第3話 大事な人
気づけば放課後になっていた。
同じクラスの岬が、席を立ってこちらに近づいてくる。
「あの、透夜くん。今日は……」
「分かってる。レオと話してくるんだろ?」
「はい」
「俺はこの後、用事があっから。こっちのことは気にしなくていいぞ」
「はい……」
「ああ、それと弁当箱。洗えてなくてそのまんまだけど、わりぃな。今、返しとく」
「いえ、そんなのは気にしないでください」
「んじゃ」
岬に弁当箱を押し付けるようにして渡すと、俺は席から立ち上がる。
そのまま教室を後にしようとしたところで、背中に声がかけられた。
「あのっ」
「ん、どした?」
振り返る。俺の渡した弁当箱を手に持ったまま、なんでか、少し切なげな光を瞳に宿している。
「あの、ですね……」
「ああ」
「……」
「……」
「また、明日、です」
「……ん、そうだな。また明日」
また明日――教室で、という言葉は飲み込む。
レオの告白が成功すれば、俺はもう、岬の家で飯を食わせてもらうわけにはいかない。弁当を、こうして受け取ることだってきっと許されない。
それは二人に対して不義理を働くことになってしまうからだ。
(明日からは、コンビニで弁当でも買うかな……)
岬と挨拶を交わし終えた俺は、そんなことを思いながら教室を出る。
そのまま校門まで抜けたところで、ふと、俺は足を止めた。
(しっかし、このあとどうすっかな……)
岬には用事があると言ったが、そんなもの、本当はあるわけがない。
俺には、岬とレオ以外には特に親しい相手もいない。こういう時に気軽に声をかけて、暇を潰せるような関係を他の誰とも築いてこなかった。
あるいは、築き方が分からなかったのかもしれない。他人と関係を構築するということを、学ぶ機会がそれほど多くなかったから。
(とりあえず、家に帰るか……)
この時間なら、親父も家にはまだ帰っていないはずだ。
だから、大丈夫だ。
大丈夫のはず……だ。
***
大丈夫ではなかった。
「なんで、いるんだよ……」
玄関の鍵がかかっていなかった時点で、嫌な予感はしていたのだ。
そして居間に上がってみれば、案の定、そこにその男はいた。
畳になっている床の上で、アルコールの臭気をまとわりつかせながら……。
男は、横になって眠っている。酒瓶を、大事そうに抱えながら、五月蠅いいびきをかいている。憎たらしいほどに穏やかな寝顔は、アルコールでほんのり赤く染まっている。座卓の上、火が完全には消えていないタバコが、灰皿の中から一筋の煙をくゆらせていた。
床に視線を転じれば、いくつもの染みがそこにはあった。零れた酒をふき取ることもしないまま放置した結果、できた染みだ。
それを見た瞬間、衝動的に脳が沸騰するような感覚を覚えた。
今、この場で眠っている男の頭を、この男が胸に抱いている酒瓶でかち割ってやりたい、という衝動だ。もし、実際にそうできたら、どれだけ爽快な気分になることができるだろう。蹴り潰してやってもいい。どこかからハンマーでも持ってきたっていい。とにかく、破壊できればなんでもいい。
そういう、破壊的な衝動。暴力的な、血の沸騰。刹那的な、破滅願望。
――無理だ!
奥歯を噛み締め、必死で湧き上がってきた衝動を抑え込む。
そして、そのまま自分の部屋へと逃げ込んだ。
制服から私服に着替え、自分が男を破壊してしまう前に、慌てて家から飛び出す。
遊ぶ金があるというわけでもない。だが、とりあえず街に繰り出そうと思った。
少しでも家から――あの男から、離れるために。
***
行く当てもなく、街をぶらつく。
本屋。ゲーセン。ショッピングモール。暇を潰せそうなところなら片っ端から訪れて、しかしいずれもなんの感慨もなく通り過ぎていく。
こういう場所を一人でぶらついても、大して面白くなかった。
岬やレオと一緒に回っていれば、なにかと盛り上がったりもするんだろう。デパートで変な商品を探してみたり、服を見てはああだこうだと言ってみたり、ゲーセンで対戦したり協力プレイをしてみたり。
「……」
一人で歩き回るのにも疲れて、俺は24時間営業のファストフード店に入った。ハンバーガーとポテトとドリンクのMサイズで、588円。それをちまちま食べ進めて、深夜近くになるのを待つ。
そうやって夜も更けてから、こっそりと帰宅して親父にバレないように布団に包まる。
(明日からは、もう、岬の家に行くことも控えた方がいいんだろうな……)
午前三時を示すデジタル時計の数字を眺めながら、そんなことを考えているうちに、意識は闇へと沈んでいった……。
***
時と場所は移り変わって、放課後の幸村学園。
その、空き教室。
放課後の喧騒からは隔離されたその空間で、篠原礼音と本谷岬は向かい合っていた。
互いの距離は、およそ二メートル程度だろうか。窓から差し込んでくる西日が、二人の横顔を赤く照らし出している。
そんな、「これから告白イベントが始まりますよ!」とでも言いたげなぐらいに、おあつらえ向きな雰囲気。
誰かが開けたままにしておいたのだろう、窓から吹き込んできた風が五月の香りと共に岬の前髪を揺らしたそのタイミングで、彼女は口を開いていた。
「それで、お話というのはなんですか?」
「分かんないかな?」
「……その、えっと」
「ま、分からないよな、多分。岬ちゃん、そういうの疎そうだしさ」
「それは……すみません」
困った様子で謝る岬に、「いいよいいよ」と苦笑交じりに返す礼音。
しかしすぐに真剣な表情を作ると、彼は真っ直ぐな視線を岬へと向けた。
「――大事な、話があるんだ」
そう、切り出す。
「とてもとても、大事な話だ。少なくとも、オレにとっては」
「はい」
「岬ちゃんにとっても、大事な話であってくれたら、オレはとても嬉しい」
「……」
「オレ、岬ちゃんのこと、好きなんだ。友達としてではなく、女の子として。恋愛としての、好きだ。だから……オレと付き合ってほしい!」
毅然とした態度で、そう告げる礼音。
岬の返事は――、
「お断りします」
迷う素振りを微塵も見せずに、彼女は頭を下げていた。
「躊躇い、ゼロかよ……」
力なく、ははっと、礼音が形だけの笑みを浮かべる。
「すみません……」
「普通は、もうちょっと悩んだり、答えあぐねたり、色々聞いたりするもんだと思うんだけどな」
「……はい」
「なんでオレが、岬ちゃんのこと好きなのかとか。悩む様子を見せた時の口説き文句とか。これでも色々、頑張って準備してたんだぜ?」
「そんなの……私なんかのために、もったいないです」
「『なんか』じゃないって。少なくともオレにとっては。……ま、でも、だいたい予想できた答えだったんだけどさ」
机の上に逆さまに重ねられていた椅子を床に置き、礼音はそこへと腰を下ろした。
ふう、と肩の力を抜く。
その状態で、立ったままの岬を見上げながら、彼は訊ねた。
「やっぱさー……理由は透夜? あいつのことが、好きだからとか」
「それは……どう、なんでしょう。私も、はっきりとした理由は上手く説明できる自信がないです」
「……」
「透夜くんも、篠原さんも、どちらもとても素敵な人です。篠原さんは素敵なお友達ですし、透夜くんは大事な人です」
「大事な人、ね……」
「恋愛とか、男女の関係とか、正直そういうのはいまいち私も分からないです。ただ……篠原さんとお付き合いすることになったら、透夜くんはきっとうちに来るのを遠慮するようになると思います。私はそれが嫌です」
「そういうとこは、はっきりしてるよな、岬ちゃんって」
礼音の言葉に、岬はなにも答えない。どこか申し訳なさそうな、ともすれば気弱にすら見える表情で、佇んでいるだけだ。
だけどその目の奥の光は真っ直ぐだった。その光を揺るがせることが、礼音には結局できなかった。
「悪かったな。無駄な時間、取らせて」
「いえ、そんなことはありません。大事な話でしたから」
「オレにとっては、だけどな」
「私にとっても、です」
「……」
「傷つける形になってしまったことは、謝りません。このことを忘れて、また明日から仲良くしてくださいとも、言いません。ですが、大切な……必要なお話だったことは、確かだと思いますから」
それから、折り目正しく一礼し、岬は告げる。
「それでは……お先に失礼しますね」
ともすれば、冷たく聞こえるそんな言い方。
だけど、それは彼女なりの気遣いで。
「……はー」
岬の気配がなくなってから、ようやく礼音はいつの間にか張っていた気を緩める。
深いため息を漏らして、ぽつりと呟いた。
「……大事な人とかさあ、それもうめっちゃ好きなやつじゃん」
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