最終章:美帆

 その時、リョータは横倒しになった冷蔵庫の上に座り、脚をブラブラさせていた。下からそれを押し上げようとする力が消失して、既に数分が経過していた。彼のつま先は下を流れる下水をピチャピチャと弄んでいる。口元からは、あのリョータの歌・・・・・・がいつもよりゆっくりとしたテンポで流れ出ていた。その声は何処までも続いていきそうな無の空間を満たし、静かに拡散していった。

 「随分と懐かしい歌、知ってるんだね。私の青春時代の歌だよ、それって」リョータの隣に座る女が続けて聞いた。「これからどうするの?」

 リョータはその質問には答えず「これで良かったの?」と質問で返した。

 最後に冷蔵庫を被せたのは松尾だった。奈落の子供達が『神様』と呼んでいる、あの冷蔵庫だ。リョータはもう一度聞いた。

 「本当にこれで良かったの? シュニン殺しちゃって・・・ 仲間だったんでしょ?」

 「いいの。仲間っていうか・・・ 父親みたいな感じだったかな」

 「お父さんを殺したの? どうして?」

 「どうしてだろう? けじめ? みたいなもんかな」

 リョータと同じように脚をブラつかせながら松尾は応えた。

 「ふぅ~ん」

 「あぁ、あの人、主任って名前じゃないからね。それって役職だから」

 「ヤクショクって何?」

 松尾はクスリと笑った。

 「兎に角、彼の名前は須藤っていうんだ」

 「んん~・・・ どうでもいいや」

 「須藤が昔、射殺した男には娘がいたの。それが私」

 松尾は問わず語りに話し出した。


 「それを契機に母は頭がおかしくなって、餓死だか病死だか判らない死に方をしたわ。その死を避けられないことが判明した頃、独りぼっちになってしまう私を案じた母は ──頭がおかしくなっていても、娘を想う心は残っていたのね── 私を養子に出した。そして親切な家に貰われて松尾の姓を名乗った」

 リョータはつまらなそうに聞いている。

 「前の職場でね、たまたま警察に転属できる機会が有ったの。君達を確保するっていう今の仕事ね。それで私は、両親を殺した奴に復讐するために新宿署を希望したのよ。父が殺されたのが歌舞伎町だったから、新宿署に違いないって思って」

 相変わらず足元の水を弄んでいるリョータには、新宿だの歌舞伎町だのと言ってもピンと来ないのだろう。それでも松尾は続ける。彼女は自分の行いを言葉にすることによって、罪状認否を行い、誰かに語って聞かせることによって、判決を下そうとしているのだった。今度こそ本当に終わらせようとしているのだ。

 「ちょっと調べたら直ぐに判った。須藤が撃ったってことがね。あの当時の私や母には判らなかったけれど、大した罪でもない犯罪で射殺されたみたいね。正当防衛ってことで処理されてたけど、父が所持していたという凶器に関する記述も無し。丸腰の父がどうやって須藤の命を脅かしたっていうのかしら?」

 当時のことを思い出したのか、松尾は少し険しい顔つきになった。あの当時の怒りやら絶望やらを思い出しているのかもしれない。

 「以来、好機を待っていたら、偶然にも須藤と組めたのよ。こんなラッキー、信じられる? あはははは」

 松尾が視線をリョータに向けると、彼は包帯代わりに巻いた左手の布の具合を直していた。もう彼女の話を聞いているのかどうかも判らない。それを見た松尾はリョータとの距離を詰めた。彼の左手を手に取った彼女は、止血用の布を巻き直してあげながら続けた。

 「あなたが自分の手を切ってまで残した血痕にまんまと騙されたわね、彼。あれを私の血だと思って、血相変えて飛んで来たんですもの」

 左手を松尾に預けている間、リョータはジッと彼女の横顔を見詰めていた。

 「あなたはカナエの仇を、私は両親の仇を取ったってわけ。神様っているんだね。あはは・・・ これでヨシ」

 左手の具合を確認しながらリョータは言う。

 「仇を取ったって言う割には、随分と悲しそうだね。ちっとも嬉しそうには見えないよ、お姉さん。何だか泣いてるみたいだ」

 リョータの澄み切った眼差しに射抜かれた松尾は、一瞬だけ見詰め返したが、直ぐに居心地が悪くなって視線を逸らした。そう、復讐を果たした達成感と、大切な人を失った喪失感で彼女の心の中には混沌が渦巻いていた。本当に自分は須藤を殺したかったのか? そんなことにどれ程の意味が有ったというのか? 父親を失うという子供の頃の経験を追体験させられて、あの当時の苦しみや悲しみを思い出しただけじゃないのか? 塞がっていた傷口が再びパックリと口を開け、ドクドクと脈打つ鮮血が流れ出していた。そのことを深く考えるとよく判らない涙が溢れてきそうで、無理やり話を逸らすのだった。

 「私、あなたには感謝してるのよ、これでも。二重の意味でね」

 「二重の意味?」

 「そう二重。一つは私の復讐に協力してくれたこと。それだけじゃなく、最後に直接、私に手を下させてくれたでしょ。これでやっと私も踏ん切りがつくっていうか、自分の人生を歩けるっていうか・・・」

 「ふーん」

 「そしてもう一つは、殺す気も失せるほど腑抜けになってしまっていた彼を、再びあの頃の彼に戻してくれたこと。私の父を容赦無く射殺した『冷徹の須藤』にね。それで心置きなく実行に移せたってわけ。最初に組んだ時、彼ってただの人のいいお爺ちゃんだったんだから」

 『レーテツのスドー』の意味は解らなかったが、たいして重要なことでもなさそうだ。リョータは先ほどと同じ質問を繰り返した。

 「スドーを殺しちゃったから、お姉さんのお父さんがどうして殺されなきゃならなかったのか、永久に判らなくなっちゃったよ。それで良かったの?」

 松尾は「フッ」と笑った。

 「今更、理由なんてどうだっていいわ。私は早くケリを付けたかっただけなの。あなたの復讐に乗っからなきゃ、私の心は復讐の相手を失って永遠に彷徨うことになっていたんだから」

 先ほど松尾の口から出た質問を、今度はリョータが聞いた。

 「これからどうするの?」

 「どうしよっかな・・・ 私も奈落に潜ろうかな」

 「ナラクって何?」

 松尾は可笑しそうに言う。

 「あぁ、そっか。君達はそう呼ばないんだったね。つまりこの地下のことだよ」

 「お姉さんさぁ・・・」

 「ミホ」

 「?」

 「私の名前、ミホっていうんだ。美しいに帆掛け船の帆で美帆・・・ つって言っても判るわけ無いか、漢字なんて。父親は中国人でさ、中国語読みだとメイファンって読むらしいんだけど、私は日本人として育ってきたからミホでいいよ」

 「じゃぁさ、ミホ。ジェイの店を継いでよ。僕達にはあの店が必要なんだ」

 松尾は目を丸くしてリョータを見た。

 「それイイかも」

 「僕ね、薬が欲しいんだ」

 「薬? 何の薬かしら?」

 「皮膚病。本当は犬用の薬がいいんだけど・・・」

 「へぇ~、犬飼ってんだ?」

 「行こうっ! 逢わせてあげるよ!」

 リョータがミホの手を掴んで横倒しになった冷蔵庫から飛び降りると、彼女もそれに倣って飛び降りた。その弾みで水が飛び散って、二人のクスクス笑いにキラキラとした余韻を付け加えた。

 「あっ、それからラヂオも!」

 リョータはあの歌を口ずさみながら歩き出した。その歌の木霊は、薄暗い下水道の円筒状の空間を満たしながら二人の背中を押した。歌声は湾曲した壁面で揺れる二人のひしゃげた影と共に、漆黒の夜明けが待つ未来に向かって徐々に遠ざかっていった。




アスノヨゾラ哨戒班

詞、曲:Orangestar

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トーキョー・チルドレン 大谷寺 光 @H_Oyaji

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