第九幕 確率を凌駕する鉄則は洞察に有りて


一組のカップルである、本日最後のお客様に

“ありがとうございました“と頭を下げる。

隣には、シフト上、珍しいことにユミもいる。

そして、最後のお客様というのは、少し語弊があったかもしれない。

今日は、アサミさんも“お客様“としてカウンターの端で、何が面白いのかニコニコしてるからだ。


“今のお客様、どう見ますか?店長“

“少し飲み過ぎた、純然たる男性を支えるように出て行った女性が非常に魅力的でしたね、ユミさん“

“アレは男性が女性を【お持ち帰り】する為の常套手段ですよ。店長“

“なんと、無礼な。あの女性がそんな子供騙しに引っかかるようなお方だと言いたいのですか、ユミさん“

“【お持ち帰り】もしたことの無いアナタに何が分かるのです、ドーテイ。

“アナタほど【お持ち帰り】された経験のある女性なら、あの男性の泥酔が演技の類でないことくらい分かりそうなものですがね、アバズレ“


アサミさんが、嬉しそうだ。何をそんなにニコニコすることがある。


“泥酔しながらでも、女性の腰に手を回す余裕から見て【触りたい】のが見え見えだったろうが!ドーテイ!“


“泥酔した状態から自重を支える為、手を回すのに最適な箇所が腰だっただけだろうが!アバズレ!“


“あーそうですか!【触りたい】とも思えない、女性に対するねじ曲がったコンプレックスが、目の前の現実を正しく見れない原因か!それとも【触れない】ほど深刻か?意気地なしの終身名誉ドーテイが!“


“【触られたくもない】のにベタベタ触られて、男への不信感から、通常の女性心理すら忘れてしまったか!それとも、もう女性であることすら放棄したいのか!脇と股が両方ガバガバなんだよ!世界史上稀に見る馬鹿女!“


“心理だの根幹だと、めんどくせぇな、実戦はいつだよ頭でっかち“


“頭で考えずに身体が先に動くから遊ばれるんだよ。お前がやってるのは実戦じゃなくてお遊戯だろうが“


くすくす。くすくす。


“何がおかしい!!“

そんな言葉が、ユミとハモったもんだから

アサミさんがついに声に出して笑い出した。


“いやいや、ごめんなさい。いつの間に、そんなに仲良しになったのかなぁって“


どこが“仲良し“に見えるんだ。


“こんなに本音で罵り合いなんて、熟年夫婦でもなかなかしないでしょうにね“


笑いすぎて出てきた涙を長い指先で拭う。


何故か“熟年夫婦“と言う単語にユミが過剰に反応する。

“アサミそん!!“

盛大に噛んでやがる。敬称を噛む人間を、俺は初めて見た。

“言わないわよ。というか、鈍感すぎて気付いてないのもすごいけど“

鈍感、ねぇ。

アサミさんはチラリと俺を見る。


女性同士で、モールス信号でも送り合ってんのか、この人達は。

訳がわからん。


アサミさんがくすくすと笑う。

まったく、分かってるくせに、意地悪な人だよ。



そこに、来店ベル。

この店は、閉店間際でも、来店があれば、そのお客様がお帰りになるまで開けておくのが通例である。

少し、酒気を帯びた二十代後半の男性客。

初来店の“お客様“だ。


“いらっしゃいませ“

俺とユミが頭を下げるのが先か、その“お客様はカウンターの真ん中に、どかっと腰掛けた。

“ビール“

不機嫌そうだ。何かあったらしいな。

サングラス。少し伸ばした金髪を短く後ろで束ねている。

ユミが、早足でビールをグラスに注ぎに行くのを見て“接客を押し付けやがったな“と心中で毒づく。

無理もないか。パッと見、ガラの悪いお兄さんだ。

“なぁ、バーテン“

訂正する。明らかにガラの悪いお兄さんだ。

“なんでございましょうか?“

お兄さんは、ユミが運んできたビールを受け取りつつ、さりげなく身体に触れようとして、失敗してる。さすがに、セクハラのかわし方に慣れてる。拒んだというより“たまたま身を翻したから当たらなかった“という印象の動きだった。

“ギャンブルしよーぜ“

自分が言われたのかと、ユミが身体を強張らせる。お兄さんの視線がまっすぐ俺の方にあるのを確認すると、そそくさ、カウンターの端で洗い物に取り掛かって【めんどくさい輩】に無視を決め込む事にしたようだ。

“困りましたね。賭け事は犯罪になってしまいます“


“金銭のやり取りは刑法で禁じられてるからな“


思ったより、詳しいじゃないか。

【慣れてる】らしい。


“では、金銭は賭けないと?“

“もちろんだよ“


両手を広げて、大袈裟に首を左右に振る。

酔いが回るからやめた方がいいと思う。


“俺は、この辺じゃ何の知れたギャンブラーだ“


じゃあ、名乗れよ。お前なんか知らないよ。

って言えたらいいのになぁ。

アサミさんまで、ちょっと怖がってないか。

震えているような。

“くすくす“

笑っていたのか。

そうだよな。どう見ても、このお兄さんには“オーラ“がないじゃないか。



俺は、バーカウンターの内側で、様々な光景を見てきた。

時には、自分の大学で得た知識の一つ【心理学】など、統計に過ぎないと落胆した。

時には、その人その人によって【何に喜ぶか】【何に落ち込むか】【何に笑うか】【何に泣くか】全く異なるのだ。と痛感した。

文字にすれば“当たり前のこと“かも知れないが、あえてここに綴るほど、驚くほど、異なる。



“左様でございましたか。これは失礼致しました。お客様のご要望とあれば、お受け致しましょう“


サングラス。夏場である、にしても短めの袖。腕のタトゥーを見せつける為。か。

その男の前にいるのは“年下のバーテン“だ。

【ナメてるな、完全に】




【いいか?ユウタロウ。目の前に敵が現れるとする】

格闘技を趣味にする叔父の言葉が脳内に響く。

俺が中学生くらいの時かな。

【一番良いのは、戦わない事だ。“拳“で握手は出来ないから】

そうだな。全くもって、ごもっとも。

【本来、お前の手は何かを掴む為にある。大切な何かを掴んだら離すな】

【でも、もう一つ、お前の手には役割があるぞ!】

叔父さんよ。

【現れた敵が“握手“に応じないようなヤツなら】

そうだよな。


【全力で潰してやれ】

御意。




新品の爪楊枝を2パック。計200本、用意する。


“これをチップとしてはいかがでしょう“


“種目は?“


“なんでも、お好きなもので結構です“


じゃあ。

“ポーカーだ“


ルールくらいなら知っているか?と笑う輩。


“賭けようじゃないか。俺が勝ったら、そうだな。そこの可愛いコの連絡先、教えろ“



ユミが指差されて、おずおず俺を見る。

笑顔で返しておく。

【大丈夫だ】と。


名の知れたギャンブラーがポーカー、ね。


【掴んだら離すな】

【全力で潰せ】

致し方あるまい。


“では、お客様。私が勝った場合は“

“二度とこの店に関わらない事をお約束下さいませ“


ギャンブラーは、顔を痙攣させてる。

思いもしなかったのだろう。

負けたら“出禁“だと、バーテンごときが宣うなどと。


“どうぞ“ カードを丸ごと男性に渡す。


“俺に配らすのかよ“


“僕が配って、後から【イカサマ】を疑われても困りますので“

ニコニコと言ってみせる。


暗に、【お前になんて負ける訳ないだろう】と皮肉ったつもりだったが、特に何も思わなかったご様子だ。



ギャンブラーは、ザッとカードの裏面を目でなぞる。

“目印“の類がないか見てるらしい。

目印つけるなら“側面“か“縁“が相場なのにな。

無論、そんな印など、一切ないが。

ちなみにカードに目印をつけるイカサマを“ガン付け“という。


ギャンブラーは、ザッザッと、カードを混ぜて

交互に一枚ずつ、計五枚になるように配る。


場代となるチップを5本、中央の皿に投げる。

こちらも同様。

皿には計10本。


ギャンブラーは、手札の中央から、目線を左右に揺らし

“BET10本“と宣言した。


中央の皿に、10本の爪楊枝を投げる。


最初に配られたカードを確認後の

【ファーストベッド】だ。


ポーカーは、あまりにも有名すぎて、派生形や特異なルールを儲けるパターンが多くあるゲームだが

概ねは、こういうのが“ベタ“なのだろう。


“コール“

こちらも“その賭け金でいきましょう“と宣言し、10本投げる。


最初の場代と合わせて30本が皿に有る。


ここから“カードチェンジ“


ギャンブラーはこちらに目もくれず、手札から3枚捨てた。


その様子を確認してから、こちらは2枚、捨てる。


再度、捨てた分だけカードを配布する男

こちらの表情など見もしない。


“自称ギャンブラー“に彼の呼称を降格させる。

まるで素人。これが擬態なら、逆に化け物だ。


セカンドベッド。

この場のポーカーでは、これが最後のBETとしている。

このBETが成立すれば

【ショーダウン】純粋に役の強さで勝負する事になる。


ギャンブラーは、“BET20“を宣言して

皿の爪楊枝を計50本にした。


“フォールド“

“降ります。どうぞ、場のチップをお納め下さいませ“



“なんだよ“

不機嫌そうに皿の50本を自陣に引き入れ

“初っ端から怖気付いたのか?“

それでも笑っている。


ちなみに、皿の50本のうち、俺が差し出したのは15本だ。


これで、こちらが85本 あちらが115本となる。


“引くときは引く、行くときは行く“

“ギャンブルとはそういうものだと思いますがね“

取り立てて、感情を込めずに言うと

自称ギャンブラーは、笑う。とても不機嫌そうだ。


【3枚チェンジ】

それは通常“ペアが揃ったから、不要な3枚を捨てる“という意味である事がほとんどだ。

そしてその“通常“が、まんま今のパターンである事が、見て取れる。

自称ギャンブラーは、自分の手札を端から中央の位置まで視線を走らせて、山札に叩き入れた。

“せっかくワンペアが3カードになったのに“

といったところだろう。

凡庸過ぎる。楽しくない。

ユミとババ抜きしてる方が、可愛げがある分、まだマシだ。


心理学など統計に過ぎないが、凡庸な相手にはそれだけで充分だろう。


次戦。

場代が計10本、互いから投げられ。

自称ギャンブラーが交互に5枚配布。

輩が自分の手札を見て、僅かに上がる口角。それを、確かに見た。


“BET20“

“コール“


場代と合わせて、既に皿の中は50本




“2枚チェンジ“

“では、こちらも2枚で“


準備は済んでいる。

この一戦に限って言えば、もう相手の表情を見る必要すらない。

配られた2枚のカードを手札に加えて、俺は僅かに口角を上げて見せる。

見ろよ。ほら、相手が笑ってるぜ?

見たか?見ただろ、さすがにここで見てなかったら、凡庸を通り過ぎて“まぬけ“だ。

“BET30“

自称ギャンブラーは皿に30本を投げ入れ

皿のチップの総数を80本にした。

声の調子からして【良いカードはこなかったけど、充分戦えるだろう】【出来れば降りてほしい】

その強気のセカンドベッドは【こうすれば降りるだろ?“と言ってるようなものだ】


“どうすんだよ、オラ!“


いつまでもニコニコしているバーテンに、怒鳴り声を上げる。


“申し訳ありません、他のお客様のご迷惑になりますので“


初見のこいつには、カウンターの端に座るアサミさんが、ホントのところは従業員である事を知らない。

アサミさんが顔を背ける。笑ってるに違いない。


輩は下品に舌打ち。


“心配しないでくださいませ。行くときは行きますよ“

そして、あえて自分の手札を揃える動作を見せてから。

“オールイン“


オールイン

持ってるチップを全て賭ける事を意味する。


既に、ベッドで“計50本“のチップを皿に投げ入れた輩には

“フォールド“で皿のチップを差し出すか

“コール“で俺の持ってる計85本の勝負に乗るしか、選択肢がない。


そして、凍りついてる自称ギャンブラーは、きっと。

【お互いに2枚チェンジ】の意味を、考えるだろう。

そして、思い至るだろう。

【待てよ、バーテンは1回目も2枚チェンジ】



【2枚チェンジ】の狙いは何か。


既に“3カード“が出来ていたから、不要な2枚を捨てたか。

既に3枚のマークが揃っていたから“フラッシュ“を狙ったか。

既に3枚の数字が並んでいたから“ストレート“か。


それくらいは考えるだろう。

仮にも【ポーカーのルールを知ってる】なら。

そして、行き着くだろ?

俺がお前を縛った【引く時は引く、行く時は行く】と言った、第一戦の【フォールド】。


【2枚チェンジ】からの【フォールド】


今回は【2枚チェンジ】からの【オールイン】


さすがに、分かるよな?

単純な公式くらい、解けるだろ?


【行く時は行く】

脳裏にこびりついて離れないだろ?

“フラッシュ“か“ストレート“か

“4カード“か、はたまた“フルハウス“

【どれか完成してやがるのか?】


一度、よぎったそれらを拭えるなら、来いよ。

3カードが揃ってるであろう、自称ギャンブラー。


人間はメリットよりも、リスクに目がいく。

輩はちらりと自分のチップを見やる。

【ここで降りても、あとこれだけある】

【無理して勝負に行く必要はない】


やはり、どうやら、凡庸な正答に行き着く。

“フォールド“

はい、正解。よく出来ました。


ニヤニヤしながら

“何が出来てるのか見せてみな“と

自分の手札をこちらに突きつける。

キングの3カード。


“ほぅ、お客様。なかなか良い手札ですね。勝負に出れば良かったのに“


“そうだよな。俺が勝負に出たら、お前、返り討ちに出来たのにな“

“残念だったな“

まぁ、受け取りな。と皿のチップをザラザラと俺に寄越す。


これで、こちら140本 あちらは60本


“見せてみな“

輩は俺の手札を奪うように受け取る。

次瞬、酔いなど吹き飛んだようだ。

声にならない声を上げる。唸り、俺の手札だったカードがバーカウンターに散らばる。


エース、クイーン、9、3、2

【フラッシュ】?

とんでもない。


【無役〔ブタ〕】だ。


“勝負にくればよろしかったのに“

再度、たたみかける。

“もしかして、【ポーカーのルールくらいは知っている】程度でしたかね“


ポーカーは手札で決まらない。

有名な格言だ。


如何に、読むか。

どう相手を図るか。

どのタイミングで、仕掛けるか。


そして、この男には、最初から微塵もそんな事が出来る“オーラ“を感じなかった。



結果、ポーカーは完封した。

当たり前の話だが、負ける要素など無かった。


アサミさんとユミが、こちらを見てるのが分かる。

ユミが純粋に嬉しそうだ。

アサミさんの表情が曇っている。


アサミさんの表情が、おそらく、正しい。



心理学も、たまには役立つ。

しかし、“出来れば戦わない方が良い“

だって、戦いに勝ったところで、次に起こる事は‥。


自称ギャンブラー“は意地悪く

“店には関わらねぇ“


これだから。


“店には、な“

“表に出ろ!お前、ぶっ殺してやる!“


次の争いを仕掛けられるだけだから。


“ユミさん、そちらのお客様のご対応をお願いします。出来れば、看板を引いておいて下さい“


“はい“

ユミが、もう、泣きそう、いや泣いてる。

アサミさんが、震えてる。

それは【怯えてる】んですか?【怒ってる】んですか?

この状況で【笑ってる】なら、俺の女性不信は治りそうもないけど。

アサミさんは、ギロリと、視線を輩に向ける。

よかった【怒ってる】らしい。

つくづく、優しくて聡くて強い人だな。



輩は我先に表道に出る。

深夜3時だ。

人通りもない。

大丈夫かな。


“俺はなぁ!空手2段だぞヒョロガキ“


デカイよ。声。

他の人に見られるとまずいんだよ。

一応、店のトレードマークが入ったジャケットは置いてきたけど。


“自分で流派を名乗るバカが“


“テメェ、どこまでナメてやがる!“


“ナメてねーよ。熟知してんだよ。アンタの本質について“


“何を知った気になって“


“タトゥー見せつけないと、自分を強く見せられない“

“サングラスしないと心理戦すらまともに出来ない“

“髪を染めて、奇抜な形にしないと自分を表現出来ない“

“臆病者だろーが!“


ビクッと、身体を振るわせる。

“ぶっ殺してやる!“


人を殺したこともないくせに。


俺を店から出したのは“大間違い“なんだよ。

俺は今、“バーテンダー“じゃなくなったんだ。



“ごちゃごちゃうるせぇから。早く殺してみろよ“



確かに構えは“空手“らしい。

拳を軽く握って、左半身を前に、足は肩幅くらいに開いてる。


“2段“は嘘だな。“茶帯“がいいとこだ。


輩は、もはや我慢ならないらしい。

【ナメられるのが許せない】

なんて、浅い。ペラペラじゃないか。

いきなり、距離を詰めてきて、右の突きを繰り出そうとする輩。

俺は半歩、右前に踏み込む。

当然、俺の左肩すれすれを拳が過ぎ去る。

開いた両手で輩の背中を、軽く下へ押し、残していた左足、その膝でみぞおちを蹴り上げる。


“あぁあ“

呻きながらも、立っていられるのはドーパミンの成せる技か。

それでも、左フックを繰り出してくるのは、単純に“打たれるのに慣れてる“のか

右から飛んでくる腕を、自分の右腕で内側から巻き取る。残った左手で顎に掌底。次に、自ら屈み、全力で相手の両足を後方から薙ぐ。



通常なら後頭部をコンクリートに強打してるところだが、それは手で止めて置いた。

顎からの振動は脳を揺らす。

もう、立てまい。

完全に気絶した輩を道の端に寄せて

店に戻る。


かえって難しいんだよ。

【殺さない】方が。


店に戻ると看板は引かれていたが

シャッターが半分だけ下されている。

“2人とも帰ってないのか“


中に入ると

アサミさんとユミが駆け寄ってきた。

“大丈夫だった?“

はい。

“怪我はない?“

無傷だ。

“嘘でしょ!?ちょっと脱いで“

嫌ですよ。

アサミさんが無理矢理、俺のTシャツをひっぺがす。

“細っ“

バカにしてます?

“どうなったの!?“そう言うユミをとりあえず、手で制して


“えーと、アサミさん。明日のご予定は?“

“はい?“

ずっとボケてるな。この人。


ユミが心底驚いた顔をする。

なんでだよ。


“もしかして、タロちゃん。私とデートしたいの?“

そんなわけないのを、分かってるはずなのに、くすくすと笑う。

こんなタイミングでそんなわけないのを

“ちょっと!アサミさん!“

分かってるのに、俺をおちょくるから、流石にユミが怒ってくれてる。


“そんなわけないわよね。ごめんなさい。ちょっと、からかったみただけ。可愛いじゃない“


ズレた事を言う。可愛いとは、またしても俺の事を馬鹿にしてる。


アサミさんの目線がユミに行く。


‥‥もういいか。【気付かないフリ】も疲れてきた。


“おい、アバズレ“

黙ってる。

【どうなったの!?】から先、顔は下を向いたままだ。

“なによ“


“なぜ怒らない“


“‥‥は?“


“自分の連絡先を勝手に賭けられたことを、いつもなら【何考えてんだよ】とか言いそうなもんだ“


“それは“

“アンタなら、あんな奴に負けないから“


“そうだよなぁ、一戦交えて、俺に惨敗した小娘だもんな。きちんと守ってんのか?【俺とのギャンブルに負けた時にした約束】は“


“あー“アサミさんが棒読みで口をはさむ。

“そうそう、なんか最近、めっきり男の話しなくなったのよー。顔を合わすたびに、つまらない男の話を聞くの、正直けっこう疲れてたから助かるんだけど“


“それはよかった。ちゃーんと、お姉さんの言うこと聞くんだぞ。小娘“


“そうよ。私のアドバイス通りにしとけば【本当に好きになった人】を逃したりしないのよ?“


ユミは唇を尖らせてる。

まだ、俺たちの会話の真意を読み取れてない。

【鈍感はどっちですか】

【やっぱり、タロちゃんは気づいてたのね】

【気付かないフリが苦痛なほど、分かりやすいでしょ】

【それは、そうね】


“アサミさん、通報。表に倒れてる男がいましたので、救急車を!【一人の人間】として発見してください“


【何よ。もう少し、からかいましょうよ】

【もういいでしょう。分かってますね?】

【分かってますよーだ】


翌日、アサミさんは第一発見者として証言してくれるだろう。

“初めて見る人だ“


輩が何を言っても、ウチの店に関する事は

“記憶が混濁してるのね“と言ってくれることだろう。


“帰るぞ、アバズレ“

“やだ“

“襲ってやろうか“

“出来るもんならやってみなさい。どうせ女に触るのも躊躇うくせに“

無駄に膨らんだ胸を突き出して見せる。


“まだ、分からんか“


ユミが身体を強張らせる。

【そんなだから悪い男に遊ばれるんだ!】と、また言われる。と思ってるらしい。


“ちがうもん“

“約束、忘れてないもん“


“いや、だから、そうじゃなくて“

涙目のまま顔を上げる。

辞めろよ。無理なんだよ。

“この店、職場恋愛、禁止なんだよ“


ユミの中で、全部繋がったらしい。

耳まで、赤くしてる。


“とりあえず、約束、守ってろよアバズレ“

“分かってるわよ、ドーテイ“



なんか、甘酸っぱい、不慣れな空気に、耐えられない。

ダメだ。気分が優れない。

“疲れた“膝をついて、つぶやくと。

“やっぱり、どこか怪我してるんじゃないの?“とお門違いなことを言う。

そんなユミに一瞥くれてやる。

【この疲れの半分はお前が原因だ】

という意味を込めたのだが。

ユミは、ただたださらに顔を赤くするばかりだった。



そして、この“恋“とやらは

成熟する寸前で、誰も予想しなかった形で刈り取られることになる。

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