須藤はここに来る途中、駅前通りにあった洋菓子店でエクレアの詰め合わせを買っていた。傍から見れば、家族へのお土産をぶら下げた幸せなお父さんといったところだろうか。しかし彼の隣にはヤクザと見分けがつかない程の凶悪な面構えをした、体格の良い男が連れ添っている。

 「いいか、須藤。決して謝罪はするな。判ったな」

 暴力団等の取り締まりを担当する捜査四課の課長だった。見た目で舐められては仕事に支障を来すからだろうか、四課の面子はどれも極悪非道な外見を持つ。

 「はい・・・ 刑事課長デカちょう・・・」

 そんな中で須藤は、むしろその若さによって紳士的な印象すら与える容姿であったが、周囲の者はそのポーカーフェイスの下に潜む非情な冷酷さの存在を知っていた。だが、そんな怖いもの知らずの須藤も、今日だけは消沈した様子だ。こちらの話が耳に入っていない風の彼を見た刑事課長は、先ほどから繰り返している忠告を再び持ち出した。

 「謝っちまったら、警察のミスを認めることになるんだ。判ってるよな?」

 「はい・・・」

 「それで? これから逢うのはほとけ情婦いろか?」

 「いえ、女房です・・・ 娘もいるそうです・・・ 二人とも日本人です」

 「そこが厄介なんだよなぁ・・・ 対応を間違えると、かえって面倒なことになるから気を付けるんだぞ」

 それは中野坂上にある、絵に描いたような安アパートだった。壁は所々崩れかけていて、二階に登る金属製の階段も、乱暴に登ったら足元が抜けそうだ。アパートの前には申し訳程度の駐車場が存在したが、そこに車を停める者はいないのか、砂利敷きの地面からは雑草が伸び放題だ。このアパートに住む人間で、車を購入する余裕の有る者などいないに違いなかった。須藤達が向かったのは一階の一番奥。105号室だった。


 勢いよく飛んで来た箱は須藤の胸にぶつかり、スーツに汚れを残して下に落ちた。彼の足元には安物のサンダルやら子供のシューズが散乱している。アパートの一室の靴脱ぎに散らばるそれらの上に落ちた箱がその混沌に拍車をかけ、中からひしゃげたエクレアが顔を覗かせた。

 「確かにうちの人はクズだったさ。あんたらの言うところの人間のクズさ。でもね、殺されても仕方ないほど悪い事をしたのかい? 殺した奴が何の罪にも問われず、のうのうと生きていくことが許されるほどの悪事を、うちの人がはたらいたって言うのかい?」

 エクレアを投げ付けた周の女房が須藤達を睨みつけた。薄汚れたスェットの上下を着て、その顔には化粧っ気も無い。櫛を入れてもいない茶色のボサボサ髪の分け目からは、数センチほどにもなる白髪交じりの黒髪が顔を覗かせている。

 「警察の考えていることは判ってるさ。私らみたいな虫けらの命なんて踏み潰しても構いやしないんだ。踏み潰した数にも入らないんだろ!」

 彼女の背後には、親子三人が慎ましく生きてきた生活の風景が垣間見えた。壁に貼られた中国風のポスターや、子供が貰ったのであろう何かの賞状も額縁に入れて飾られている。無造作に張られたロープにはヨレヨレになった洗濯物が干しっ放しで、おそらく畳んで仕舞うタンスすら無いため、そのロープから直接取り外して使っているものと思えた。部屋の一番奥は直ぐに突き当りで、六畳ほどしかない和室に付帯する一畳ほどの板の間がキッチンのようだ。そのシンクと思える流し台には、洗い物が山となって積み重なっているのが見えた。

 「いや、とんでもないです、奥さん。ですが我々警察は、当時の状況を踏まえ拳銃の使用に問題は無かったと・・・」

 「アンタは黙ってなっ!!!」

 視線を落とす須藤の横に控えていた刑事課長が堪らず口を挟んだが、女房ははなっから話を聞くつもりなど無いようだ。一段と跳ね上げた剣幕で刑事課長を一喝すると、再び須藤に向かった。

 「あんたらには判らないだろうけど、クズはクズなりに生きてゆく理由が有るんだよ。この子の父親は、クズでも何でもあの人しか居ないんだ。警察にとっては取るに足らない命だったかもしれないけど、あたしらだって人間なんだ! 刑事が好き勝手に履いて捨ててもいい命なんてね、この世には無いんだよ! そんな驕った人間が正義漢面してんじゃねぇ!」

 自分が発した言葉に自分自身が触発され、彼女は次第に興奮の度合いを高めていった。その口調もどんどん激しさを増す。

 「てめぇら、この子の父親を殺した十字架を一生背負って生きてゆきやがれ! 勝手にその十字架を降ろしたら許さねぇからな! あたしらを差し置いて幸せになんてなったら、絶対に許さねぇ! 上等な服着たりデカい家に住んだり、高い車に乗るんじゃねぇ!」

 既にその目には、常軌を逸しているのではないかと思えるほどの怒気が満ちていた。人が人に対し、これほどの憤怒を向けることが出来るのか。

 「旨いもん食うことも許さねぇ! 笑うことも許さねぇ!」

 須藤は彼女の顔を見ずとも、その全てを全身に受けて打ちひしがれた。

 「もしてめぇがニコニコ笑ってる姿を見たら殺してやる! 絶対に殺してやる! 自分の命に代えても、絶対にお前を殺してやる! 判ったか! このクソ野郎!」


 それを治めることなど出来ないと思われた女房の怒りは、彼女の背後に隠れるようにして寄り添っていた少女によって急激に萎んだ。これまでに見たことも無いような激高を見せる母親に恐れをなした娘が、遠慮がちにその腕を引っ張ったのだ。少女は母親の腕にすがり付くようにしながら、恐る恐る前を覗き見ている。周の女房はクルリと振り返って膝をつくと、背後にいた娘を抱き寄せた。

 「あぁぁ、メイファン・・・ ママが居るから大丈夫だよ・・・」

 須藤はやっと気が付いた。あの金メダルに書かれていた文字は、この娘の名前だったのか・・・。

 娘の肩に顔を埋めて泣き出した彼女はそれ以降、須藤達の言葉には一切の反応を示さなくなった。娘は抱くすくめられながら、母親の肩越しに須藤の顔をジッと見詰めている。少女の無垢な視線は、容赦なく須藤の心を串刺しにした。その鋭利な感情で研ぎ澄ました矛先は、何度も何度も須藤を貫き、その度に彼の心は血吹雪を上げた。

 それでも須藤は少女の眼差しから目を背けることが出来なかった。それを受け止めねばならないという義務を課せられたのだ。自分は生涯、この罪を贖って行くことになるのだろうと、そんな想いに心を委ねながらボンヤリとその光景を見ていた。これが『冷徹の須藤』が死んだ瞬間である。

 その時、周の女房が誰に言うとも無く、涙声を漏らした。

 「これから先、あたし達はどうやって生きてゆけってんだよ・・・」


*****


 ・・・十五年前のあの娘は今頃、どうしているのだろう?


 須藤の告白を黙って聞いていた松尾は、まるで須藤と同じものが見えているかのように宙を見上げていた。対して須藤は自分の足元を見つめるように俯いた。心の中にわだかまっていた澱の様なものを吐き出せば少しは楽になれるかと思っていたのに、実際は心苦しい想い出をリピート再生して、更に深く心に刻み込んだだけだった。

 あの安アパートで投げ付けられた罵声が、今でもありありと蘇ってくる。怒りを通り越した先にある狂気が、周の女房の瞳に宿っていたことが思い出された。彼女に抱き寄せられた娘の純粋無垢な瞳が、じっとこちらを見ていた光景が目に焼き付いて離れない。


 何も映し出しはしない下水管の漆黒のスクリーンから視線を外し、須藤を見た松尾は躊躇いがちに声を掛けた。少し気まずそうだ。

 「主任・・・ これ・・・」

 そう言って彼女は、リョータが逃げ去る際に投げ捨てた凶器を差し出した。

 「すみません・・・ ヒンヤリした金属の感触で、つい足が竦んでしまいました」

  松尾に手渡されたそれを掌で弄びながら、須藤はその重みを感じた。あの時の金メダルよりも、ずっと重いと思った。

「気にするな、俺もナイフだと思った。この薄暗い状況では致し方ないさ」

 須藤はその折れてしまった自転車のブレーキレバーを投げ捨てた。

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