第11話 なーにが……
お母さんね、もうね、嫌なの。
昔は、あの人の夢を応援したいと思っていたけどね。
だけど最近はもう疲れちゃったの。
絵も描かないで、お酒ばっかりで。
スランプ、スランプって、そうやって不満を溜め込んで。
支えてあげないといけないって、最初のうちは思っていたんだけど……。
ちょっとね、もう、疲れちゃったみたい。
ごめんね。もう、なにも抱えたくなっちゃった。
透夜のことも、もう重たくなっちゃった。
ダメなお母さんでごめんね。
透夜にも、お父さんにも、優しくできなくなっちゃったお母さんでごめんね。
***
なーにが、ごめんねだよ。
そう思いながら目を覚ました。
久しぶりに昔の夢を見た。母親が親父と離婚して家を出る、何日か前の夢。遠い日の記憶。俺のトラウマ。冬の幻影。
だけど母親を責める気にはなれなかった。そりゃ、そんなの、優しくできなくなるに違いないよなと思ってしまう。空っぽになってしまうよなと、同情心すら覚えてしまう。
母親があんな風に追い詰められてしまったのは、きっと全部親父のせいで。
だけど親父を責めてしまえば、母親が俺を置いて出て行ったことを正しかったと肯定してしまうような気がして。
俺は未だに、誰をも責められないでいる。あるいは俺さえいなければ、二人の仲は今でも続いていたのかもしれないと感じることもある。
……時折、岬の姿が母親と被る時がある。彼女の優しさや温もりが、その献身が、彼女自身を削って、削って、犠牲にした上のもののように感じてしまうから。
「……ビビってる、だけなのかもな」
布団に
親父の落ちぶれた姿が、これから先の俺が辿る道筋のように感じられてしまうのだ。
だとすれば、俺はいずれ大切な人に捨てられて、目的もなくさまよう亡霊のような存在になるかもしれない。
それを想像すると怖くなる。捨てられる未来ばかりが待っているように感じてしまう。
傷つくのならばいっそのこと、最初からなにもなければ良いとすら……思ってしまう。
(……って、これダメなパターンだな)
時々訪れる、思考の無限回廊。行き着く果てのない自問自答で泥沼に沈んでいく気配がして、俺はそこで思考停止することにした。
とりあえず、意識を切り替えるために起き上がる。変な夢を見て起きてしまったせいか、時計の針は午前六時にもなっていなかった。
「飯……飯、とりあえず牛乳と、あとシリアルあったっけか」
寝ぼけ眼をこすりつつ、部屋着のまま台所の戸棚へ向かう。途中、居間で寝ていた親父には気づかなかったふりをした。
食うより先に渇いた喉だけでも潤そうと冷蔵庫を開くと……まだ半分残ってる玉ねぎとか、一切れだけ残っている塩鮭の切り身とかががらんとした冷蔵庫の片隅にあるのに気づく。
それは、岬の残した優しさの名残り。お節介の置き土産。
昨日、岬に教わった手順を、びっくりするほど鮮明に脳みそは記憶しているようだった。
(シリアルとか、コンビニ弁当ばかりでは、きっと体によくないです。体調、崩してしまうと思います)
それは、たどたどしい手つきで包丁を握る俺に、岬がかけてきた言葉。
(だから朝は、ちゃんと食べてほしいです。元気に、健康に、毎日笑って過ごすためにはお食事だって大切ですから)
そんなことを言いながら、手順を一つずつ丁寧に、岬は料理を教えてくれた。
例えば、包丁の握り方とか。野菜の切り方とか。豆腐を崩さずにパックから出す方法とか。焼き物をするときに強火はいらないだとか。
それこそ、本当に濃やかに……できない俺でも、できるようにと。
「……」
気づけば、冷蔵庫に残った料理の材料を台所に並べていた。
居間では、親父がいびきをかいて眠っている。いつもは煩わしく感じるその音をBGMに、しかし不思議と今だけは心がささくれ立ったりしなかった。
そうやって作った朝飯は、昨日よりちょっとだけマシな味になった気がした。まだまだ、野菜の切り口は不揃いだったし、豆腐は鍋の中で形を崩してしまったけれど、少なくとも魚を焦がさずには済んだ。
それから手早く洗い物を片付けて、親父が目を覚ます前に家を出た。
***
昨日、あんなことがあったっていうのに。
「……」
岬はやっぱり、そこにいた。俺の家と学校を繋ぐ通学路の途中で、彼女は通学カバンを体の前で持ちながら、人待ち顔で立っていた。
その横顔に、俺は一瞬だけ、目を瞠る。斜めに差し込む朝の光が、少し色の薄い彼女の髪を照らし出していて、それがどうにも綺麗だったのだ。
まるで一枚の絵のようだった。
坂の上に立つ少女。その後ろには朝日が昇っていて、体のシルエットが朝のよく晴れた空に映えている。
「あ……」
こちらの気配に気がついたのだろう。遠くを眺めていた瞳が、ゆっくり俺へと向けられた。
坂の上から見下ろされ、しかしこちらからは見上げることができない。そっと視線を脇へと逸らし、肩にかけた鞄の取っ手を強く握り締めた。
それから足早に坂道を上る。そうやって、挨拶もなしに彼女の隣を通り過ぎていく。
すれ違う、その一瞬。
「その……っ」
岬が何事かを言おうとして、こちらに手を伸ばしてくる。
しかし、彼女の手はなにも掴むことなく空を切る。なにかを求めてさまよう指先は、すぐに力を失って縮こまった。
それらを、俺は一顧だにしない。
本当は分かっている。昨日あったこと、俺が言ってしまったこと、すべてを謝って許しを請えば、「仕方のない人ですね」と言いながらあっさり許してくれることを。
だけどそうやって、許して、許して、許し続けた果てにある姿が、いつかの俺の母親のようになってしまうような気がしてしまって。
空っぽになるまで優しさを絞りつくしてしまったら、彼女を壊してしまう気がして。
だから結局、俺はなにも言うことはできない。ただただ、距離を置くことしかできない。
(ああ……まただ)
唐突に胸を締め付ける、罪悪感。
いつも俺の中から消えてくれない、自己嫌悪。
お前なんかに価値などないぞと、囁きかけてくる自分の声。
その自己嫌悪を、じっと黙ってやり過ごす。そんなタイミングで、スマホがメッセージの着信を告げた。
内容を確認してみれば……送り主は、岬だった。
本谷岬:おはようございます
本谷岬:(おはようワン! と吠えている小犬のスタンプ)
「……」
つい、後ろを振り向きそうになる。
そうすればきっと、まだそこにいるはずの岬は微笑みかけてくれるだろう。そしてこちらに歩み寄り、自分の声で「おはようございます」と言ってくれるだろう。
俺の心は、その挨拶を望んでいる。だけど一瞬だけその場に佇んで、しかし再び歩き出す。
岬の視線を……いつまでも背中に感じていた。
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