好きな子の幸せを願って身を引いたのに、学園一のイケメンモテ男を振った彼女が俺を追ってきたのだが
月野 観空
幸福へ続く坂道を――
第1話 俺と彼女と朝の風景
――誰かを大切にするということは、時としてとても困難で。
だから僕たちは、泣いて、笑って、転んで、すれ違って……それでも優しさを重ね合う。
だからいつだって、想っている。
願わくば、精一杯の温かさを、36.5℃の幸福を、共に分け合えたらいいのにと。
―――――――――――――――――――――――――――――
俺、岡本
その女は、
彼女と、彼女の家庭がなかったら、俺はきっと道を踏み外していた。母親が蒸発し、俺には対して無関心な父親との二人暮らし。そんな中で、岬と出会えたことは俺にとって何よりもの幸運だっただろう。
だから多分、俺の人生における運と幸せは、もう使い果たしてしまっている。
ならば、この先の人生は、誰よりも岬の幸福のためだけに俺のすべてを捧げよう……いつしか俺は、そんなことを考えるようになっていた。
***
「こんちわーっす」
『洋菓子工房本谷』とガラス窓に書かれた扉を開いて、俺は中に入る。
洋菓子工房本谷というのは、岬の実家で、その名の通り洋菓子店……いわゆるケーキ屋のことだ。岬の両親である美汐さんとおっさんの二人で切り盛りしている。
登校前である今の時間はまだ営業前だ。しかし、表の鍵は開いていた。というよりも、いつの頃からか、この時間にはもう俺のために開けておいてくれるようになっていた。
「あ、透夜くんです。いらっしゃいです」
中に入れば、そんな声と、そして笑顔が返ってくる。
声と笑顔の主は、カウンターの向こうで陳列棚にケーキを並べている最中の女の子だ。
その子の名前は、本谷岬。俺の幼馴染みで、地獄のような日々から救い上げてくれた大恩人で、俺にとってもっとも大切な女の子だ。
身長は、150センチにちょっと足りないぐらい。あどけない童顔。ショートカットで、左側にだけ花を象った髪留めをつけている。
ともすれば、小学校の高学年とか、せいぜい中学生ぐらいにしか見えないが、俺の通う高校と同じ制服を身につけている。そしてその制服の上からはエプロンを着ていた。
彼女の容姿は、贔屓目を抜きにしても、かわいい方だと言える。いや、かなりかわいいと言ってもいいかもしれない。いわゆる、守ってあげたくなる系。愛玩動物にも似た、庇護欲を刺激されるタイプの愛らしさだ。
男子生徒からの人気も実際のところかなり高く、有志による『魅力的な女子生徒ランキング(女子には部外秘とのこと!)』においては、『全力で保護したくなる部門』において見事一位の栄光に輝いている。
そんな岬が、ちょこまかと小さな体を精一杯使って働いている姿は、どこか微笑ましく、癒される光景であった。
「おう、おはよ。今朝も店の手伝いか?」
「はいっ」
「いつもいつも、朝早くから大変だよな。別に、わざわざお前が手伝う必要があるわけでもねえのに」
岬は、家の仕事をよく手伝う働き者だ。朝と放課後は、ほとんど毎日といっていいぐらいにこのように手伝いに励んでいる。
実際にケーキを作ったりするのはおっさんの仕事だが、細々とした雑用や接客などはむしろ進んでやっているようだった。
常連客からの評判もよく、町内では看板娘としてよく知られている。
「全然、大変じゃないですよ?」
そう言いながら、岬はにこにこと笑顔を向けてくる。
「むしろ、こうして働きながら透夜くんが来るのを待っている時間は好きですから」
屈託のない口調で、そんな物好きなことを口にする。
「人を待つのが、そんなに楽しいもんかね」
「楽しい、ですよ? 待っているということは、来てくれるってことですから」
「ふーん? まあ、お前がいいなら、いいけどさ」
「はいっ」
俺にはいまいち、よく分からない理屈であった。
「つーか、俺も手伝うよ。一人じゃ大変だろ」
「いいんですか?」
「ああ。エプロン借りるぞ」
カウンターの奥に掛けられているエプロンを一枚取って、制服の上から身に着ける。
カエルのワッペンが胸のところに刺繍されているエプロンで、岬が俺のためにと選んで用意してくれたものだ。もう何年も使っているため、随分とくたびれてしまっているが、それでも岬や、その母親の美汐さんが、ほつれたりするたびに修繕してくれている。
おかげさまで、今でもエプロンはしっかりと役割を果たしてくれていた。
「残りのケーキは俺が並べとくから、岬は他のことやってろよ」
エプロンに着替えてからそう声をかけると、「はい、お願いしますっ」と言って岬がトングとトレイを手渡してくる。
「なんだか、素敵ですね。こういう感じ」
その時、嬉しそうなはにかみ笑いを浮かべながら、岬はそんなことを言ってきた。
「素敵って、なにがだ?」
「こうして二人でお店の準備をしていると、なんだか胸がほわほわするんです。じんわり、嬉しい気持ちになると言いますか……」
「はあ……そりゃまた、どうして?」
「だって、なんだかこうしてるとまるで、二人のお店みたいじゃないですか? すごく、いいなあって」
などといいながら、岬はもじもじと自分のエプロンの裾を指先で忙しなく引っ張っていた。
なんとも小動物的で、可愛らしい動きである。つい、頭を撫でてやりたくなってしまう。
その衝動をこらえつつ、俺は彼女に言葉を返した。
「ま、ケーキ屋さんは女の子なら憧れる仕事なのかもな。俺はピンと来ねえけど」
「それもありますけど、それだけじゃないです」
少しだけ岬が唇を尖らせる。
「ケーキ屋さんは、確かに素敵です。お父さんとお母さんのお仕事は私も好きです。だけど、誰と一緒にやるのかというのも、とても大事なことだと思います」
「まあ、気の合う相手と働けるならそれに越したことはないだろうな」
「それに、透夜くんはエプロンもとってもお似合いですし」
「今すんげえ脈絡なく話が飛んだな……」
「学ランの上からエプロンというのが、また、格別だと思うんです」
胸元でぐっと拳を握り締め、やや力強い口調でそう主張する。
なにに興奮しているのか、頬っぺたまでうっすら赤みを帯びていた。
「とっても、とっても……素敵ですっ」
「はあ……俺なんかのエプロン姿のなにがいいんだか。いい加減、もう見飽きてるだろうに」
「見飽きてないです。飽きるわけないです。その気になれば何時間でも眺めていられます」
「お、おう……」
「それに、透夜くんなんか、じゃないです。むしろ、透夜くんのエプロン姿だからこそ意味と価値があると思います」
そう真剣に訴えかけてくる岬の言葉を、「はいはい」と俺は適当に流す。
まったく、どこからそんな熱意が来るんだか。まあ、楽しそうなのはいいことだと思うけれども。
ぶっちゃけると、俺は岬が喜んでいるのを見るのが好きだ。彼女の笑顔を見るためだったら、どんなことでもできると思う。本気で頼み込まれれば、学ランの上からエプロンを着て、丸一日過ごしたっていい。
もっとも、岬はそういうわがままを言うタイプでもないから、そんなことを頼んだりはしてこないだろうが。
「……って、話し込んじまったな。ほら、おしゃべりもいいけど、さっさとやること片付けちまうぞ」
「あっ、そうですね。ごめんなさい、透夜くんとお話するのが楽しくて、つい」
「いいって。ほら、商品並べるのは任せとけ。すぐに終わらせるから」
「お願いします。透夜くんは、とっても頼りになりますねっ」
そんな会話を交わした後は、二人して作業に集中する。
そして、準備が終わったタイミングをまるで見計らったかのように、「朝ごはん、できてるわよー!」という美汐さん(岬の母親)の声がかけられた。
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