第十章:ゼロ
1
「ねぇ・・・ 最後にもう一度、セックスして」
須藤が撃った威嚇射撃の弾丸は地面に当たり、そこで変則的な跳ね返りの末にカナエの左脇腹に食い込んでいた。リョータがそれに気付いたのは、大学跡の廃図書館のねぐらに戻ってからだ。蒼白な顔でグッタリとしているカナエをどうしたらいいのか判らない。そうこうしているうちにも彼女の脇腹からは益々出血が進み、どんどん体力を消耗してゆく。
「最後なんて言うなよ! これからも何度だってしてやるよ! だから最後なんて言うなよっ!」
Jの店に連れて行けば何とかしてくれるかもしれない。どうにかしてカナエをあの店まで運べないか? しかしリョータの腕の中のカナエは、とても動かせるような状況ではないことが素人目にも明らかだった。
ここに帰るまでに、そのことに気付けなかった自分の軽率さに腹が立った。帰りに遊園地に寄ろうなんて言わなければよかった。首尾よく
「お願い・・・」
カナエの消え入りそうな声を聞くと、地下に潜って以来一度も流したことの無い涙が溢れてきた。これまで悲しいことなんて一つも無かったのに。自分が彼女にしてあげられることは、本当にもう残されていないのか? 懇願するカナエの頭を抱き寄せると、リョータはそっと口づけた。
二人は愛情を確かめ合うように重なり合った。リョータを見上げるカナエの顔には、蝋燭の炎のような儚げな笑顔が微かに湛えられている。彼女はリョータの動きに合わせて「ん・・・ ん・・・ ん・・・」と、囁くような声を漏らした。
しかし突然、その声が途絶える。その代わりに浮き輪から空気が抜ける様な「すー・・・」という微かな音が聞こえた。それは横隔膜が張力を失い容積を保持できなくなった肺が、リョータの重みで潰れて押し出された空気の音に違いなかった。リョータが動きを止めると空気が漏れる音も止まり、それ以降のカナエは何の音もたてなくなった。虚ろに開いた両目がリョータを見上げている。いやそれは、彼の顔を見ているわけではなく、そのずっとずっと後ろの遠くを見ているかのようだ。
そこには何が見えた?
それは何か楽し気な物かな?
それは僕達二人の未来だった?
カナエの瞳に最後に映し出されたものが何だったのか、リョータには判らない。しかしそれが、彼女の心を浮き立たせるような幸せな風景であったならいいのにと思わずにはいられなかった。リョータは歯を食いしばったが、もう涙は流れなかった。近くを走る電車の騒音が重々しく響き、それを装飾するかのようにピチピチと流れる排水の音が聞こえた。
リョータはカナエの
「ここなら直ぐに土に還れるからね」
そう言葉を掛けながら、リョータは冷たくなったカナエを静かに横たえた。彼女の死に顔は平穏で、辛いことなど何も憶えていないかのような安らかな寝顔だ。
リョータにはよく判らなかった。勿論、カナエが殺されて凄く腹が立ったし、悲しかった。でもそういった気持ちとどう向き合えば良いのか、リョータの希薄な人生経験からは答えを導き出せるはずも無かった。心の中に沸々と湧き上がるこの言いようの無い気持ちが、人として妥当なものなのかすらリョータは知らなかった。だってカナエはリョータの持ち物ではないのだから。
自分の所有物ではないカナエを失うことが自分にとっていかなる意味を持ち、自分がどうすればいいのか、どう考えることが当然なのか、どうすることが許されて然るべきなのか、何もかもが判らないことだらけだった。
胸の前で組み合わされた彼女の両手は、色とりどりの色彩に溢れている。
「折り紙はここに置いてゆくよ」
それまで二人の生活に彩を加えてくれていた、カナエが大切にしていた折り紙を、その手に持たせてあげた。
思えば彼女はこの色紙だけを持ってリョータの前に現れた。あの、店から流れてくる音楽を聴いていた時のことだ。あの時、カナエは何かを探している風にしきりと辺りを見回していたが、いったい何を探していたのだろう? 今更ながらそんな疑問が湧きおこった。そして、それを確認しなかったことを少しだけ後悔した。自分は彼女が探していたものだったのだろうか?
あれから二人はずっと一緒だ。片時も離れることは無かったし、そしてこれからもずっと一緒のつもりだった。カナエと離れ離れになることなど頭の片隅にすら浮かばなかったし、想像することも出来なかった。それなのに。カナエはまた、この色紙だけを持って逝こうとしている。自分が彼女に何も与えることが出来なかったことを、リョータは改めて痛感した。自分はカナエにとって何だったのだろう? 自分と一緒にいることは、彼女にとって幸せなことだったのだろうか?
カナエを大切に思う自分の気持ちは、もの凄く的外れな感情なのかもしれないし、元々無かったものなのだから、それを失ったからといって何の意味も無いのかもしれない。もし誰かに聞いたら、そんな風な答えが返って来るのではないだろうか。
この世に神様なんていないことはとうの昔に気付いていたが、もし本当に神様がいるとしたら、こう言うのかもしれなかった。
そう、お前は元来、何も持ってなどいなかっのだ。
気が付いた時、お前は
その後、カナエが傍にいることが当たり前になった。
そして、それがお前にとっての日常となっていった。
でもカナエを失い、またゼロに戻った。
ただそれだけのことじゃないのか?
それをことさら騒ぎ立てようとすること自体、ひょっとしたら他の人には理解できないことなのだろうか? 今の自分と同じような立場に立たされた時、他の人ならいったいどうするのだろう? それとも何かを
カナエのすべすべした頬に手を添えると、彼女のコロコロと笑う声が聞こえるような気がした。楽しかった想い出しか思い出せそうになかった。
「ゴメンね。僕、どうしたらいいのか判らないや」
リョータはもう一度、カナエの額に口づけをした。心の内側で突如として隆起してきた、この得体の知れない起伏を抑え込むことが出来ず、リョータは考えることを放棄した。そして自分の行動に理由付けすることも、言い訳を添えることも諦めて、ただ感情の赴くままに行動することにしたのだった。だって岐路に立った時に、行く先を指し示してくれる誰かが傍に居ない場合はそうするかしかないじゃないか。さもなくば、何もせずにしゃがみ込むかだ。ただリョータの心の奔流は、そうやって一か所に留まることを許しはしないだろう。
カナエの傍から立ち上がろうとした時、背後に何かの気配を感じてリョータが振り返った。そこに居たのは、昨日二人で来た時に見かけた皮膚病の雑種犬だ。やはりここから抜け出すことは出来なかったのか。
もう何日も、まともな食事は採っていないに違いない犬は、再び現れたリョータの前でお行儀よくお座りし、何か食べ物を貰えるかもしれないという期待に尻尾を振った。リョータはあちこちのポケットに手を突っ込み、お菓子か何かが入っていないかと探してみたが、出てきたのは埃にまみれた糸くずだけだった。
「ゴメンね。僕・・・ 君にあげられる物、何も持ってないや」
がっかりした様子で肩をすくめて見せても、雑種犬にはその意味が汲み取れず、相変わらず尻尾を振り続けた。
ついさっきカナエに謝ったばかりなのに、また同じように、今度は犬に謝っている自分が滑稽でリョータはクスリと笑った。自分が何も持っていないことと、何も与えることが出来ないことは、似て非なるものだ。その事実が身につまされてリョータは俯いた。
そして再び涙が溢れてきた。もうどうしたらいいか判らない程の勢いで、それはリョータの頬を伝った。声を押し殺すことも出来なかった。子供の様に大声で ──いや、確かに彼はまだ子供なのだ── 泣き叫びながら、リョータはその雑種犬を抱き締めた。
「うあぁーーーん・・・ ここから・・・ ぐすん・・・ ここから、出してあげるよぉ・・・ うぇっ、うぇっ・・・ ぐすっ・・・ だってそうしないと、お前・・・ カナエを食べちゃうだろ? ・・・ぐすっ・・・ あぁぁぁーーーん、あぁーーーーーん・・・」
雑種犬は、初めてリョータが自分に対して反応を示してくれたことが嬉しくて、腰を上げて身体を擦りつけた。そして彼の頬を伝うしょっぱい涙をペロペロを舐め、更に激しく尻尾を振った。
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