第十一章:クローゼット
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「主任にも紹介しておきますね。彼の名前は淳二っていいます。仲間からはジェイって呼ばれてます」
松尾はドアを開けると、先に車外へ出た。彼女が寄り道をしたのは、須藤をここに連れてくるためだったのだ。須藤も続いて車を降りる。これから顔を合わせるジェイという男こそが、彼女が最も信頼を置く情報源の一人なのだろう。
「厚労省時代からの付き合いだっていう、施設にいた少年だな?」
「はい、そうです」
「君がスマホで連絡を受けている相手か?」
「その通りです」
道路脇の地下へと向かう階段を、松尾が先導して降りて行く。昭和や平成の頃であれば煌々とした照明が灯り、地下に軒を連ねるレストランや飲み屋へと人々を導いていたに違いないそれは、今は点滅を続ける切れかかった灯りで浮かび上がり、怪しげな墳墓への入り口の様な有様だ。十段ほど降りた所に踊り場のようなスペースが有り、そこに段ボールにくるまったホームレスが散らかったゴミと一緒に寝ていた。彼が生きているのかどうかも怪しかったが、須藤達に驚いたネズミが数匹、その段ボールの下から飛び出して逃げ惑うところを見ると、それはもう死体なのだろう。腐敗臭がしないところをみると、それはまだ
「君が言うことは極論だな。裏か表か、死ぬか生きるか、という極端な選択肢だ。しかし人類が今陥りつつあるのは、過去に前例の無い極端な状況だとも言える。そういった状況で意味を持てるのは、それこそ極論だけなのかもしれないな」
地下街に降り立った二人は、更に荒れた通路を進む。潰れたような店の狭間には営業をしている店も有ったが、こんな所で開業している奴らがまともなはずは無いし、その店に足を運ぶ客もまともではないだろう。この地下街で見かけた奴を誰彼構わずしょっ引いたとしても、かなりの確率で犯罪者を検挙できると思われた。松尾はカツカツと大股で歩きながら、須藤の言葉を受けた。
「倫理とか道徳って、或いは常識とか良識とかって、意外にこれまでの習慣で続けているだけ、ってことも多いような気がするんです、私。ただ止められないだけって言うのかな? 例えば主任と私の二人が人類最後の生き残りだったとします。そこで主任は事故か何かに遭って命を落とすんですが、最後にたった一人取り残される私に遺言状を残せるとしたら、何と書きますか?」
意外なことに、そこには人通りが有るではないか。どう見ても怪しげな連中が大勢を占めてはいるが、怖いもの見たさでここを訪れていると思しき仕事帰りのサラリーマン風情も見受けられた。店の看板の陰では、挑発的な服に身を包んだ女が男を壁に押し付け、自分の舌を男の首筋に這わせていた。その時の彼女の脚は男の太腿を挟み込み、男の股間をグリグリと刺激している。言うまでもなくここは、売春と脱法薬物の巣窟だが、そのどちらも須藤達の担当ではない。
「次の極論だな」
更に進むと、地上へと登る別の階段の陰で、下半身を丸出しにした男の前に跪いて、モノを咥え込んでいるいる別の男がいた。下の男が忙しなく首を前後させるのに併せて、咥えられている方は「おぉぉぉ・・・」と不気味な声を上げて宙を見上げている。その気持ち悪い光景を見たくもない須藤は、跪いた方のケツが通路にはみ出しているのをいいことに、それを思いっ切り蹴り飛ばした。蹴られた男が思わず「ングッ!」と跳び上がってしまい、上の男はその弾みでイってしまったのか情けない声を漏らした。ケツを抑えながら「何すんのよっ!」と文句を垂れる男を無視して須藤は答える。
「確かにそういう状況なら、墓を建ててくれとか葬式を上げてくれとすら言わんと思うが・・・ 俺が気になっているのは、そういうことじゃないんだ。君をこの仕事に駆り立てているものが何かってことなんだ。今みたいな議論を超越したところに、君のモチベーションが有る様な気がしてね」
「モチベーションですか・・・」
「単に
「ケジメ・・・ みたいなものでしょうか?」
「ケジメ? 仕事を与えられた以上、その内容は問わず最大限の結果を求めるプロ意識、みたいな意味かい? それとも・・・」
それ以上、言葉を繋ぐことは須藤には出来なかった。面と向かって聞いたことなど無いが、松尾だって他の女性と同じように子供を産めない身体になっている可能性は高い。その想いこそが、彼女がこの仕事に打ち込むモチベーションになっているのかもしれないではないか。そんな女性の最も敏感な部分に土足で踏み込むようなことは、いくら須藤にも出来るはずは無い。しかし松尾はあっけらかんと応えるのであった。
「これも一旦始めてしまった以上、今更止められないっていうだけの話かもしれません。でも主任なら、私のこのケジメを受け入れてくれそうな気がしています」
松尾は意味深に微笑むだけだ。おそらく今まで松尾が話してくれたことが、奈落の子供達を取り巻く大人達の、勝手な都合の全てなのだろう。あとはそれをどう受け取って、どう行動するかという個人の問題だとでも言いたげに、彼女は清々しい顔で振り返った。その顔を見て、彼女の言う通りなのかもしれないと須藤は思った。いくら考えたって答えは出そうにない。そこでどんな理屈をこねたところで、それが万人の納得する答えであるはずなど無いに違いない。
そして彼女は、須藤の顔を見ながらある店のドアをそっと引いた。店の前に置かれた看板 ──内部に照明が組み込まれたものだが、電源は供給されていないようだ── には、『J』とだけ書かれてある。元はレストランか何かだったようだが、いったい今はどんな商売をしているのやら。須藤はそんな思いで松尾の後ろに付いた。
丁度その時、勢いよく開いた店のドアが松尾を吹き飛ばし、彼女は尻餅をついた。
「キャッ」
辛うじて転倒は免れた須藤であったが、松尾の身体を支えきれず片膝を付く。そして中から飛び出して来た少年と目が合った。リョータだった。
「待て! リョータ!」
脱兎のごとくリョータは走り出す。直ぐさま立ち上がり、それを追おうとした瞬間、須藤はリョータの手が赤く染まっていたのに気が付いた。店の内部で何らかの犯罪行為が行われたことを直感する。
「リョータ! 待ちなさい!」
叫んだ松尾が立ち上がり、彼の後を追おうとするのを須藤が制する。
「松尾! 無駄だっ! 中が先だっ!」
リョータのことは放っておいて、須藤は中を警戒しながら自分の身体をスルリと店内に忍び込ませた。走り去るリョータの背中を名残惜しそうに見つめていた松尾は、気持ちを入れ替えたように振り返り、須藤の後を追って店の中へと消えた。
壁に張り付くようにして、奥の様子を探っている須藤に追い付いた松尾は、彼が上着の中に右手を忍ばせ、拳銃のホルスターに手を添えているのを認めた。奥の様子はまだ判らない。リョータの仲間が、まだ中に潜んでいるかもしれないのだ。少年達が武器を所持している可能性が有る以上、当然の判断だろう。その姿を見た松尾は、彼がかつての『冷徹の須藤』に戻り始めていることを感じ、頼もしく思うのだった。
内部に人の気配が無いことを確認すると、須藤は音もたてずに一気に部屋に進入した。松尾もすかさず続く。そして最初に声を上げたのは松尾の方だった。
「主任! 淳二がやられてます!」
そんなことは見れば判る。ソファの手前側に、胸から血を流す下着姿の男が横たわっていた。こいつが松尾の言うジェイという男なのだろう。それよりももう一人、同じソファの向こう側に女がいる。松尾は女の存在には触れていなかったはずだが・・・
女はジェイとは異なり全裸で、左半身が真っ赤だ。首から流れ出る鮮血が彼女の豊かな胸を濡らし、ピクピクと痙攣する度に形の良い乳房が揺れている。しかのその顔面は蒼白で、虚ろな視線を宙に漂わせているだけだ。微かに開いた口から洩れる声も、ただの呼吸音とさほど変わらない。女の生命活動がもう直ぐ停止することは明らかだった。
松尾は自分が女性だからか、まず女の方に駆け寄った。或いはまだ息が有ると思える方を優先したのかもしれない。もしそうであれば、私情に流されず冷静な判断をしたと褒めてやりたいところだが、どのみち女の方は助からないだろう。
「マリアッ! マリアッ!」
女の頬に手を添え、話しかけようとしている松尾の背中に須藤の声が投げかけられた。
「その女も知り合いか? だがそっちは諦めろ。頸動脈が寸断されている。それよりこっちの男が、まだ息が有るぞ」
須藤がジェイを抱き起しながら言うと、向き直った松尾がジェイの肩を掴む。
「ジェイ! どうしてリョータがこんな・・・」
しかし須藤は、いつもより厳しい口調で松尾の声を遮る。
「そんなことはどうでもいいっ!」そしてジェイを問い詰めた。「リョータは何処へ行った? 知ってるんだろ!?」
余計なことに神経を割いている様では、死ぬか生きるかの修羅場を潜り抜けることなど出来ないことを松尾も学ばねばならない。安らかな眠りを阻害された子供のように、ジェイの顔が歪んだ。
「じ・・・ い・・・ ゴホッ、ゴホッ・・・」
口から泡立った血液がブクブクと漏れた。左胸を刺されているが、その刃物は胃か食道も傷付けたようだ。須藤は胸の傷口を右手で抑えて腹圧が漏れるのを防いでやり、ジェイが喋るのを手伝ってやった。
「アイツらの根城は何処だ?」
「ゴホッゴホッ・・・」
肺に溜まっていた血液が口から噴き出した。
「じ・・・ ちあ・・・ ぁく・・・」
ジェイの口元に耳を近づけていた須藤は、頭を上げて聞き返す。
「上智大学か? 四谷の上智大学か?」
既にジェイは息絶えていた。
「ジェイ! ジェイ!」
松尾はジェイの肩を揺するが、もう反応は無い。須藤は彼女の肩にそっと手を置く。松尾は息を飲むようにしてジェイの顔を見つめた。暫く見ない間に、随分と大人っぽくなっていたものだと、その時になって初めて気が付いた。いっちょ前に無精髭なんか生やして。子供だとばっかり思っていたのに・・・。
「もう逝かせてやれ」
勿論、見ず知らずの他人ではない。かと言って、特別な依存や信頼関係が築かれていたわけではなかったし、ましてや恋愛感情を育んでいたわけでもない。ひょっとしたらジェイは、自分をそういう目で見ていたかもしれないが、それを確認する機会は永久に失われてしまったようだ。二人は単に、昔から知っている間柄でしかない・・・ のだと松尾は思った。それ以上の関係ではないことが判っているのに、どうしてこんなに気が重いのだろう?
間際のジェイが、虚ろな目で松尾を見たような気がした。項垂れる松尾に、躊躇いがちな須藤が話しかける。
「この男は君にとって・・・ その・・・ どれ位大切な存在だったのかな? 先ほどの説明からは、その辺がチョッと・・・ 何と言うか・・・」
「ただの情報源です」
一瞬、虚を突かれたような顔になった須藤であったが、直ぐにいつもの表情に戻った。
「そうか。そう割り切るんだな?」
「リョータを追いましょう」
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