第九章:ウサギの金メダル
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「主任! 構わず撃って下さい!」
背後から松尾の首に左腕を回したリョータが、彼女を盾にするようにして後ずさった。リョータの右手は彼女の首元に添えられ、そこには鈍い金属光沢が覗いている。身長では松尾の方がまだ若干高いようだったが、子供の殻を脱ぎ去りつつあるリョータの力には抗えないようだ。
あのターミナルで須藤と松尾は別れ、彼女は本部との通信が可能なエリアへと向かったはずだった。しかし運悪く、もしくは運良くリョータ達もそちらの方向へ逃げていたのだ。予期せぬ所でターゲットと接触した松尾は、果敢にも一人で彼らを追ったのだが、奈落を熟知するリョータの方が一枚上手だったと言うことだろう。松尾からの無線を受け急行した須藤であったが、時すでに遅く、松尾はリョータの手中に落ちていた。
「松尾! 怪我は!?」
ホルスターから取り出した拳銃を構え、須藤は大声を上げた。その照準はリョータに向けて固定されてはいるが、松尾の背後に隠れている彼を的確に撃ち抜くことなど出来るはずも無い。
リョータの更に後ろに控えている女児が言った。須藤達にとってカナエは、初対面ということになる。
「リョータ・・・ やめなよ。さっさと逃げようよ・・・」
するとリョータが首だけをカナエに向けた。
「ジェイが言ってたこと忘れたのか、カナエ!? こいつらに捕まったらどうなるか!」
その会話を遮る様に松尾が叫んだ。
「本部とは連絡が取れてます、主任! 拳銃の使用は許可されています!」
それを聞いた須藤は、ギリリと奥歯を噛んだ。リョータがナイフを持ち出すなんて。須藤は意外な思いを抱いたまま松尾の声を聞いた。やはり好戦的な(
それでも引き金を引くことが出来なかった。
「動きを止めるだけでいいんです、主任!」
喋り過ぎる松尾に対し、今度はリョータが、彼女の首に押し当てているナイフを持つ手にグッと力を込めた。松尾は「ウグッ」と喉を詰まらせ、そのヒンヤリとした感触に触発された背筋が凍るのを感じた。先ほどのターミナルで、血を流していた面々が思い出されたのだ。
須藤は松尾の後ろに見え隠れするリョータに集中しようとしたが、やはり無理だった。この状態で撃っても、松尾に当たってしまう確率の方が高い。
「やめろ、リョータ! お前らしくないじゃないか。これ以上人を傷付けると、これまでの鬼ごっこじゃ済まなくなるぞ」
くそ・・・ この歳になって拳銃を撃つことになるなんて。須藤がそう思った瞬間、その場にいた四人は地響きのようなものを聞いた。地下鉄の音か? いや、チョッと違う。どこか遠い所で工事でもしているような・・・ そこまで考えた須藤は、その音源に思い当たった。ドームだ! 東京ドームの歓声が地響きのように聞こえているのだ。この数メートル上方では、何万人もの人間が野球観戦に興じているというのか? そう考えると、自分達が置かれている状況が何とも滑稽に思えてならなかった。現実離れしているような気もした。竹内も天本も助からないかもしれない。斎藤の脚は折れている様だったし、今枝に至っては人相が代わる程打ちのめされていた。いったい自分達は子供相手に何をやっているのだろう?
しかしリョータにとっては阪神対巨人の試合などどうでもいいらしく、感傷に浸っている暇など無いようだ。松尾の動きをナイフで抑え込んだまま、彼女が遮蔽物になる位置を保ちつつジリジリと後退した。そして腰高ほどの位置に有る直径五十センチ程の側孔に、後ろ向きのままスルリと身体を滑り込ませた。松尾の首には、まだ腕が掛けられたままだ。そしてリョータはカナエを引っ張り上げようと、右手に持っていた凶器を投げ捨てて腕を伸ばした。「カナエ! 逃げるぞ!」
カラン、カラン、カラン・・・
リョータが凶器を放棄した瞬間を逃すはずは無かった。松尾はがむしゃらに身体を動かし、リョータの左腕の拘束を解いた。リョータはカナエの腕をグィと引く。同時に松尾は横に飛び退いて叫んだ。
「主任!!!」
「ぐぁぁぁぁーーーーっ!」
須藤の叫びとも唸りともとれる声に続き、彼のニューナンブが火を噴いた。
パンッ・・・
カナエの足元で一瞬だけ火花が散った。威嚇射撃だった。須藤の声はコンクリートで固められた地下空間で激しく乱反射する銃声にかき消された。カナエの腕を引き上げながらリョータは思った。先ほどシンジが撃った時と全く同じ音だと。
そして直ぐに、カナエの身体も側孔の中に消えた。最後まで見えていた両脚も見えなくなった。二人は須藤達の前から姿を消した。
二人が逃げ去った側孔を茫然と見つめていた松尾が、意を決したように立ち上がると須藤に詰め寄った。
「どうしてリョータを撃たなかったんです!? 千載一遇のチャンスだったのに!」
「子供に向けて引き金を引くなんて、出来るか! それに・・・ それに俺の射撃の腕じゃ、君に当たっていたに決まっている・・・」
須藤は意気消沈したように言葉を濁した。それでも松尾は引き下がらなかった。
「今枝さん達の惨状、見ましたよね? 天本さんが撃たれたんですよ! 彼らは一線を越えたんです!」
「俺には出来ない・・・」
そして須藤は脱力したようにその場に座り込んでしまった。彼は子供の様に膝を抱え、長いため息をついた。須藤は繰り返した。
「俺には出来ないんだよ・・・」
今まで見たことの無い須藤の様子に、松尾は息を飲んだ。
「主任・・・」
やはり須藤は心に何かを抱えて生きているのだ。『冷徹の須藤』と呼ばれた刑事がここまで弱気になってしまったのには、何か理由が有るはずなのだ。
「すみません。ついカッとなって」
その謝罪が須藤の耳に届いているのかどうかすら判らなかったが、松尾は彼の隣にそっと腰を下ろした。須藤はそのままの姿勢で、まだ硝煙臭い拳銃を弄びながら、身体を揺すっている。薄暗くて判り難いが、彼の顔色は蒼白なのかもしれない。
「こんな私で良ければ話は聞きますが・・・」
そう言って松尾は須藤の横顔を見た。須藤は前を向いたまま、松尾に視線を送ること無く重い口を開き始めた。
「あれはうだるような暑い夏だったよ。歳は今の君と大して変わらなかったかな。まだ若かった俺は、歌舞伎町で起こったある事件の捜査を進めていたんだ・・・
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