お前がそうすると決めたなら、あえてオレから言うようなこともねえしな」


「……」


「オレはオレで、勝手にやらせてもらうとするわ。だから透夜も、あとで文句とかつけてくんなよな」


「言うかよ、そんなもん」


「そいつはけっこう。……さて、オレはそろそろ練習だから出るけど、勝手に寛いでてくれ」


 立ち上がりながら、レオが部屋の鍵を投げ渡してくる。


「出る時は鍵掛けてってくれな。鍵は郵便受けに入れといてくれたらいいから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る