第2話 主人公ってやつがいるとするなら

 岬の両親も交えて朝食を終えた後、店を出る。


 直前で、美汐さんが弁当箱を渡してくれた。それからこっそりと、「今日は岬も手伝ってくれたのよ?」と俺の耳元で囁きかけてくる。


 だが、耳ざとくそれに気づいた岬は、「お、お母さん!」と言って怒っていた。


 そんな風に怒る岬の揚げ足を取るようにして、美汐さんは、


「この子ったら、恥ずかしいから手伝ったこと言うな、なんて言うのよ? 可愛いわよねえ」


 とか言って笑って、さらに岬に「もーっ」と言われていた。


 そんな、朝の登校風景。


「お母さん、ひどいですっ」


 道を歩く最中も、岬はまだ文句を言っていた。


「料理はまだ勉強中なので、透夜くんには私もお弁当を手伝ったこと、知られたくなかったです」


「はあ、そりゃなんで?」


「そ、それは……今のお弁当は、まだ、私がちょっと手伝っただけの、お母さんのお弁当です。せっかくなら、ちゃんと私が作ったお弁当を食べて、おいしいって言ってほしいじゃないですか」


「別に、俺のために作ってくれたもんなら、素直に俺は嬉しいけどな」


「『嬉しい』と『おいしい』は違うじゃないですか。同情票は無効です」


「はあ……」


「あ、もちろん、嬉しいと思ってくれるのは私も嬉しいんですよ? でも、嬉しいとおいしいが二つ揃ってた方がなんだかお得な気がするじゃないですか……しませんか?」


 なんつーか、まあ。


 俺は料理もしないし、人に弁当なんてもんを作ったことがないから分からんが。


「だからお母さん、ひどいですっ」


 とまあ、岬の中ではとにかくそういうことらしい。


 そんな風に、ちょっとご機嫌斜めな岬と歩いていると、後ろから規則的な足音が聞こえてきた。


 耳慣れた足音だ。


 後ろを振り返ってみれば、こちらに走って近づいてくる、学校指定ジャージ姿の男がいた。


「よう、透夜。それに岬ちゃんも」


「おう、おはよ。レオ」


「篠原さん、おはようございます」


 ジャージ姿のこいつは、篠原しのはら礼音れおん


 岬と同じく幼馴染で、親友とも相棒とも言えるような仲である。


 いや、正確には、そうだった・・・・・と言った方がいいかもしれないな。俺とレオがパートナーだったのは、中一の夏までのことだったから。


 それでも、俺にとって唯一無二の親友と言える相手であるのは今となっても変わらない。同じ道を歩くことはできなくなっても、その関係の親しさは減ずることなく続いている。


「今日も走って来たのかよ。相変わらず精が出るな、お前」


「おう! オレにとっては、ロードワークは毎朝の習慣だからな! 今じゃもうやらない方が気持ち悪くて疲れるぐらいだ」


「ご立派な習慣なことで。まったく、健康的すぎて反吐が出るぜ」


「透夜くん、反吐が出るとか、そういうこと言っちゃダメです」


 ちょっと唇を尖らせて、岬が言って窘めてくる。


 そんな岬の言葉にレオが笑った。


「ははっ、透夜の憎まれ口なんて今さらだからオレは全然気にしちゃいねえよ、岬ちゃん! だいたい、こいつが素直じゃねーのは岬ちゃんだってよく知ってるだろ?」


「それは知っています……ですが、よくないことはよくないです」


「そいつは道理だ。だってよ、反吐が出るとか言っちゃいけないらしいぞ透夜?」


「……チッ、うっせーな。ロードワークの最中なんだろ? さっさと走って学校行けよ」


「生憎、今朝はもう十キロぐらい走ってきたとこなんだわ。だからあとは歩いてクールダウンするところ」


「もっと燃えろよ。熱くなれよ。そのまま灰になっちまえ……真っ白によお」


「それもう完全に燃え尽き症候群っすね……どう見てもオーバーワークっすね……」


「ざまあ。メシウマ。もっとやれ」


「あ? やんのかコラ」


 俺の挑発にレオが構える。


「お? やったるぞオラ」


 そして当然俺も構える。


「喧嘩もダメですっ」


 そして岬が、唇を尖らせて間に割って入ってくる。


 三人でいる時の、お決まりのやり取り。


 いつものノリ。お約束。


 心地よかった。


  ***


「あ、そういえば岬ちゃん。放課後、ちょっと時間あるかな?」


 すっかり葉桜となってしまった桜並木の坂道を通り過ぎ、私立幸村学園の昇降口に辿り着いたところで、ふと思い出したようにレオが岬にそう声をかけていた。


「放課後……ですか? はい、特に予定はないですが」


「ならさ。ちょっと話したいことがあるんだけど」


「話したいことですか? ええと、私は別に構いませんが……」


 言いながら、チラリと岬がこちらを見る。


 俺はそれにうなずき返した。


「いいんじゃね? 今日は俺、一人で帰る予定だったし」


「そう、だったんですか? 聞いてなかったです」


「言ってなかったしな」


「……言ってほしいです、そういうことは」


「余計なことは言わないのが、男ってもんだ」


「お父さんも透夜くんもけっこう余計なことを言います」


「気のせいだろ。てか、俺のことはいいんだよ。今はレオの話だろ」


「あ、そうでした。えっと」


 そこで岬が、レオの方へと向き直った。


「はい、放課後、大丈夫です」


「そっか、よかったよ。んじゃ、オレ、クラス別だから!」


 じゃあな、と爽やかに手を振って、レオが廊下を歩き去っていく。


 その背中を見送る、俺と岬。俺たちから離れてすぐ、レオの周りには人が集まっていた。


「篠原君、一緒に教室行こうよ~」


 と言いながら、レオにくっついていく女子生徒。


「おい礼音、今度うちの部の試合に助っ人で出てくれよ~!」


 と泣きついてくる、運動部の男子生徒。


「ちょっと篠原! あんた、まだ課題出してないでしょ!」


 と、レオに突っかかっていく委員長らしき女の子なんかもいる。


 すぐに人の波に飲まれ、レオの背中は見えなくなる。そしてレオを取り囲んでいる人間は、誰もが笑顔だった。


 人気者の、親友。かつては相棒だった男。


 そんな男がもみくちゃにされるのを離れたところで眺める俺に、岬が話しかけてきた。


「篠原さん、話っていったいなんなんでしょう?」


「さあ? 俺の知ったこっちゃねえよ」


「そうですか……」


 知ったことではないと答えながらも、俺はレオの話の内容に見当がついていた。


 もう、ずっと前から知っている。


 人気者の、篠原礼音。


 誰からも注目され、誰からも愛され、誰をも笑顔にする、俺の知る限り最高にいい男。


 そんな礼音の好きな女の子。それは俺の隣に立っている、本谷岬。その人だ。


 そして、俺は――。


(きっと、レオなら、岬をいつだって笑顔にしてくれるはずだ)


 二人の仲が上手くいくことを、願っていた。


 自分ですら気づかない……気づけないように小さく小さく丸めて押し殺した、淡い感情を抑え込んで。


  ***


 ――例えば、主人公みたいな男がいるのなら、きっとそれは篠原礼音という男のことだと昔から俺は思っていた。


 レオと並べば、誰だって霞んで見えてしまう。その前向きな性質が、明るく自信に溢れた振る舞いが、誠実で真っ直ぐな性格が、誰よりも輝いているから。


 だから俺はレオにずっと憧れていたし、彼のようになりたいとも思っていた。努力をすれば追いつけると、そう思っていた時期もあった。そのために必死になった時期だってあった。


 だけど、その努力はかつて無駄に終わってしまった。追いつくどころか、追いかけることすら途中で諦めてしまっていた。レオのようになることなんて、きっと誰にもできないことだと、そう悟ってしまったのだ。


 そして俺は、何者にもなれない。望んだ自分の在り方に辿り着くことも、憧れに並ぶこともできない。そのために、手を伸ばすことすら……もう、無理だ。


 そうやって俺は、篠原礼音という男の『友人キャラ』であることを受け入れた。俺がすごいと思った男の、友人という立場に収まることができたことは、誇りですらあったから。


 きっと礼音は何者にもなることができる。


 みんなの憧れの的となるヒーローにも。


 誰もが注目し称える、英雄にも。


 大切なひとを護り、その笑顔を絶やさずに照らし続ける太陽にも。


 だからきっと、俺の知る中で、彼女を最も幸せにできるのはこの男だと思った。


 そう思ったからこそ、俺は――。

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