第2話 天体の音楽

「この曲、何ていうの?」

リビングには、コーヒーの香りの合間を縫ってクラシック音楽が流れていた。

雪香の母親は、夕食後コーヒーを飲みながら音楽を聴くことを習慣にしていた。仕事で疲れた心身にはテレビは刺激が大きいと言って、ニュースだけ見てすぐテレビを消し、FMラジオのクラシック番組かあるいはCDを聴いた。

聴覚だけ残してあとは現実から閉ざせば、心地よい音楽が心を洗い清めて行くのだった。

雪香は、食後リビングにしばらく居て母親と音楽を聴きながら会話をするのが常だった。それもあまり長い時間ではなく、母親が一人で音楽を堪能できるよう頃合いをみて自室に行った。

母親が聴くのは大抵クラシックだった。洋楽のこともあったが、クラシックが最良の精神安定剤なのだと言った。


その夜母親がCDで聴いていた曲は、雪香が聴いたことがあるようで初めて聴く曲だった。

「『天体の音楽』っていう曲よ」

雪香の問いに母親はそう答えた。

「てんたい? 星とかの天体のこと?」

「そう。ヨーゼフ・シュトラウスの代表曲」

「え、ヨハン・シュトラウスじゃないの?」

ワルツ王ヨハン・シュトラウスは雪香も知っていて、今流れている曲もそういえばシュトラウス特有のワルツだった。

「ヨーゼフはヨハンの弟なの。あまり知られていないけど。『天体の音楽』もヨハンの曲に比べると知名度が低いわね」

雪香はこの「天体の音楽」という言葉に魅力を感じた。

曲自体は典型的なワルツで天体のイメージとの親和性はあまり感じられなかったが、無音の宇宙できらめく星々は音楽を奏でているように思われた。

「ピタグラスの『天球の音楽』からとったタイトルなの」

と母親が教えた。

「ピタゴラス? ピタゴラスの定理って聞いたことあるけど」

「そう。ピタゴラスは古代ギリシアの賢人で、数学者、哲学者だったの。『天球の音楽』というのは、天体が地球を中心とする球体(天球)の上を運行していて、その時に出す音が和音(ハーモニー)になっているという理論。

数学に裏付けられた難しい思想なのだけど、要約するとすごく素敵よね」

「へえー、そうなの」

雪香は、たった今知った事柄が自分の心にパチパチと感銘の静電気を起こすのを感じた。

ピタゴラスは詩人ではなく数学、哲学者だったが、その「天球の音楽」の理論は雪香には表面のロマンティシズムだけ伝わってきた。

いかに賢人とはいえ、科学がまだ発達していなかった時代の発想は迷信と妄想に彩られて、空想を甘く刺激するのだった。

宇宙の天体はそれぞれ音を出し、宇宙全体が一つの大きなハーモニーを奏でているという考えは、雪香を魅了した。

その音楽は人間が生まれた時からずっと聞こえているので麻痺して聞こえない状態になっているという。しかしそれなら何かの拍子に、たとえば体験したことのない静寂の中に浸った時とかにふと天上からのメッセージのように聞こえてくるのではないだろうか。

「科学の発達って、ある意味残酷だよね。ロマンを壊すから」

母親は娘の無邪気な言葉に苦笑し、コーヒーを一口飲んで言った。

「そうとも言えるわね。月がそのいい例で、昔の人は月から使者が迎えに来て月の都に帰って行くかぐや姫の話を実話のように思っていたんでしょうけど、実際月にロケットが行く時代になると、月は黄色く朧ろに輝く天体というイメージから一転して、クレーターだらけのあばた面の素顔が暴かれてしまうのね」

「うーん、でも実像がわかっても、地球から見る月は変わらずきれいで幻想的だね。スーパームーンとかオレンジ色で大きく見えるし、やっぱり月の魔力とか幻想はなくならない気がする」

「月に対するロマンティックな幻想を失いたくないという、人々の強い思いがあるんでしょうね」

と母親は雪香に同意した。


「そういえば、今夜ふたご座流星群が見えるってニュースで言ってたね」

「そうね。流れ星が見られるかもしれないわね」

「流れ星って言っても、本当に星が流れるわけじゃないんでしょ。この間火球が目撃されたニュースの時、火球は流れ星の中で特に明るいもので、その正体は隕石とか岩の欠片だって言ってた」

「流れ星は本物の星だって思ってたの?」

子供にありがちな誤解だと、母親はほほえましさを感じてクスリと笑った。

自分が流れ星の正体を知ったのは、いつのことだっただろう。何かきっかけがあったのだったか。

母親しばし、自身の過去の物思いにふけるように沈黙した。


コーヒーカップは空になり、音楽はやんでいた。

空になったコーヒーカップの中に、流れ星にまつわる記憶が注がれていく。それは次第に、これまで星に祈った願い事の堆積になった。

「流れ星、見たことあるの、雪香?」

「最近はあまりないなあ。星空を眺める余裕もないし」

「流れ星も、科学が発達する以前の時代のロマンよね。何の知識もない昔の人が見たら、星が流れていると思ったとしても無理ないわね。宇宙の塵が大気に飛び込んで発光した現象だなんて、知る由もないでしょうから」

「チリ!?」

「そう。それが流れ星の正体よ。一言で言うと。しかも、1ミリからせいぜい数センチ程度の大きさ」

「塵が飛び込んできて光るって、流れ星のイメージぶち壊しじゃない! そんなのに神妙に願い事を唱えるって、滑稽だよ」

「火球ぐらいの大きさだと小惑星の欠片とかだけど、流星群は彗星の塵なの。知ってた?」

「ううん」と雪香は首を横に振った。

「彗星はその軌道に塵を放出するの。彗星の軌道と地球の軌道が交差すると、その塵がたくさん地球の大気に飛び込んできて光を発する、それが流星群よ」

「ということは、ふたご座流星群といってもふたご座とは関係ないの?」

「関係ないわね。単にふたご座のあたりから流れ星が降り注ぐように見えるだけ」


ふたご座流星群が実際に宇宙の彼方のふたご座あたりにある星々が流れているものだと雪香は信じていたわけではないが、あからさまにそうではないと聞かされると、夢を一刀両断されたような気がして落胆した。

星が流れるということは、本当にはないのだろうか。

地球は太陽の周囲を回っていて、太陽系も銀河系もかなりの速度で動いているという。そして、宇宙全体は膨張を続けている。

そう考えると、逆に宇宙のものすべてが動いているということだ。その中で、流れる星というのがあってもおかしくないのではと雪香は思った。


母親は別のCDをかけようと、椅子から立ち上がった。雪香はそろそろ部屋に行こうと思ったが、その前にベランダに出て流星群を見てみることにした。

暖房の効いた室内から出ると、冬の夜気が敵意をむき出しにしてひんやりと肌に触れた。

1時間に10~15個ぐらいの流星が見られると言っていたが、1時間ここにいるのはきつい。せいぜい10分というところと考え、雪香は流星を吸い寄せるように深呼吸した。

この辺では明るいし雲もあるので無理かと思ったが、雪香の思いが通じたのか、数分もした頃夜空に一瞬閃光が走るのを彼女は目撃した。

まさにあっという間の出来事だった。

流れ星が見えるのは束の間で、願い事を3回唱えるのは不可能と言われているが、雪香はそれを成し遂げた。

「スマホ、スマホ、スマホ!」


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