署に連絡を入れて鑑識を呼んだ二人は、駆け付けた署員達に『J』の後始末を託し、そのまま四谷へと向かった。しかし上智大学は既に郊外へと移転しており、かつての学び舎の数々はその殆どが姿を消している。そこは再開発に向けた区画整理が進行中で、地上から地下へのアクセスは困難と思えた。

 「やはり地下鉄の四ツ谷駅から潜るしかないな」

 そう漏らす須藤の横で、松尾が何かを指差した。

 「主任。あれ」

 区画整理中にあって、小楢や楓が残された一角が見えた。かつては緑豊かな森だったのであろう、その残渣のような樹木の陰に地上二階建ての建物がひっそりと佇んでいる。外壁を彩る本レンガもあちこちで剥がれ落ち、ガラス窓もその殆どが割れていた。打ち捨てられた廃洋館のような風情だが、その立地から考えて大学の施設であったことは間違いない。この建屋もじきに取り壊される運命なのだ。須藤と松尾はその廃墟に惹きつけられるように近付いていった。


 ビルの出入り口の庇には、その建物が何であったのかを示す看板か何かが取り付けられていた跡が伺えたが、肝心の看板は何処にも見当たらず、それが何のための施設であったのかは判らなかった。エントランスは施錠されているようだが、ドアとして残っているのはステンレス製の枠のみで、そこに嵌められていたであろうガラスは消失している。わずかに残るその破片をガリガリと踏みしめながら、二人は内部に進入した。

 入り口付近の壁には、ボロボロになったポスターの切れ端が掲示板と思しきボードに残り、無に還る日を寂し気に待ちわびているようだ。かつては学生達の賑やかな声が木霊していたのであろうロビーにも、今は埃っぽい土が入り込んで、所々に小さな雑草が生えている。天板の一部が剥がれ落ち、そこから一階と二階の狭間にある電気配線などの為のスペースが顔を覗かせていたが、そこから枯れ草が何本か垣間見えるのは、きっと雀か鳩が営巣した跡なのだろう。その真下の床面は鳥の糞が難解な芸術作品を作り上げていた。これらの過ぎ去った日々と今を一緒くたにして抱え込み、そのビルは都心の一角に蹲っていた。

 それ程大きな建物ではないが、それなりに部屋数は有る。本来であれば二手に分かれて、効率よく探索したいところだが、松尾を一人にするのが躊躇われた須藤は、一部屋一部屋を二人で調べて回ることにした。

 「図書館ですかね?」松尾が囁いた。

 部屋の内部には本棚と思しき物があちこちに放置されていて、そこにはかつて大量の書類が格納されていたことを示していた。同時に机や椅子も数多く見受けられることから、単なる書庫ではなく図書館のような機能を持っていたと思われる。しかし、本そのものは一冊も見当たらず、大学移転と共に中身だけは持ち出されているようだ。

 「あぁ、そのようだな」

 手短に応える須藤の手には、ホルスターから抜き取られた拳銃が握られていた。その安全装置が外されているかどうかまでは、松尾には確認できなかった。


 一通り調べて回ったが ──唯一、地下へと続くと思しきドアを除いては── どの部屋にも人がいた形跡は無く、ただの廃墟と思えた。須藤は最後に残った鉄製のドアに取り付き、ドアノブに手を掛けた。須藤の緊張が一段階上がったのを感じた松尾は、思わず自分の腰にある拳銃に手を伸ばす。しかし、その気配を感じて振り返った須藤は、囁くように言った。

 「君はやめておけ。射撃訓練なんてしたこと無いんだろ?」

 松尾は黙って頷き、ホルスターから手を離した。考えてみれば、どうやって安全装置を外すかすら怪しいことに、松尾は気が付いた。実弾が入っているのか確認すらしたことはない。おそらく自分が拳銃を使う時は、それこそ単なる威嚇にしかならないだろう。

 「それにしても・・・」と松尾は思う。どうしてリョータがジェイを手に掛けたのか? ひょっとしたら自分とのコネクションに気付いたのだろうか? だったら彼が殺された原因は自分に有るということだ。ジェイがまんまとリョータの凶行に墜ちてしまったのは意外だったが、松尾は彼の死に責任を感じずにはいられなかった。そしてマリアの死にも。

 あの自立支援施設で初めてジェイに出逢った時から、これまでに交わした数々の会話が思い出された。周囲に対し頑なに心を閉ざしていた彼が、徐々にその錆び付いた鉄扉を押し開いてゆく過程を、松尾は期待に満ちた気持ちで眺めていたものだ。情が移っていなかったと言えば嘘になる。

 しかしある時を境に、二人は利用する者とされる者という関係になった。そう。彼女が新宿署に出向してからだ。ジェイはそれに不満を漏らすわけでもなく、ただ黙って松尾の指示に従った。彼はどんな思いでそれを受け入れていたのだろう? 彼の気持ちを確認する機会を永遠に失ってしまったことが、彼女の罪悪感をより一層深いものにしていた。結局、彼の可能性の芽を摘んでしまったのは自分なのだ。こんな結末を迎えさせるために、自分は彼を社会復帰させたのか?

 「行くぞ」須藤の声が松尾を現実に引き戻した。

 須藤がノブを回そうと手に力を込めたが、それは回らなかった。ロックされている。もう一度よく見ると、そのドアはこちら側から施錠されているようだ。須藤がドアノブの下にある小さなつまみを横から縦へと捩じると、カタンという音と共にロックが外れた。須藤はもう一度ドアノブを掴み、そしてゆっくりと回した。


 今度は回った。


 ほんの僅かだけドアを開け、その隙間から中を窺う須藤は、そこに人の営みを感じた。それは埃や黴の匂いが支配的な廃墟のそれではなく、もっと生々しい生きた匂いだ。汗や体臭などの生物としての人間の匂いと、食事やトイレなどの生活臭の混じった匂い。これらの張本人がリョータかどうかまでは判らずとも、そこに誰かが棲んでいることは明白だ。しかも一人ではなく、もっと大勢とみて間違い無いだろう。

 警戒しながら降りた階段の先には全部で四部屋。階段下には今でも使える水洗トイレが有った。その一つ一つに足を踏み入れる。須藤の拳銃の安全装置は解除されたままだ。

 左手前。ボロボロになったマットと毛布が数枚。誰かがねぐらとして使っていた風だが、今は誰も居ない。右手前。こちらも同じような状態で、色々なガラクタが目立つ。ただし、誰も居ないのは左手前と変わらない。左奥。その部屋には毛布などの寝具は見当たらないが、空き缶、カップ麺の器などが散乱していた。言ってみればリビングの様な部屋か。特徴的なのは壁の大きな亀裂で、覗き込んでみるとひんやりとした微風が流れ込んでいて、耳を澄ませば遠くから響く微かな地鳴りのようなものが聞こえた。大人がギリギリ通れそうなその亀裂が、奈落へと通じていると考えてよいだろう。地下の子供達にとって、こんなにも環境の良い物件・・は無いに違いない。ここに少年達が棲んでいたことは明らかだった。

 そんな中で右奥の部屋にだけ、他と違う空気が漂っていた。その違いを決定的なものにしているのは、須藤の鼻腔をくすぐる匂いそのものではなく、カラフルな色紙で折られた鶴などのインテリア・・・・・の存在だ。他の部屋にそんな装飾品は見当たらない。間違い無い。この部屋には女児が棲んでいたのだ。

 「あら、かわいい」折り紙を見た松尾が、思わず声を漏らした。「主任。この建物で張っていれば、リョータ達はいずれ戻って来るんじゃないでしょうか?」

 ジェイの最後の言葉とこの建物の状況、更にリョータと行動を共にしていた女児の存在。それらを繋ぎ合わせれば、ベテラン刑事でなくともここがリョータ達の隠れ家であるという結論に到達するだろう。松尾の意見は的を得ている。しかし須藤は違うと思った。

 「それは無い・・・ と思う」

 「どうしてですか? どう見ても彼らの隠れ家だと思いますが」

 「俺もそう思う。だが・・・」

 須藤が指し示したのは他の部屋にも有るような、マットレス上に広げられた粗末な毛布だ。だがその下からは、黒い染み状のものが覗いている。それに歩み寄った須藤は毛布の端を掴むと、バサリとめくった。そこに現れたのは赤黒い血痕であった。それもかなり大量の出血と言ってよい。松尾は息を飲んだ。

 嫌な予感がした。須藤は、何かが変わったような気がした。これからは、今までとは異なるルールが採用されるに違いないという、漠然とした不安の様なものが彼の心を支配した。



 須藤と松尾は手掛かりを探すために、再び『J』に戻っていた。今の所、確実な手掛かりが残っていそうな場所としては、この店と上智大学跡の図書館しかない。ジェイとマリアの遺体は既に運び出され、鑑識が一通りの捜査を済ませているようだが、少年達に繋がる何らかの情報が見落とされている可能性は捨て切れない。彼らを追い続けている須藤達だからこそ見通せる風景が有るかもしれないのだ。

 既に鑑識班らによる一通りの捜索が終わった後ということで、危険要素は無い。須藤と松尾は二手に分かれ、須藤が店内とキッチンを、松尾が寝室などの裏を調べることにした。奈落の少年達保護という案件が、いつの間にか殺人事件の捜査に取って代わっていた。


 生臭い血液の匂いが立ち昇るソファからは意識的に視線を逸らし、松尾がクローゼットの中を探っている時だ。いきなり何かが彼女の首に巻き付いた。それが人の腕である事が判った瞬間、頸動脈にヒヤリとした冷たい金属の感触が有るのを知った。

 「また会ったね、お姉さん」

 クローゼットの天井部分が抜け穴になっていて、そこから身体を乗り出すようにして松尾の首を捉えたリョータであった。

 「リョ、リョータ・・・」

 先ほど店から飛び出して行ったのは、自分がもう店の中にはいないと思わせる陽動作戦だったのか。二人の刑事が店先で話し込んでいる声を聞いて、咄嗟に考えた手にしては見事なトラップだ。松尾はリョータの頭の回転の速さに舌を巻いた。

 「おぉっと、動かないでね。今度のはブレーキレバーじゃないよ」

 確かにその冷たい感触には、鋭利なエッジの存在が感じられた。松尾は考えた。相手は十一歳の子供だ。幾ら役人上がりのひ弱な自分でも、その気になれば一方的にやられるはずはない。しかし・・・ 首筋の慈悲の無い刃物の感触は本物だし、その刃先に籠る殺意はそれ以上に本物だった。

 「お姉さんの相棒・・・ シュニンだっけ? あいつ、ピストルでカナエを殺したよ」

 驚いた松尾が目を剥いた。

 「ちょっと待って、何を言ってるの? あれは威嚇射撃だったはずでしょ・・・ って、あの子、死んだの?」

 「言い訳はそれだけ?」

 リョータは緩く握っていたハサミをしっかりと握り直した。それだけで、松尾の首筋に当てがわれていた切っ先は、彼女の右の首にうっすらとした赤い筋を残した。

 「ひっ・・・ や・・・ やめ・・・」

 松尾は思うようにもがくことも出来なかった。首に回されたリョータの腕が松尾の身体を若干持ち上げることによって、彼女は爪先立ちを余儀なくされていたからだ。その状態では素早い動きなど不可能だし、たとえ出来たとしても、松尾が体勢を整える前にリョータがほんのちょっと手首を動かすだけで、彼女の頸動脈は致命的な寸断を余儀なくされるに違いない。彼女の脳裏にマリアの惨たらしい姿が過った。かといって、もし大声を出せばリョータは躊躇なく行動を起こすだろう。ここは時間を稼いで、須藤が現れるのを待つしかないのか・・・。

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