「松尾ーっ! 松尾ーーっ!」

 呼んでも返事が無い。須藤は「ったく、何やってんだ」などとぶつくさ言いながら、二人が殺害された犯行現場に足を踏み入れた。ソファに残る血痕も生々しく、まだ乾き切ってすらいない。若くてバリバリと仕事をこなしていた頃から、須藤はそうだった。ほとけが運び出された後の現場の方が重苦しく感じられるのだ。それはきっと遺体が醸し出す不気味さとは別次元の、思念とか情念の様なものを想像力が勝手に補完することによって、必要以上に何かを訴えかけるからなのだろう。殺しの捜査から離れて久しく、忘れていた感覚が戻って来るのを感じた。

 「松尾! 何処だ?」

 須藤はぐるりと辺りを見回した。やはり居ない。しかし・・・。松尾の姿はどこにも見当たらないのだが、何かが彼の敏感なセンサーを刺激していた。何だこの違和感は? 犯行現場特有の密度の濃い空気による錯覚だろうか? 今度はゆっくりと首を巡らせる。彼の右手は、自然と上着の中のホルスターへと延びていた。

 クローゼットだ! 扉が開いたまま放置されている。その中にハンガーに掛けられたジェイと女 ──マリアといったっけ?── の服が見える。ただ不思議なことに、何枚かのシャツが揺れているのだった。それが違和感の正体だ。

 風も無い地下街の部屋なのに。空調? 何処から風が? そう言えば微かな空気の流れを感じる。須藤はニューナンブを抜き、クローゼットに対し斜めの角度を保ちながら近寄った。開け放たれたクローゼットの扉の陰には誰も居ないことを素早く確認し、それに背中を預けるような格好で中を覗き込んだ。しかし改めて確認するまでも無く、中は無人だ。だが確かに、この中からひんやりとした風が流入しているのが判る。須藤は拳銃を握る右手で衣類を掻き分けた。

 「!!!!」

 須藤はクローゼットの底にどす黒い染みを見つけた。片膝をついて指ですくってみると、それは明らかに血液だ。それもまだ新しい。ジェイやマリアのものとは考えられない。いったいここで何が有ったのだ? 彼はそのままの姿勢で上を見上げた。そして驚愕が須藤の顔に張り付いた。

 「クソッ! こんな所に抜け道が有ったのか!」

 彼が見つけたのは、クローゼットの天井板が外され、そこにぽっかりと覗いている黒い空間だ。風はそこから吹き込んでいる。状況は明確だ。松尾がリョータに拉致されたのだ。


 その抜け穴は ──まず間違い無く奈落へと続いているはずだ── 成人男性が通るには厳しそうなサイズだが、少年達や小柄な松尾だったら通れるに違いない。しかも彼女が負傷している可能性が高いのは、この足元の血痕を見れば明らかだろう。須藤は店を飛び出すと地上に駆け上がり、むせかえるような夏のアスファルトの上を走った。

 その一方で須藤は、今までには無い違和感を感じていた。少年達がここまで執拗に仕掛けてくることなど、今までは無かったはずだ。いや、仕掛けてくるどころか、今まで一度だって、向こうからちょっかいを出してきたことなど無いではないか。そこには、追う者と追われる者の明瞭な境界線が存在していたはず。ところが、遂にリョータはその線を跨いでこちら側にやってきた。やはり、何かが変わってしまったのだ。これまでとは違うルールに則ってゲームを続けねばならないことを、松尾の拉致という手荒な手段でリョータは宣言したのだ。

 何が奴を変えてしまったのだろう? それが図書館跡に残されていた血痕と、何らかの関係がある様な気がしてならなかった。


 必要以上に蒸し暑い東京の夏が、新宿通りを東へと走る彼を苛立たせた。途切れることの無い車列も、車が垂れ流す排気ガスも、何もかもが腹立たしかった。熱せられたアスファルトから立ち昇る陽炎が神経を逆撫でし、街に覆い被さるようにして張り付く騒音という名の昆虫は、その毒々しい触手を伸ばして須藤の心の中の瘡蓋かさぶたを引き剥がそうとしている。だが最も許せないのは自分自身だ。呑気に現場検証をしているうちに、まんまと相棒が拉致されてしまったのだから。自分の不甲斐無さに腹が立ち、彼はやり場のない怒りを持て余した。

 四谷へと辿り着いた須藤は、直ぐに例の図書館跡に駆け込んだ。

 「リョータ! 居るんだろ!? リョータ!」

 実際のところ須藤は、そこにリョータがいると期待してはいなかった。しかし、拉致した松尾を、あの地下室の何処かに幽閉しているかもしれないという淡い期待が無かったわけではない。殺すつもりだったら、その場でやっていたはずである。殺すつもりが無いからこそ拉致したわけで、人質を安全に・・・確保するためにここは格好の場所だったからだ。

 しかし、彼がまず最初にこの場所を選んだ本当の理由は別に有った。それは壁に見つけた亀裂だ。奈落へと通じているであろうあの亀裂からのアプローチが、リョータへの近道だと思えてならない。そこには合理的で理詰めの推察が有るわけではなかったが、須藤の刑事としての感がそう告げていた。


 慎重な下調べだと? 下らない。

 捜査体制を整えてから? バカバカしい。

 上司の許可を得ろだって? 寝言は寝てから言え!


 そんなごたくを並べている間に、犯人ほしは次の犯罪を犯すかもしれないではないか。人質となった松尾が、次の被害者ではないと誰が言えるのか。事件解決のためには ──特に殺人が絡む今回のような案件では── 全ての規則を一旦放棄して、一気に詰めなければならない局面が有るのだ。それが今だ。自分はいつだってそうやって来たし、そうすることで数々の困難を切り抜けてきたのだ。


 例の亀裂に身体を滑り込ませた須藤は、故意に置かれていると思しき瓦礫を越え、更に奥へと進んだ。そして身体を半身にしてやっと通れるくらいの隙間を通り過ぎると、一気に広い空間へと降り立った。圧迫されていた空間から解放されてホッとする。そこは慣れ親しんだ下水道の中だった。

 「慣れ親しんだ・・・か」須藤の心には皮肉な想いが浮かんだが、笑うことは出来なかった。松尾の安否が気になって、自分自身を嘲笑う余裕は無かったのだ。懐中電灯を取り出した須藤は少しずつ前へと進む。現在地が四谷であるということ以外、何も判らない。下水管などどこも同じように見えるので、そこがかつて通ったことが有るエリアなのかすら判らなかった。だが元々、奈落で行き先が明確に判っていたことなど殆ど無いではないか。自分の感を信じるんだ。本能が指し示す方向に獲物がいる。

 すると進行方向の遠くから、微かな音が聞こえた。

 カランカラン・・・。

 須藤の足元は深さ数センチほどの臭い水に洗われ、ピチピチとした水音を立てている。その合間をぬうようにして、何かを蹴飛ばしたような音を須藤の鋭い聴覚が捉えた。彼は音のした方に向かってジリジリと進んだ。

 既にリョータは、警察から逃げ回るだけの無害な子供ではない。ジェイとマリア殺害の重要参考人で ──ベテラン刑事の感は、リョータがであると既に結論付けているが── 松尾すらも拉致、監禁している公算が高い。彼女が既に殺害されている可能性も考え併せると、少なくとも三人の命を絶った殺人犯の可能性が有るのだ。

 しかし須藤は直ぐに、その考えを否定した。いや、松尾はまだ大丈夫だ。彼女が易々と殺されるはずなど無いのだ。須藤は上着の下のホルスターに手を伸ばしたが、まだ早過ぎると考え、その手は何も掴まずに戻ってきた。だが、松尾を守るためであれば、自分は躊躇なく引き金を引くだろう。相手が子供だろうが、そんなことは知ったことか。俺の相棒を傷付けたリョータは、その重過ぎる代償を払わねばならないことを知るべきなのだ。

 その時だ。何かが急いで駆け出す気配を察知した。須藤は咄嗟に反応し、音の方向に一歩足を踏み出す。すると須藤は胃袋が浮く様な奇妙な感覚に襲われた。何故ならば、そこに有るはずのものが無かったからだ。須藤の足を受け止めるべき地面が、足元を洗う排水の底に存在しなかったのだ。

 「うぁっ・・・」

 ざばぁぁ・・・ん。

 浅い水の流れが続いているとばかり思っていたが、そこにはひと一人がスッポリ入る様な深みが隠れていたのだ。それは、かなり深いと言うより下方向分岐した直径六十センチくらいの縦坑で、たっぷりと水が溜まっている。おそらく地震などの影響によって閉塞した区間が水で満たされ、その入り口が水に覆われていたのだろう。それは正に、水を一杯に満たした落とし穴と言って良かった。

 落ち込んだ際の勢いで、一旦は全身を水没させた須藤であったが、彼の身体が押し退けた水の体積分が浮力として作用し、ポカリと首だけが水面に浮上した。彼は肩まで水に浸かり、訳も分からないまま落とし穴から顔だけを出しているような状態だ。当然のことながら彼の脚が地面を捉えることは無く、垂直に立った土管の壁面を擦っている。今、彼の身体を支えているのは、縦坑の縁を掴む両手と、ヌルヌルとした土管の壁を蹴る両脚の僅かな摩擦係数だけだ。直径が小さ過ぎるとかえって手も脚も突っ張ることが出来ず、申し訳程度の力でその体重を支えていた。

 「くっそ・・・ 何なんだこれは・・・」

 須藤が両腕に力を込めて、この狭すぎるプールから這い出そうとした瞬間、五メートルほど前方の側孔からゆっくりと人影が現れた。リョータだった。彼の左手には、血の滲んだ包帯の様なものが巻かれている。須藤はそのままの姿勢で動きを止めた。


 見つめ合うリョータと須藤。落とし穴から首だけを出す須藤をリョータが見下ろす。こんなに面と向かってリョータに正対したのは初めてだったかな? 須藤はそんなことを考えた。今の須藤には逃げ場は無く、拳銃は脇のホルスターに収まったままだ。直ぐにでもそれを抜いて、水中から射撃の体勢をとるべきだろうか? 須藤が逡巡していると、リョータの右腕が動いた。その手には何かが握られている。キラリと光る何かだ。どこかで見たことが有る様な光景だ。それを見た一瞬の間に、須藤の頭の中では様々な出来事がフラッシュバックの如く駆け抜けたが、それらの記憶を蘇らせながらも彼は既に次の行動に移っていた。時間を掛けて考えている暇は無いのだ。結論が出るのを待っていては、こちらがやられてしまう。脳からの指令が届く前に、刑事としての本能が身体を動かした。それはむしろ、思考が行動を後追いしている状況だったが、それこそが『冷徹の須藤』の真骨頂だ。


 彼は縦坑の縁を掴んでいた右手を放し、それを上着の下に滑り込ませた。

 やめておけ。周の時は子供が作った金メダルだったろ?

 須藤の右手は水中でホルスターの留め金を外した。

 前回は自転車の折れたブレーキレバーだったことを忘れたのか?

 そして抜き取ったニューナンブのグリップを握る。

 だがジェイとマリアを殺したのは、そこにいるリョータかもしれない。

 身体に浸み込んだ慣れた一連の動作で、彼は安全装置を解除した。

 それよりも、クローゼットに有った松尾の血痕が緊急性を示しているじゃないか。

 須藤は引き金に指を掛けながら、拳銃を水中から上げて両手で構えた。


 半ば水に浮かんだような不安定な体勢で、須藤はリョータの眉間に狙いを定めた。しかし射殺するわけにはいかない。何故ならば、拉致された松尾の居場所を吐かせる必要が有るからだ。須藤は一旦は眉間に合せた照準を下げ、リョータの右太腿辺りを狙う。

 すると突然、彼がはまり込んでいる縦坑の横にあった何かが、大きな音と共に頭上に倒れ込んで来た。それは大きな箱状のもので、須藤はそれを支えようと思わず腕を伸ばしたが、とても支えられるような状況ではないし、支え切れるような軽い物でもなかった。彼の頭は薄汚れた水の中へと強引に押さえ込まれ、その弾みで手にしていたニューナンブは底の知れない濁った水底へと沈んでいった。一気に水中に押し戻された須藤は充分に肺を膨らます暇も与えられないまま、酸素の供給を絶たれることになった。

 何だコレは? 須藤は必死でそれを押した。だが彼の脚が踏ん張れる所など何処にも無い。ヌルヌルとした土管の内面を両脚で引っ掻くようにして力を込めたところで、それを押し上げられるほどの力は発生しなかった。その表面はツルツルとした塗装が施されている鉄板か何かのようで、須藤が押す度にベコベコと凹みはするが、本体そのものはびくともしないのだ。そのうち、徐々に気が遠くなり始めた。自分は助からない。そう直感した。


 酸欠に陥りつつある脳が、須藤の意志とは関係なく迷走し始めた。ポコポコという気泡の弾ける音が須藤の耳を包み込んでいる。それ以外は何も聞こえない。確か昔にも、こんな風に水中で静寂に身を委ねたことが有ったような気がしたが・・・ あれはいつのことだろう? あれは本当に水の中だったのだろうか?

 須藤は目を閉じた。いつか何処かで見た風景が蘇る。灼熱の町並み、亡霊のような人、人、人。耳を覆いたくなる騒音は・・・ 聞こえない。その代わり、水の向こうからくぐもった声が聞こえたことを思い出した。確かあの時は、巨大なスクリーン上にニュース番組が映し出されていたはずだ。そう、あの時も、今日と同じような蒸し暑い夏だった。ただし、今聞こえてくるのはニュース番組の音声ではなく、聞いたことの無い歌声だ。こんな地の底で歌が聞こえてくるなんて、いよいよ最期の時が近付いているのだろうか?

 その時、ふと蝉の声が聞こえた様な気がした。辺りを見回す須藤には、その姿を見つけ出すことは出来なかった。フッと笑う。もう自分が水の中にいるのか、慣れ親しんだ歌舞伎町にいるのかすら判然としない。須藤は頭上を塞ぐものを押し上げることを止めた。すると彼の心は一瞬にして自由の翼を獲得し、若かったあの頃の自分に飛んでいった。

 「なぁんだ、やっぱり歌舞伎町じゃないか」須藤はそう思った。

 それと同時に、つい先ほど何処かで嗅いだことが有る甘い香りを感じたことを思い出したのであった。


 金木犀だろうか?


 須藤の意識は、歌舞伎町の人ごみの中に消えて行った。

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