第12話 夏休みの宿題理論
遠いあの日の話をしよう。
十二年前のクリスマス。世間一般では、恋人や家族と過ごす日であるらしいその日に……一つの家庭が、崩壊した。
十二月二十四日。俺がまだ五歳だった頃、うちの両親は正式に離婚をすることになった。そして俺は親父に引き取られ、母親は俺のどこか知らない場所へと、たった一人で行くことになった。
さよならの言葉はなかった。ただ、無感情に必要書類への記入を終えた母親は、「もう、しばらく……休みたいわ」とだけ口にして家を去った。
どうすることもできなかった。どうすればいいのかも、分からなかった。ただ、家にいることが苦しくて、闇雲に雪の中へと飛び出していったのは覚えている。あるいは、そうすれば……出て行った母親が戻ってきてくれるかもしれないと、そんな風に感じたのかもしれない。
そうやって歩いて、歩いて、道も分からずさまよい続けたその果てに……小さな公園へと辿り着いていた。雪の降る中、ベンチの上で冷たい体を丸めていたところにやってきたのが、まだ幼かった岬である。
「どうして、一人なんですか?」
そう言いながら、俺の手を引っ張って立ち上がらせた岬。
「今、お母さんと一緒にケーキの材料を買ってきたところだったんです。今日は体調が良くて、外を歩いても大丈夫な日だったんですよ?」
「……」
「みんなでケーキ、作るんです。あなたも良かったら一緒に食べませんか?」
そうやって無垢な笑顔を浮かべながら、俺の手を引っ張って歩き出す岬。そんな彼女のあとに、俺はただついていくことしかできなかった。
そんないきさつで始まった、俺と本谷一家との交流。岬の母親も父親も、俺のことを温かく迎え入れてくれて……だから自然と、俺が本谷家で過ごす時間は年を経るごとに長く、深くなっていった。
小学校に上がっても、俺は頻繁に本谷家に出入りし続けた。当時の岬はかなり重い喘息で、俺と同じ学校に通うことが難しいぐらいに、寝たきりの日々が続いていた。
だから俺は、学校であった出来事なんかをなるべく岬に話すようにしていた。どんな先生がいるのかとか、クラスメイトはどういうやつらなのかとか、喧嘩をして勝ったとか、負けたとか、給食のプリンを賭けて男子全員でじゃんけん大会をやったとか。
「岬ー、今日はすっごいものがあるぞ!」
そんなことを言いながら、勝ち取った余り物のプリンを持っていったこともある。ずっと手で握っていたせいか、「なんか、温いですね……」と微妙な顔つきで岬は食べていたっけか。
俺は決して、話し上手だったわけではない。むしろ口下手で、学校では岬ほどには親しい友達を作ることもできていなかった。
だけど、岬が相手なら、俺はいつだって楽しかったし、安らいだような気持ちにもなれた。ときおり、激しく荒れ狂う衝動的な感情も、岬の前ではおとなしくしてくれていた。
「……岬も、早く学校に来てくれたらいいのにな」
低学年だった、ある日のこと。横になっている岬に、そんなことを言ったのを覚えている。
その日は三人の上級生を相手に喧嘩して、だけど囲まれてボコボコに返り討ちにされた日だった。顔や体にはまだひりひりとする痣が残っていて、痛むたびに悔しくなる。
「岬がいてくれたら……俺、きっと、喧嘩なんてやらねーのにさ。でも、いないと、なんかときどき、わけが分かんなくなるんだ」
「……どうなっちゃうんですか?」
「なんか、カーって熱くなるっていうか……ろくでなしになるっていうか」
「ろくでなし?」
「周りの大人がみんな言うんだ。なんでお前はそんなにろくでなしなんだって。おかしい、まともじゃないって」
「……」
「俺って……俺なんて、ダメなやつなのかなあ……」
つい、膝を抱えてうずくまると、身を起こした岬が小さな手を伸ばしてぽんぽんと頭を撫でてくる。
それから、言うのだ。
「でも、いつも透夜くんは、私に会いに来てくれますよ?」
「岬……」
「ね?」
だから顔を上げてと、笑顔で語りかけてくるから、幼い頃の俺はどうにかやっていくことができた。
思えば、昔からずっと……俺は岬にそうやって守られ続けていた。
***
岬を突き放してから、一週間が過ぎた。
その間俺は、岬には近づかないようにしていたし、レオとも顔を合わせたりしないように気を付けていた。
それでも時々、授業の合間や昼休みなんかには岬の様子をこっそり窺ったりもした。幸い、女子を中心に岬に興味を持ったクラスメイトが何人かいたようで、向こうから話しかけられている姿を何度か目にした。
そのことに、俺はホッとした。この分では、岬が独りぼっちで寂しい思いをすることはなさそうだ。
放課後になれば、俺はすぐに鞄片手に教室を出る。去り際に教室の中から、「ねえねえ、本谷さーん! 帰りお茶していこうよ!」という声が聞こえてきた。
やっぱり、俺が岬から離れたのは間違いではなかったと安心する。岬はちょっとトロいやつで、会話のテンポが少しズレてて、だけどすごくいいやつなんだ。話すきっかけさえあれば、そんなことは誰にだってすぐ分かる。そのきっかけを、俺の存在が奪い続けていただけで……。
きっとこうやっているうちに、岬の日常から、俺の存在は少しずつ薄れていくのだろう。代わりに他の楽しいことや、温かい記憶や、幸せな思い出が、彼女の日常を満たしていく。そして最後には、綺麗さっぱり俺のことなんて忘れてしまえばいい。
それなのに。
それなのに、だ。
「……」
今でも岬は、毎日あの坂の上で、俺のことを待っている。
そして、俺に話しかけようとして、だけどどうしたらいいのかと迷った瞳を向けてくる。
最後にはメッセージアプリで、「おはようございます」とささやかな挨拶を送ってくる。こちらは返事も返さないのに、だ。
そうやって、こちらがどれだけ互いの間を繋ぐ糸を切ろうとしても、最後の最後で彼女は強引に結び直してくる。いかにも脆そうで弱そうなのに、時々やたらと意固地になるのは昔から変わらない。
どうすれば、岬は、分かってくれるのだろうか。俺が傍にいない方が、よっぽど彼女のためになるということを。
そんなことを思いながら、昇降口で靴を履き替えたところで。
「よう」
と、声がかけられた。
振り向けばそこにいたのはレオである。見上げるほどの長身。爽やかで、凛とした顔立ち。短く刈り込んだ髪はいかにもスポーツマンといった風情をかもし出していて、なんの変哲もない髪形なのに、それがやたらとサマになっている。
今日も今日とて、ムカつくぐらいに好青年だった。
「……」
レオを無視して俺はその場を後にする。
「おい待て、シカトすんな」
すぐにレオは追いかけてくる。
「ああ、すまん、最近はちょっと、爽やかなノリとか雰囲気からは距離を置いて人生送らせてもらってるから……」
「なんて後ろ向きな生き方だよ。そんなんじゃ、この先の人生がうっかり仄暗くなったりしちゃうだろ」
「明るさともなるべく関わり合いにならないようにさせてもらってますんで……」
「だからってそんな卑屈にならんでも……もう少し明るい考え方をした方がいいと思うけどなあ」
「いやあ、うっかり光に目を焼かれて失明しても困るんで……」
「どんだけ脆弱なんだよお前の眼球」
「凍らせたあと解凍した豆腐ぐらいには頑丈なんじゃないかな」
「それ、もう、ただの豆腐」
脆すぎだろ、と苦笑交じりに、レオは歩く俺の隣に並んだ。
「んで、ちょっとこれから時間あるか?」
「時間?」
「ああ。ちょっと、話があってな」
口調は軽いが、こちらに向けられる目は真剣そのものだった。
正面から見ていることができずに、俺はレオから視線を逸らす。
「……すまんけど。今からはちょっと、用事があるんだよ」
「はあ? なんの用事だよ」
「買い物だよ。明日の朝食の材料を買いに」
自炊は、一応続けている。
別に、岬に言われたからじゃない。ただ、俺の知らない間に、簡単なレシピがいくつか書かれた紙が冷蔵庫の扉にマグネットで貼られていただけだ。
それが誰の仕業かは、あえて言うまでもないことだろう。
「へぇ? お前が、自炊ねえ」
「……変かよ」
「まあ、そりゃ。料理なんてもんに関心があるようには見えねえし?」
「人は見た目によらないんだ」
「お節介で世話焼きな幼馴染に仕込まれた、と」
「……聞いたのかよ」
「いんや? ただ、かまをかけただけだ」
「……」
やりにくいなコイツ……。
「それじゃ、ま、ついていくとしますか」
「はあ?」
「行くんだろ、スーパー。んで、買い物終えたらオレん家な」
「面倒くせえ」
「それはそれは」
ニヤリとレオが笑ってみせる。
「愉快なことで」
「俺は不愉快だ」
「ますますけっこう」
「ネチっこいな。意地が悪いぞ」
「透夜は、往生際が悪い」
「……」
「別に、話なら明日でもいいけどな。明後日だろうが、一週間後だろうが……なんなら、一ヶ月後でも構わない。だけど、しないという選択肢だけは、オレの中にはあり得ない」
「チッ……ストーカーかよ」
「なんとでも言え。ま、オレのアドバイスとしては、面倒ごとほど後回しにすると厄介なことになりやすいっていう、夏休みの宿題理論なんだけどさ。そこんとこ、透夜はどう思うわけ?」
「……やりにくいやつだな、お前」
「ま、オレ、多分だけど透夜よりもよっぽど性格悪いし?」
よくもまあ、いけしゃあしゃあと……。
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